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映画感想 アイアムアヒーロー

 今回は日本発のゾンビホラー『アイアムアヒーロー』。
 劇場公開は2016年。監督は佐藤信介。佐藤信介監督は『GANTZ』、『デスノート Light up the NEW world』『いぬやしき』『BLEACH』『キングダム』と実写映画監督でありがながら、非常にアニメ界隈寄りの作品を制作し続ける作家である。CGアニメ映画『ホッタラケ島』という作品も監督している。それで、本作も見ていると、「ああ、これはアニメだな」と思えるところがちらほら……。そこは後々触れていくとしよう。

 では前半のあらすじを見ていこう。

 冒頭の舞台はとある漫画の現場。アシスタント達が愚痴をこぼしながら、日々の仕事をこなしている。そんな仕事場の端っこで、主人公・鈴木英雄も地味な作画作業を続けていた。
 漫画の現場の中でも、1人孤立してしまっている鈴木英雄。いまいちパッとしない男。妄想の中だけ勢いのある男……そんな男が鈴木英雄だった。
 彼女である黒川徹子と同棲している。彼女の待つ部屋に帰っても、特に対話もない。関係は冷え切っていた。
 鈴木英雄はアシスタント現場から帰った後、オリジナル作品の制作をやっている。しかしそれを編集部に持ち込んでも、軽くあしらわれるだけで、真面目に見てくれない。
 そんな鈴木英雄も、かつて漫画新人賞を獲得したことがある。……といっても15年前。連載も持っていたこともある。……それも遙か昔の話。
 自分は漫画でビッグになるはずだった。……それがどうしてこうなった。理想と現実はどんどん乖離していく。鈴木英雄は妄想の世界に逃げ込んでいくのだった……。
 現実は許してくれない。いつまで経っても成功の兆しすら見えない鈴木英雄に、黒川徹子はいよいよ我慢の限界……と鈴木英雄を部屋から追い出してしまう。
 鈴木英雄は仕方なく、仕事場で一晩を過ごすのだった。
 そんな翌日の未明。黒川徹子から電話がかかってくる。
「私、やっぱり英雄君と一緒にいたい……」
 鈴木英雄は大急ぎで部屋に帰るのだが、そこにいたのは、変わり果てた黒川徹子だった……。

 ここまでで15分。
 私は原作未読なので、冒頭の15分がちょっと長めに感じてしまった。しかし原作では単行本1冊使って日常描写を丹念に描いていたそうだ。その話を聞くと、「ああ、そうかなるほど……」と感じる部分があるのだけど、それは後ほど掘り下げるとして。

 まず冒頭の15分。
 なんですか、これ?
 いや、私の日常生活が描かれているのかと……。ほぼ私だよ、これ。
 うわー……痛いわ、これ。下手するとゾンビが出てきてからの本編よりも、この冒頭の15分が一番キツかった。
 なんで私のほうにダメージが来てるんだよ……。私に当てて描いてるんじゃないか、というくらい私の話だった(だから長く感じたのかな?)。
 私も次の作品こそは、ちゃんと売りこまないとな……。

 それはともかく、冒頭15分という時間をかけて描かれたのは、日常がいかにして壊れていくか。その異変の過程が描かれている。
 まず映画が始まって、最初はニュース映像。「45歳女性が土佐犬に噛まれて重傷……」というニュースの最後に「土佐犬が噛まれて重体の間違いでした」という、ちょっと「?」な感じの情報を置いておく。
 次に鈴木英雄が追い出された夜、公園のベンチでなんとなくヘンな感じの男性が座っているのを目撃する。でもまだ何も起きない。
 翌朝、黒川徹子の部屋に戻ると、すでにゾンビ化している彼女がそこにいて……。
 じわじわと変異を描いて、異常な世界観に引き込んでいく過程が良い。
 黒川徹子の身体描写だけど、これはCGとかではなく、ほとんどパフォーマーの身体技。通常の人間ではあり得ないような動きを、身体で表現している。見事な演技である。
 ゾンビ……といったけれど、いわゆるなゾンビと違って、この作品独自の生き物を描いている。作中ではZQNと……。ネットスラングのDQNとゾンビ(Z)を組み合わせた言葉だが……ZQNという言葉の推測も後ほど追求しよう。

