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#1332 知っているはずはありませんが……いいえ、知っているはずですよ……知らぬはずはありませんよ

それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。

青木よき程に茂って、暑さも小川の水泡とともに流れ去る景色。庭には、イタリア製の寒水石の大亀の噴水、蔓草をからませて屋根としたる東屋、ここは5万坪の広大なぶんせいむの下屋敷。戸の外からじやくそん夫人がるびな嬢に声をかけます。「お嬢様、蒸しますのにご書見ですか」「絵を描いていたのさ」「墨絵の枯木に鳥ですか」「枯木ではないよ。新橋色という顔料で葉が描いてあるのだよ。高窓の日除けがただの白い紗じゃ面白くないから何か描いてみろとお父様がおっしゃるから、これを明日掛けておくのだよ。そこの高窓は西だから夕日がきらきらすると、熱を感じて、葉が青く現れて、日が没すればまた白くなってしまうのよ」「それだからしんじあ様の真似をして、うちの夫までが妙慧だの優美だのとあなたを褒めていますわ」「からかってはいやよ」「しんじあ様は、世間の婦人がこの令嬢のようであったら、自分が口をたたかずとも、平和と清浄の世界ができるだろうとおっしゃりますよ」「うそうそ、しかし世間の紳士が皆しんじあ様のようであったら平和と清浄の世界ができるだろうよ」「おやおや似た者夫婦ですかね」「しかしあの広告の一件、どうした事でござります……ぶんせいむ様のお心も豪気すぎるようです」「わたしにお父さんの心はわからないよ。あの広告を新聞に出した前の日の夜、わたしとしんぷる夫婦を呼んで、『おれも七十余、娘は十九、よい婿を取って楽をしたいが、よかろうか』と尋ねるので、しんぷる夫婦は『まことにごもっとも』、わたしは『はい』と言ったのさ。するとお父さんが『世の中の夫婦をみるに、容貌・気質・財産などを標準として互いを選ぶが、これはただ嗜欲好尚を満足させることを目的としてするのだから、ややもすれば満足を得られないのみならず、ほかの点で不満足のことを見出して、ついに不幸の生活で終わる……またひとつは、人を看破する眼力のない者が、みだりに目の前のことに眼が眩んでたちまち選定するからだと思うがどうだ』と言うから、しんぷる夫婦も私も「道理です」と答えたのさ。それからお父さんは笑いながら『辛酸を嘗めつくし一文なしから二億の財産を拵えたおれは見識も眼力も強いだろう。それならおれが最もよい婿を取ってやる』と言って、どうなさると思っているうち、翌日の新聞を読んで実に驚いたよ」「まあ呆れましたね。あなたの夫を定めるのですから権利はあなたにあるはずですのに」「理屈はそうだが、お父さんに背くも面白くないし、たぶん広告の最後の条に相当する人がいなくて、無駄になるだろうと思っているよ」

「あなたは平気で居らつしやるが、貴嬢[アナタ]の思ふやうな人は、申込[モウシコミ]さうもありませんよ。なに、妾[ワタシ]が貴嬢[アナタ]の思ふ御人[オヒト]を知[シッ]て居る筈はありませんが、……いゝえ、知[シッ]て居る筈ですよ。御幼少時[オチイサイトキ]から去年までも、貴嬢[アナタ]の御傍[オソバ]にをりながら、貴嬢[アナタ]の御心[オココロ]を知らぬ筈はありませんよ。それだのに御隠しだては恨[ウラミ]ですよ。しんじあ様は御申込[オモウシコミ]にはなりますまい。あれ程貴嬢[アナタ]を尊んでは居らつしやるけれども」。
「えゝ」。
「しんじあ様の御仰[オッシ]やるには、『貧究[ヒンキュウ]は獣を人となし、富貴[フウキ]は人を妖[ヨウ]と化するといふ古言[コゲン]があるが、不死不老の金丹[キンタン]などゝいふ事も多くは富貴[フウキ]の人の描き出した想像で、不愉快の感をもたずに愉快の生活計[バカ]りする者を得たいなんぞといふも、人生の欲にわき足りるより起[オコ]つた迷ひだ』とて、實は良人[ウチ]がしんじあ様に、申込[モウシコミ]をなさいと御勧[オスス]め申しましたら、御話[オハナシ]があつたさうですよ。何にしろ二三日[ニチ]の中[ウチ]妾[ワタシ]が御連れ申しませうが、よう御座いますか」。
「あゝいゝとも」。
「左様なら御暇[オイトマ]」。
気軽者[キガルモノ]の立[タチ]かゝる外より、
「ちェりィか……明朝[ミョウチョウ]おれとるびなと一所に、避暑旅行に立つから、是れから、婢共[オンナドモ]を差圖[サシズ]して、るびなの旅装[リョソウ]の手傳[テツダ]ひをしてくれろ」といふは誰ぞ、頂上つやゝかに禿[ハゲ]て、白髯[シロヒゲ]胸にかゝり、両眼[リョウガン]の光り美しく、満顔童子[マンガンドウジ]のごとき此家[コノヤ]の主人[アルジ]ぶんせいむなり。

というところで、「第七回」が終了します。

さっそく「第八回」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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