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映画感想 スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム

 MCU映画は『アベンジャーズ』は第1作目以降見ていない。

 Amazon Prime Videoにてついに解禁! ジョン・ワッツ監督&トム・ホランド主演コンビのスパイダーマン3作目『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』。この頃のスーパーヒーロー映画は上映時間が延び気味の傾向があって、今回の『スパイダーマン』も2時間28分。さらにエクステンデッド・エディション版もあり、そちらでは2時間35分。もはや「長尺映画」の部類に入っている。
 スパイダーマン映画は内幕でいろいろトラブルを抱えがち……というのがある種の伝統で、今作も制作前にトラブルがあった。
 本作が制作される前、2019年、ディズニー/マーベルとソニーが利益配分を巡って対立をした。この諍いがもとで、スパイダーマン映画第3作目が制作中止……という事態に陥りかけていた。
 この辺りの事情をわかっている範囲で掘り下げていくと、『スパイダーマン』映画はほぼソニーが制作費を負担していた。興行収入の95%はソニーが持って行っていて、残り5%をディズニー。グッズ収入もディズニーが得ていた。
 ディズニーはこの契約に対し、興行収入50%を要求。もちろん『ヴェノム』シリーズも興行収入50%。ただし制作費はそっちが出してね、と言ったのだった。
 これに対してソニーは「っざけんな」と言ったか定かではないが、ディズニー側の要求を拒否し、『トム・ホランド:スパイダーマン』シリーズを打ち切りにしようとした。
 そこで主演トム・ホランドが両者の仲立ちに入り、ディズニーも制作資金25%負担し、興行収入も25%を受け取る……という契約で合意し、シリーズ中断の危機は回避された。
 まずディズニーが「制作費は出さないけど収益の50%ちょうだい」と言い始めたのがそもそもの問題。客観的に見ても「そりゃダメだろ」っていう話だった。トム・ホランドのおかげでどうにかまともな契約内容になって合意に至ったわけだった。
(……こうして見るとまともな大人はトム・ホランドだけだった。ディズニーは強欲だし、ソニーは大人げない)
 実はスパイダーマンシリーズはその以前からいろいろ内幕でトラブルがあって……それは後ほど話そう。
 本作の制作費は2億ドル。それに対して世界収入は19億1700万ドル。制作費、興行収入ともにシリーズ中もっとも高いが、公開初週だけで2億6000万ドルを稼いで黒字を出している。莫大な制作費だったがなんと3日で回収している。2021年映画のなかでも、その年でもっとも稼いだ映画となった。
 批評家によるレビューも凄いことになっていて、映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば高評価93%。平均点は7.9。シリーズ屈指の評価を受けることになった。作品が世界で売れただけではなく、評価も滅茶苦茶高い1本となった。

 では本編ストーリーを見ていこう。


 ミステリオの策略によってスパイダーマンの正体が暴かれてしまった!
 これによってピーター・パーカーは時の人となってしまう。ミステリオ殺害の犯人としてニューヨーク市民に注目され、好奇の目に晒され、自宅も学校も四六時中マスコミや野次馬に追跡されるようになってしまった。
 警察も当然ながら動いてピーター・パーカーは取調室でいろいろ探られる。警察もミステリオがヒーローで、スパイダーマンが殺害したと思っていた。弁護士の手助けによってピーター・パーカーは「証拠不十分」として不起訴処分になったが、しかし件のドローンはスターク社製だったため、会社への警察介入は回避できない。スターク社はこれ以来、スパイダーマンの活動に手助けできなくなってしまった。
 ピーター・パーカーは不起訴になったものの自宅は常にマスコミと野次馬だらけで、時々「ミステリオは英雄だ!」と書かれたレンガが投げ込まれてくる。落ち着いて過ごしていられない。そこでハッピーの住むタワーマンションへメイおばさんと一緒に移り住むことになった。
 ピーター・パーカーの次なる懸案事項は大学進学。友人たちとともにMITに願書を出すが……。
 結果は不合格だった。成績が悪かったわけではない。ここ最近の騒動があまりにもひどかったので、巻き添えを恐れた大学がピーター・パーカーとその友人達の入学を拒否したのだった。
 生活もできないし、将来も奪われてしまった……。そのとき、ピーター・パーカーはふと思いつく。そうだ、ドクター・ストレンジにお願いしよう!
 ストレンジの住むお屋敷に行き、「時間を巻き戻してくれ」とお願いするが、ストレンジはそれよりも「みなの記憶を消した方が良い」と提案する。その提案を受け入れて儀式が始まるのだが、ストレンジが「さらばだスパイダーマン」と言うのにピーター・パーカーはハッとする。魔法が発動すると全世界の人々がスパイダーマンの正体を忘れてしまうのだ! ドクター・ストレンジも!
 ピーター・パーカーは慌ててMJは外してくれ、とお願いする。ああ、そうだ、それからネッドも。親友なんだ。あ、メイおばさんも! 最初の時、大変だったんだ。うん、それでもういいよ。いや待ったハッピーも! とにかく以前から正体を知っている人は除いて!
 ……と何度も魔法を中断し、変更を繰り返した結果、魔法は暴走し、失敗してしまう。その後でストレンジは「大学側と交渉したのか?」と尋ねる。そうか、交渉するという手があったのか……! そのことに今の今まで気付かなかったピーター・パーカーはストレンジに呆れられて、屋敷から追い出されてしまうのだった。