 黒川徹子ZQNとの遭遇を経て、鈴木英雄は部屋を飛び出す。
 歩道橋を通り過ぎようとしたところで、腕を怪我した女性とすれ違う。空を見上げると、航空機の大群が一斉に飛び立つ光景を目撃する。
 でもまだ何が起きたのかわからない。
 とりあえず鈴木英雄は仕事場へ向かうのだが、そこはすでに惨劇の後。全員がすでにZQNに成り果てた後だった。
 慌てて飛び出す鈴木英雄。通りを見ると、まだ異変に気付いていない人達と、すでに異変に気づいている人達が半々くらいの状態。そこにZQNがちらほら現れてきて、次第にザワザワと異変が起き始める。
 カメラはハンディカムみたいなカメラで、主人公の動きを追いかけていく。カット変更は少しあるけれど、ほぼ1つのカメラで状況を追いかけていく。これがドキュメンタリー的な緊張感が出て良い。
 鈴木英雄が走って街の角を2つ曲がったところで、突如群衆が現れる。これまで絞り気味だった音声も、ここで一斉に「わー」と大歓声を響かせている。ここまでじわじわと丹念に描いてきていたが、この場面で一気呵成に「変異」の実体を見せる。この場面転換が素晴らしい。
 さらに角を1つ曲がったところで、タクシーを見付け、中に乗り込もうとする。そこにたまたま遭遇したのが比呂美ちゃん。ちょうど街の角を1つ、曲がったタイミングでストーリーが展開していくように描いている。「カット割り」の代わりに、「角を曲がる」ことをストーリー展開の切っ掛けに置いている。

 そのタクシーの中で、ニュースを見ていくのだけど、なぜかそこに『未確認で進行形』のアニメが。みかくにんぐッ╭( ・ㅂ・)و! やったね、実質、映画デビューだよ。とはいえ、いくらテレビ東京でもあんな朝の早い時間に、『未確認で進行形』なんかやっているだろうか……? という疑問はあるが。とりあえず╭( ・ㅂ・)وぐッ!
 ちなみに『未確認で進行形』は2014年のアニメ。『アイアムアヒーロー』は2016年の映画。『アイアムアヒーロー』の原作は小学館。『未確認で進行形』は一迅社。うーん、いったいどういう繋がりで『未確認で進行形』が採用されたのだろうか?
 『未確認で進行形』のプロデューサーがどうやら東宝の人だったらしいけど、でもそんな細い繋がりでこんなところで出てくるか?
 まあいいや。╭( ・ㅂ・)وぐッ!
 「テレ東でアニメをやっているうちは大丈夫だ」……と、いう台詞の後、アニメ映像が途切れてニュース番組が始まる。うーん、ギャグかよ。
 まあ╭( ・ㅂ・)وぐッ!
 タクシーの中でのどったんばったんがあって、最初の変異を描くシークエンスが完了するまで35分。黒川徹子のZQN化から20分。短い時間の中に、変異の過程がギュッと詰まって緊張感のあるワンシーンができあがっている。

 次に、どうやら富士山のような高いところにはZQNウィルスは来ないらしい……という真偽不明のネット情報を信じて、富士山へ向かうことに。
 しかし、実は比呂美ちゃんもすでにZQNウィルスに感染していた。
 しばし比呂美ちゃんとの交流の場面があるのだけど、なんか台詞が嘘っぽい。なんだか台詞のタイミングとかがアニメっぽいなぁ……。
 間もなく比呂美ちゃんもZQNになってしまうのだけど、しかし完全なZQNではなく、半ZQN。異常な力持ちになり、活動している期間以外は延々眠り続けている。
 うん、禰豆子ちゃんだよね、これ。竈禰豆子ちゃん。
 やっぱり漫画家がヒロインを描こうとすると、漫画家的幻想が現れてきちゃうんだよなぁ……。そこで「なんか存在がアニメっぽいなぁ」、というのにも納得できてしまう。そもそも比呂美ちゃんはアニメヒロインだから、台詞回しがアニメっぽかったのだ……と。だから実写空間となんとなく齟齬が起きていても、構わなかったのだ。

