#1309 10年を超えて父子ふたたび分袖を合しぬ
それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。
ぶんせいむが出した娘の婿募集の広告の不思議さは、電報や郵便でたちまち広がり、三人寄れば「君は申し込まれたか」と問い返すほどの事。新聞の売れ高は大統領選挙を書いた時より二倍三倍のよし。なかには、偽りか誠かと社説で論じる小新聞もあります。広告を載せた新聞社の門前には来客の山。社員が昨夜、ぶんせいむのもとを訪れ、申し込みの人数を尋ねると、わずか百名に過ぎないと不満気に答えます。世の人が申し込みに躊躇するのは、広告の内容の覚悟と主意、それが誠意から出たものか滑稽から出たものか断言できないからであり、そこで、ぶんせいむの性質行為を報じ、世の人が判定を下す材料にしようとします。ぶんせいむは1817年にポーツマス港の町外れの荒屋で生まれます。母は出産が原因で亡くなり、父は波止場の人足になるがどうしようもないため、隣家の老婆に託しますが、その老婆も五歳のときに亡くなります。六歳のときに小学校に入りますが、算術と体操遊戯を学ぶのみで、教師を困らせます。十二歳のとき父と海岸を歩いているとき、大船が停泊しているのを見て、誰の所有かと聞くと、父はピーエー会社のものだと答えます。その右の船も左の船もピーエー会社だと答えます。同じ所有主であることを聞き、茫然として父を見ると、みすぼらしい服を着て、なにも所持していないその姿に涙ぐみ、ぶんせいむはピーエー会社の旗を睨み、拳を握り唇を嚙み、低く太き呻り声を発します。翌日、父の枕辺に「我は三艘の大船を率いて帰りくる。父よ暫く待ち給え」という手紙を残して船に乗り込みます。それから七年後、二百ポンドの金とともに「我は東インド会社の機関士となりて、月に四十ポンドを得ている。願わくば数年待ち給え」という手紙を父に送ります。
「亜濠」は、東南アジアとオーストラリアの間の海域のアジア・オーストラリア地中海のこと、「すもたら」とはスマトラのことです。
「膠漆」は、にかわとうるしのことで、どちらも接着剤の役割があることから、固く結びついて容易なことでは離れない交友関係のことを「膠漆の交わり」といいます。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!
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