 ここまでで25分。前半パート。
 2時間半の長尺映画になったのだけど、でも長尺映画特有のゆったり感はなく、いつものスパイダーマンらしくリズミカルにお話が展開していく。2時間半になったけれども、プロットはしっかり詰まっていて飽きる瞬間はない。

 やっぱり気になるのは、MCUとのクロスオーバー。私は『アベンジャーズ』1作目まではどうにか追いかけられたのだが、それ以降は見ていない。そのうち見よう、まとめて見よう……とか考えてはいたのだけど……。今から見るとなると何本くらい、何時間くらい見ることになるのやら。
 『スパイダーマン』シリーズだけはNetflixで公開されていたから全作見ることができたのだが、「トム・ホランド:スパイダーマン」になってから本格的にMCUとクロスオーバーするようになった。1作目はMCUとの関連はアイアンマンくらいなものだったが、2作目は指パッチンのブタゴリラと戦った後。「え! アイアンマン死ぬの!」と私はここで初めて知った。3作目は2作目の直後からお話しがスタートしているが、やっぱりMCUを知らないと厳しいところはある。
 まず弁護士のマット・マードック。盲目の弁護士……という明らかに目立った存在で何者かとわからなかったが、『デアデビル』の主人公。こちらはどうやらドラマ版があったようで、そちらと同じ出演俳優が出ていたらしく……。しかもそのドラマはNetflix配信。知らなかった。
 ドクター・ストレンジもどこで知り合いになったのやら……。しかも時系列的に言って、ドクター・ストレンジの単独主演の映画が本作の後ということになっている。
 知っていないと映画を100%楽しめない。知っていたら120%楽しめる。クロスオーバーを繰り返していくと、どうしてもこの問題に引っ掛かっていくようになる。

 第3作目『ノー・ウェイ・ホーム』は第2作目の直後からスタートする。ミステリオの「スパイダーマンの正体はピーター・パーカーだ!」が冒頭シーンにあり、ピーター・パーカーはニューヨーク全体から注目されてしまう。ミステリオは英雄だと思われているから、スパイダーマンは憎まれる存在に。それによって私生活が破綻し、さらに将来にも暗雲が漂う……。
 昔からスーパーヒーローは「誰も知らない知られちゃいけない」と言われるが、その理由の一つでもある。正体がバレると、私生活がまともに送られなくなる。しかもウソとは言え、醜聞。私生活が機能しなくなってしまう。
 この作品の場合、「ミステリオによるウソ」というわかりやすいファクターがあったけれども、有名人になったらいわゆる“アンチ”と呼ばれる人は付くもの。こういう人が陰謀論にのまれてウソを信じ、その有名人を憎むようになったり、最悪の場合ナイフを持って殺しにかかったりする。
 有名人の怖いところは人々の過剰すぎる期待と、期待の裏腹に失敗したときの失望を向けられてしまうことだ。時にはその人が個人的に背負っている葛藤も向けられることもある。(例えばジョン・レノンを殺したマーク・チャップマンみたいな話)
 大きな力には大きな責任が伴う。大きな力を持ってしまったらそのぶん注目されて、背負わされる期待も大きい。その期待に応える続けるのもスーパーヒーローの責任でもある。
 でもピーター・パーカーはまだ18歳の少年で、そんなの背負いきれない。