 さて、後半パートである富士アウトレットモールにやってくるのだが……。そこを拠点に立てこもりをやっている一群がいて……というゾンビ映画定番の内容になっていく。

 本作の物語紹介はここまで。それではこの作品がどういう作品なのか……という話に入っていこう。

 主人公鈴木メガネ君は理想と現実のギャップに苦しみ続ける主人公だ。15年前、漫画新人賞を獲得し、連載を持ち、そのまま人気漫画家に……というつもりだったが、その当時の漫画は特に人気が出ることもなく、静かにフェードアウト。その後は「誰かのアシスタント」といういまいちパッとしない漫画家人生を歩んできた。
 そうこうしているうちに35歳。同棲している彼女は34歳。結婚もしていない。家庭も築いていない。きっと、ちゃんと漫画家として成功していてお金があったら結婚して子供も産んで、家庭を作りたかった……みたいなビジョンはあっただろう。しかし、15年間ずっと「誰かのアシスタント」という底辺仕事でその望みすら達成できず。いつまで経っても社会人として一人前にすらなれない。
 そんな暮らしを続けていくうちに、「理想」つまりは「妄想」と「現実」の狭間で少しずつ齟齬を起こしていった……それが鈴木メガネ君だ。
 鈴木英雄君だったっけ? メガネ君でいいでしょう。

 これは漫画家という暮らしの実態も示している。漫画のアシスタントという立場がいかに冷遇されているか。アシスタントというだけで社会人として最低限の暮らしすらできない……。しかし漫画家として成功しようと思ったら、課題は非常に大きい。誰でもできるものじゃない。
「だからこそアシスタントは、自分の漫画を描こうと奮起するのだ!」……という精神論はどうでもいいので、横に置いておこう。
 なぜ漫画のアシスタントが冷遇されるのか、というと、単純に、アシスタントへのギャラが出版社から支払われない、というとこに起因している。アシスタントの給料は漫画家が支払っているが、その漫画家への“原稿料”というのは実はさほど高くない。漫画家は“印税”頼みの仕事で、原稿料はまあ“お小遣い”程度。漫画家によっては原稿料はぜんぶアシスタントに支払って、自分は印税のみで生活している……という人もいる(取材費や制作費で消えるという人もいる)。その印税が充分に入ってこなかったら、赤字で漫画を連載し続ける……そういう漫画家もいる。
 漫画が大ヒットすれば、当然アシスタントへの給料も高くなるわけだが……。漫画が大ヒットなんて、それも業界の中でもごく一部ということになって……。
 鈴木メガネ君の雇い主である漫画家は、いまだに狭いアパートの一室を“住居兼仕事場”にしているような作家だ。“漫画家としてやや微妙”な人のアシスタントをやっているから、その給料も少なく、最低限ギリギリの生活しかできない。映画だけを観ていると「この漫画家ひどいな」という気もするが、おそらくはそこそこ苦労しているんだろう。
 どうして漫画家への原稿料が低く、アシスタントへのギャラが出版社から保障されていないのか……というと、“漫画が売れていた時代”をベースにしているから。「漫画家は単行本が売れて印税が入るから別にいいでしょ」という感覚のまま、現代に来ている。漫画が売れていた……というのは1990年代がピークで以降は漫画業界も出版不況に飲まれているのだけど、その当時の構造のまま変えることができない、成功体験を変えられることができないから……というジレンマを抱えてしまっている。
 漫画業界がバブル崩壊の影響を受けるのは、10年ほど後……。それで対応に遅れてそのまんま……という実体がある。出版不況に陥ってからは雑誌売り上げも低迷し、その一方で単行本売り上げが伸びていく。すると、読者は「売れている作品」「流行っている作品」ばかりを注目し始め、「極端に売れる漫画」と「極端に売れない漫画」の格差を作っていくことになる。
 そんな状況でも勝ち抜けた人達が、精神論を振りかざし、「努力しない奴が悪いんだ」とか言い始める。特に、“売れちゃった漫画家”ほど、精神論・根性論に偏る傾向がある――なぜなら、なぜ自分の作品が売れたのか、自分でも理解していないからだ。

 でもごく最近、「さすがにこれじゃまずい」と感じ始めた出版社の一部は、アシスタントの給料もある程度支払うようにするようになっている。私は出版業界にそこまで詳しくないので、アシスタントへの給料保障がどれほど進んでいるか……とかは知らないんだけど。

 とにかくも鈴木メガネ君は「誰かのアシスタント」というパッとしない漫画家人生を歩んでいくうちに、気付けば35歳。鈴木メガネ君自宅の机には、自分が漫画が大ヒットした時の「理想」が貼られている。「漫画大ヒット!」「社会現象化!」「自宅前が鈴木ロードに!」……それを目標にして、メモとして張り出すことで自分を奮起させていた……というところがあるのだけど、現実はうまくいかない。そこで現実と理想の間で、少しずつ齟齬が生まれ、その齟齬はどうしようもなく大きくなっていってしまっている。
 本当の鈴木メガネ君は……もっと勢いのあることを言って、周りに注目されたい、周りを引っ張っていきたい、“強いリーダーになりたい”……そういう“なりたい自分”のイメージを持っている。富士のアウトレットモールに行き着いた時、鈴木メガネ君は、かっこいい黒の革ジャンを羽織っている。その革ジャンが似合う自分、が鈴木メガネ君が思い描いている“僕”のロールイメージだ。
 でも鈴木メガネ君は、その次のシーンでは革ジャンを置いて店から出て、似合いもしないダサい赤のパーカーを着ている。「結局はこれが今の僕なんだ」という自分への諦めが、そこに現れている。

 世の中がゾンビだらけになっても、ついさっきまで生きていた人を撃つなんてできない……。どうしようもないヘタレ。そのヘタレの自分から脱却できない……。
 そうした最中、偶然にも比呂美ちゃんという可愛い女子校生が、自分を頼ってくる。この女子校生の比呂美ちゃんというのが、どこか胡散臭い。アニメキャラっぽく描かれている。半ZQN化して禰豆子ちゃんに変貌する前から、ちょっとアニメキャラっぽいイメージで描かれている。
 これは、そういう「お人形みたいな女の子を守る僕」という男性的ロールイメージの一部として描かれている。そういう「女の子を守る強い男」……。鈴木メガネ君というどうしようもないヘタレの男……という内面から見ているから、比呂美ちゃんはどこかアニメキャラっぽい、イメージの産物として描かれている。

 この映画に登場するゾンビは、「ゾンビ」ではなく「ZQN」と呼称される。「DQN」というネットスラングに、ゾンビ(Z)を組み合わせただけ……という安直なネーミングだ。
 鈴木メガネ君を取り巻く人達、というのは、これみよがしにみんな「嫌な人達」だ。みんなどこかDQNの属性を持っている。後半、見た目通りわかりやすいヤンキーも登場するけど、そうではなく、見た目はいい人っぽいけど、内面はドクソ……そういう人は多い。ぶっちゃけ、日本人の3分の1くらいは「潜在的DQN」でしょう……という余談はさておき(現実では強いこと言えないけど、ネットで大暴れする人とかも潜在的DQN)。
 ゾンビウイルスが蔓延し、混沌とした社会……というのは、鈴木メガネ君が内面的に見ていた世界をひっくり返したものだ、といえる。鈴木メガネ君には、世の中がもともとそういう感じに見えていた。自分の周りで、自分を責めてくるやつはみんなDQNだ……そんなふうに思っていた。自分の周りを、やや差別的に見下していた(「本当の僕はもっと凄いんだぞ」と)。それを現した世界観だから、ネットスラングを掛け合わせた言葉で、ゾンビをZQNと呼んでいる。もしかしたら、鈴木メガネ君はもともと、周りにいる人を妄想の中で「お前らはZQNだ」とか思っていたのかも知れない。どこまでいっても、鈴木メガネ君の内面的な世界が、この物語の中に展開していく。