 そこでピーター・パーカーはドクター・ストレンジのお屋敷へ行き、魔法で全世界の人々の記憶を改竄しようとする。
 ここのシーンはまず事前打ち合わせしておけ……という話。詠唱が始まってから「全世界の人々の記憶を変える」……ということに気付いてピーター・パーカーは慌てて魔法内容の変更をお願いする。それが原因で魔法が失敗してしまうのだが……。
 どうしてこんな失敗をしでかしてしまうのか、というとピーター・パーカーがまだ子供だから。自分の将来についてどうしたいのか、自分と世界との関係がどうありたいのか、そういうのを整理しきれていない。ただ情念だけで突っ走ってしまう。スパイダーマンというキャラクターがまだまだ子供……ということを表現するために、こんな展開が取られてしまっている。
 ストレンジが「共に戦った仲だからつい忘れてしまう。まだ子供なのを」……とわざわざ明言して、印象づけをしている。こういうのもわかりやすくするための配慮だ。
 でもそれが「別次元のピーター・パーカー」が抱えていた葛藤とリンクすることになってしまい……。

 続きの話を見てみよう。


 大学側と交渉したら、まだ可能性はあるかも知れない。自分はいいけど、自分のせいで将来が断たれたMJとネッドの入学を認めてもらわないと……。
 ピーター・パーカーはMIT副総長補佐の車を追って高速道路へと向かう。そこで副総長補佐を見付けるのだけど、謎の何者かが襲ってきた。その何者かは金属のアームを体に取り付け、暴れ回ったうえにスパイダーマンの姿を見て「よくも私の装置を」と憎しみを向けてくる。
 どうやらスパイダーマンを知っているようだけど、スパイダーマンは記憶にない。しかしその何者かは問答無用で襲いかかってきて、戦わねばならない。
 戦いはオクトパスの持っているアームをハッキングし、無力化させて終了。副総長補佐にMIT入学を認めてもらえた。
 一件落着……と思ったところに謎の笑い声が。高速道路上に爆弾が放り込まれて、全身緑の怪物が姿を現す……!
 というところでピーターはドクター・ストレンジの屋敷にワープしていた。先ほどの魔法の失敗により、次元の扉が開き、ピーター・パーカーの正体を知り、憎むヴィランを別次元から引き寄せてしまった。ニューヨーク中に次々とヴィランが出現するのだが、そのヴィラン達はトム・ホランド:ピーター・パーカーを見ても「彼じゃない」と答える。スパイダーマンの正体を知っているけど、トム・ホランド:ピーター・パーカーを知らない、ということは別次元からやってきた証拠だった。
 こうなったのは君の責任だ。ニューヨーク中のヴィランを集めてくるのだ――ピーター・パーカーはそう指令を受けるのだった。

 MJとネッドを屋敷に呼んで協力してもらいながら、ヴィランの1人を発見する。そのヴィランは郊外の鉄橋で電気を吸収していた。さらに全身砂まみれの男も出現する。マックス・ディロン/エレクトロとフリント・マルコ/サンドマンだ。
 エレクトロの電撃を抑えて説得し、連れてくることに成功。サンドマンは自らついてきてくれた。
 あとはグリーン・ゴブリンだが……。捜索をしているところに、メイおばさんから連絡が入った。支援所にノーマン・オズボーンが現れたという。ピーター・パーカーが慌てて支援所にやってくると、そこには居場所を喪って途方に暮れている老人が……。ノーマン・オズボーンは自身の体内からグリーン・ゴブリンを追い出し、ただの1人の老人になっていた。


 ここまでで50分。ここまでが第2幕。

 設定説明的な前半パートから一転、楽しいアクションシークエンスに入っていく。しかもここから過去作に登場したヴィラン、出演した俳優がそのまま登場。そのヴィラン達と再戦すると……というあまりにも楽しすぎる場面に入っていく。
 戦闘シーンもなかなか楽しく、スパイダーマンがスターク社製肝いりのハイテクスーツになったために、戦い方も異なる。過去作登場ヴィランとの再戦だけど、かつてとぜんぜん違うアクションになっている。
 その結末も、オクトパスがスパイダーマン・スーツの一部を吸収したら、スパイダーマンはただちにハッキングしてオクトパスを自分の制御下に置いてしまう。これができるのも、スターク社製ハイテクスーツに変わったから。過去作のスパイダースーツはオンラインに繋がってすらいなかったもの。
 ほんのちょっとのインターバルを挟んですぐにエレクトロとの再戦。このパートはほぼバトルシーンだが、飽きることなく見ていられる。
 ノーマン・オズボーンは途方に暮れているただの老人になってしまっている。こちらの世界にはオズボーン社もない……という。もしもオズボーン社がある世界観だったら、ピーター・パーカーはスターク社ではなく、そちらのほうに行っているはずだから。こういうところで世界線の違いが明快になって面白い。