 鈴木メガネ君はもともと“強い男”になりたいと思っていた。同棲している女の子を悲しませる、ダメな自分じゃない。自分が表現したもので、みんなに喜んでもらいたい。みんなに注目されたい。注目しているみんなを、引っ張っていきたい。かっこいい革ジャンが似合う僕……それが鈴木メガネ君がそうなりたいと思っている自分のイメージだった。
 でも現実はそうじゃない。何もできない、なにをやってもうまくいかない。
 そんな鈴木メガネ君が、いかにして理想と現実のギャップを埋められるか……という物語が、本作の核になっている。
 こんな混沌とした世界の中で、周りの人達を引っ張っていける僕。かわいい女の子を守れる僕。その決意ができるまでが、この映画のストーリーになっている。
 ということも含めて、ある意味鈴木メガネ君の遠大なる「妄想世界」をえんえん見せられている……というのがこの物語の実態だ。

 そこで、半ZQN化した比呂美ちゃんを活躍させなかったことが効いている。もしも比呂美ちゃんが覚醒して群がるゾンビを全滅させてしまったら、それで物語がすべて解決してしまう。比呂美ちゃんが「デウス・エキス・マキナ」化してしまう。鈴木メガネ君は永久に男性性を発露する機会を喪い、ヘタレのまま終わる……。
 物語を解決に導きたかったら、比呂美ちゃんというデウス・エキス・マキナを使えば良い。比呂美ちゃんを使ってしまえば、シナリオも楽になる……。でもその最後の一手を抑えて、そんなデウス・エキス・マキナこと比呂美ちゃんををいかに守って戦うか……というところに主眼を置いた。そうするととで、物語の重要テーマを守っている。

 原作漫画では、ZQNが出てくるまでの、いまいちパッとしない漫画家生活をしている描写が、えんえん単行本1冊もかけて描かれていた……とWikipediaに書いていた。……読んでないけど。
 どうしてそんなふうに描いたのか。
 推測すると、第一にこれは鈴木メガネ君の、漫画家としての妄想話だから。妄想だけど現実。……だって、物語自体フィクションだから。だからこそ、漫画アシスタントとしての生活をリアルに深掘りして行かなければならなかった。
 もう一つの推測は、これは作者の、いまいちパッとしなかった、売れてなかった頃の自分……がそこに刻印されているからだろう。鈴木メガネ君は、作者たる花沢健吾の分身。もしかしたら鈴木メガネ君になっていたかも知れない自分。それを克明に打ち出したくて、漫画家の生活を丹念に描き出したんじゃないだろうか。
 それを、絵が滅茶苦茶にうまくて、大ヒット作を抱えている漫画家が描いていると思うと、鼻につくけれども……作家というのは貧乏時代、苦労時代、売れなかった時代の頃をいつまでも忘れないものだ。いつまで経っても、“貧乏時代”が影のようにつきまとってくる。貧乏時代につきまとわれ、どこかでその当時の自分と切り離すための、“自分のための物語”が必要になってくる。
 そこでゾンビがいきなり出てきました……みたいなお話は安直といえば安直。通俗的ですらある。夜の寝る前にするような妄想話程度の構想でしかない。でもそういう通俗的で安直に作られた世界でも、そんな混沌とした中で、“ちゃんとした男になりたい”……でも“最低限の男にすらなれないかも知れない”という不安。理想の中の格好いい僕、となにをやってもうまく行かないダメな僕、を常に天秤にかけながら、ロールイメージへいかに近付いていけるか、を描いた作品だ。
 鈴木メガネ君は自己紹介する時に、いつも「えいゆうと書いて英雄です」と紹介する。これでもなけなしの自意識だ。「僕はヒーローだ……」という。
 ところが最後のシーンになると、「えいゆうと書いて」と言わなくなる。もうそれすら言う必要のない。言わなくても自身が「英雄」になれた……という実感を得られたからだ。鈴木メガネ君ではなく、ヒーローこと「英雄」。そのロールイメージになるための物語だ。