 これが今作が2時間半にもなってしまった理由。ヴィランが一杯登場しすぎる。しかし作品のコンセプトとして1人も端折るわけにもいかない。物語的なテーマとして、スパイダーマンの心情として、かつてのヴィラン達を全員呼び寄せて、全員面倒を見たい。その結果として尺が2時間半にもなってしまった。
 しかし尺が伸びてしまったから、といっても中だるみなく最後までしっかり楽しい。どのシーンもリズミカルに、コミカルに描かれている。2時間半もあるのにストレスのない作りになっている、というのは凄い。

 そんなこんなでピーター・パーカーは別次元のヴィランを集めることに成功するのだが、彼らを送り返すことには反対する。ヴィラン達は送り返されたらそのまま別次元のスパイダーマンに殺される運命だからだ。別に彼らが憎いわけでも、殺したいわけでもない。
 これが別次元のスパイダーマンが抱えていた葛藤。スパイダーマンはヴィラン達を殺したいわけではない。結果として殺してしまったけれども、その結末は望んだものでもない(特にグリーン・ゴブリンは親友の父親。グリーン・ゴブリンを殺したことによって親友が狂気に落ちてしまう……その切っ掛けを作ってしまったことに後悔があった)。ここでもスパイダーマンの「迷い」が掘り下げられていく。今回のお話しはスパイダーマンが自身の過ちと向き合い、受け入れていくまでのお話しなのだ。

 ここからヴィラン達のなかから「悪の属性」を取り除く治療が始まる。ヴィラン達を倒すのではなく、治療で正気に戻すこと。これがスパイダーマンが本来やりたかったことだった。
 しかしノーマン・オズボーンの中に眠っていたグリーン・ゴブリンが突如目覚めてしまい、スパイダーマンに襲いかかる。これに呼応してヴィラン達が暴れ出し、逃げ出してしまう。スパイダーマンはグリーン・ゴブリンを捕縛しようとするのだが、失敗した挙げ句、メイおばさんを死なせてしまう。ここでシリーズの名台詞「大きな力には大きな責任が伴う」の台詞が出てくる。

 さて、この後だ。これからでっかいネタバレをするぞ!
 ピーター・パーカーからの連絡が途絶えたネッドは、ドクター・ストレンジから奪った魔法の指輪でピーター・パーカーを呼び出そうとする。しかし現れたのは……アンドリュー・ガーフィールド:スパイダーマンだった!
 この場面、アメリカでは拍手喝采だったらしく、日本でも歓声があがったとか……。その現場に立ち会いたかったし、この展開を知らない状態でこの映画を観たかった。
 アンドリュー・ガーフィールドの登場はファンから早い時点で予想されていたことだったが、アンドリュー・ガーフィールドも自身の登場についてインタビューで聴かれても「出演していない」と答えていた。撮影も極秘裏に進んでいて、徹底した情報統制がしかれていた。だからこそ、拍手喝采が起きるほどの驚きがあったのだ。

 スパイダーマン映画はなにかと内幕に問題を抱えやすい。
 初代サム・ライミ監督&トビー・マグワイア版『スパイダーマン』は3作目に入って変な終わり方をした。私も当時見ていて、「あれ? 急に終わった」という印象を持っていた。どうやら『スパイダーマン3』は前後編の予定だったものを無理矢理1本にまとめてしまったために、消化不良で終わってしまった。『スパイダーマン3』はハリー・オズボーン、サンドマン、ヴェノムとヴィランが3人も登場していて、どう考えても2時間の尺に収まるようなストーリーじゃなかった。
 さらに4作目の計画もあったらしく、監督やスタッフ間で会議もしていてデザイン制作も進んでいたが、ソニー側の都合で中断。サム・ライミは今でも4作目の構想を捨て切れていないらしい。
 サム・ライミ版『スパイダーマン』を中途半端なところで打ち切りにして始まったのが、マーク・ウェブ監督&アンドリュー・ガーフィールド版『アメイジング・スパイダーマン』だった。
 2代目スパイダーマンは、サム・ライミ版がもともと評判がよかったためになにかと比較されがちな作品になってしまった。しかもストーリー内容がサム・ライミ版のほぼ焼き直し。こんな短時間でリブートかけた意味はあったのか? と疑問に思われても仕方ない内容だった。 (私は「これはアクションゲームの2周目だ」と思って楽しんでいたけれど)。3代目が設定やイメージを大きく変更されたのは、2代目の不評があったからというのは間違いない。
 その2代目スパイダーマンもMCUとクロスオーバーするトム・ホランド版が制作されることになり、たった2作で打ち切り。「不遇の2代目」となってしまった。スパイダーマン映画は会社側都合で、なぜか打ち切られたりリブートしたり……ということを繰り返していた。
 別次元のスパイダーマンが登場する……というときにまず登場したのは不遇の扱いだったアンドリュー・ガーフィールド版だったのは作り手にとっての「心残り」があったからで、その彼が拍手喝采で迎えられた……というのは報われた瞬間でもあった。
 今作が過去作のクロスオーバーという形を取ったのは、「スパイダーマンの心残りの解消」というテーマがあったが、同時に「作り手の心残りの解消」というテーマもあって、それがきちんと解消できている……というところに大きな意味がある。
 最初に話したように、3代目も内幕の問題があって「打ち切りの危機」に直面したが、どうにか解消して制作・完成にこぎ着けられた……という経緯があった。そういうつもりはなかったと思うが、作品を作るためにこうやって勝ち得ることに意味を与えた作品になった。

 3人の歴代スパイダーマンが集結し、改装中の自由の女神を舞台に最後の戦い……!
 これだけアクションが多い映画だと、どこかで「ここのアクションはいまいちだな」みたいなのが出てしまいがちなのだけど、そんなことはぜんぜんなく。どのアクションも楽しいし、印象深く作られている。似たようなイメージの繰り返しになっていない。最初のアクションからラストのアクションまでスケールが階段式になっている。クライマックスできちんと盛り上がるように計算されて作られている。このシーンのコントロールは、「流石」というしかない手際の良さ。
 それにアクション映画はアクションがはじまると物語進行は止まるもの。映画の世界における「物語」と「ドラマ」は定義が別で、アクション映画の場合、見せ場となる部分は「アクションシーン」となる。物語はアクションという見せ場をいかに盛り上げるか……そういう計算の上で作らねばならない。その設計がうまく行っているし、アクションの最中でも場合によっては物語もきちんと動いている。アクションが「浮いたパート」になってないのが良い。
 しかも『ノー・ウェイ・ホーム』はこれまでのスパイダーマン映画の総括になっている。スパイダーマン達が心残りに感じていたことを解消して元の世界に戻す……というお話し。スパイダーマン映画は理不尽な外部の力によって打ち切りや仕切り直しがあったのだけど、今回のお話しのおかげで過去のスパイダーマン映画で半端になっているところもきちんと完結してくれた。今までスパイダーマン映画を観てきた人に報いる物語になっているし、過去の映画関係者にも報いるお話にもなっている。
 スパイダーマン映画を愛して見てきた人は『ノー・ウェイ・ホーム』のシリーズに対する愛情深さを理解できるから、絶大な評価を与えてしまう。実際、内容を見ても納得の作品だ。

 戦いの後は、ピーター・パーカーが「全世界の人がスパイダーマンの正体を忘れる」ということを受け入れる場面へと進む。MJもネッドもハッピーもスパイダーマンの正体を忘れる。つまり、完全なる「孤独」になる。
 映画の前半で「孤独になる」という結末を受け入れられなかったのは、ピーター・パーカーがまだ子供だったから。ヒーローになる覚悟を受け入れ切れていなかったから。自分のために動いてしまった。
 ピーター・パーカーは自分が助かりたいから、みんなの記憶を消したかっただけなのか? それだとヒーローではない。友人の将来(大学入学)のために、自分を犠牲にする。それがヒーローとしての在り方。ピーター・パーカーはヒーローとしての義務――大いなる力を持った者としての義務を果たしたのだ。それができて、やっとピーター・パーカーはきちんとした大人になれた。『トム・ホランド:スパイダーマン』シリーズ3本を通してやっとできるようになったことが今回のラスト。少年期の終わりを描いて、今回のお話しは完結する。
 まず「魔法が失敗する」という過ちがあって、その間に過去のスパイダーマン達の過ちの物語……というのが挿入されて、その過ちを正していく結果、「魔法が失敗する」という過ちが解消される構造だ。テーマとの関連付けもうまくいっている。とにかくいろんなものがうまくいっていて、見ていて気持ちいいくらいだ。

 『トム・ホランド:スパイダーマン』が今作で終わりかどうかわからないけど……ジョン・ワッツは構想の段階であの『東映版スパイダーマン』も登場させたかったのだとか。さすがにこのお話しの中に変形ロボット・レオパルドンが出てきちゃったらプロットがぐちゃぐちゃになるし(お話しもさらに30分延びる)、そもそも若い世代は東映版スパイダーマンを知らない。結局、東映側から権利をもらえなかったからこのアイデアは諦めた……という話だが。どこかで「見たいかも」とはちらっと思う。


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