 ここで唐突にエンディングに関するネタバレ。
 最後の車のシーン、比呂美ちゃんがまばたきをする。このシーンに私はビックリした。というのも、この手法はアニメ特有のもので、実写ではまずやらないような演出だ。
 キャラクターがまばたきをする、ということは、そのキャラクターが“意思を持っていない人形”ではなく、きちんとした“意思を持った人間”であることの表明。この物語の場合、比呂美ちゃんは半ZQNではあるものの、まだ人間としてのアイデンティティを持っている、という証である。
 こういう考え方は、アニメをアニメ評論家が解説する時にしか出てこない。実写映画に対して、実写映画の評論家はまずこのように見ない(実写しか見ない評論家は、こういう解説ができない)。キャラクターがまばたきするか否かでその人間に意思を持っているかどうか、という示し方は、キャラクターがセル画で表現されるアニメだからこその表現。
 セル画で描かれたキャラクターというのは、絵単体で見せるとビックリするほど精気がないものだ。そこでアニメキャラクターはなにかと過剰な動きを見せて、感情表現するものだ。
 止め絵でも、キャラクターにまばたき1つ入れるだけで、そのキャラクターの意思を表現できる。そういうテクニックを知っているのは、アニメ監督だけだと思っていたが……。
 佐藤信介監督は実写畑の人……といえど、極めてアニメ寄りの人。どこかでこの手法を学んだのだろう。こういうシーンを入れてくるあたり、比呂美ちゃんをアニメキャラクターとして捉えている、ということだろう。

 私はかねてより、「日本でゾンビものをやる無茶」を語ってきた。まず文化観が違う。日本でゾンビものを描こうとすると、どうしても「アメリカへの憧れ」で描いてしまう。すると「日本人はこういう行動は取らないよな……」という描写が頻繁に描かれるようになる。
 それが「暴動」と「略奪」。アメリカはなにかと暴動が起きる社会だ。ハリケーンが来て、街が半壊状態になった……すると人々が暴動を起こし、我先に食料を奪い取ろうとするし、なぜか電気屋に突撃してテレビを略奪するやつもでてくる。
 日本でも自然災害は頻繁に起きる。しかし暴動が起きたという話は聞いたことがない。まったくないわけではないらしいが、「どうやら起きたらしい」くらいの話しか聞かない。古くは関東大震災の頃でも、炊き出しの前に整然と列を作って、ルールを守った日本人だ。
(すると「関東大震災の時は朝鮮人への虐殺が起きた」……と言う人がいるかも知れないので注釈。あれはだいぶあとに作られたデマ。当時の事件記録を見ても、そんな事件は起きてなかった)
 そんな日本で「暴動と略奪」を描いてもどこか真実味を感じない。これは制作者がそういう大規模自然災害のあった経験がなく、所詮は「アメリカ映画の憧れ」で描いているからこそ起きる現象だ。
 ゾンビ映画は、アメリカ人という民族観を抽象的に表現したものである。アメリカ人がアメリカ人を揶揄して表現したものがゾンビだ。もしも日本でゾンビものを描こうと思ったら、その中で「日本人」をきちんと描かなくてはならない。

 そうしたなか、『アイアムアヒーロー』はなるほど、確かにこれなら日本社会の風刺にもなりうる。まず主人公の鈴木メガネ君。男性的ロールモデルが欠落した男性で、どこかで男性性を発露する機会を持ちたいと思っている。これは鈴木メガネ君だけではなく、日本人男性の共通して見られる現象だ。「自分は男性性が欠落しているのではないか」――という不安(だからこそ、みんな何かとマウントを取りたがる)。今時の日本男児、みんなが抱えている不安だ。
 そこに現れるゾンビではなく、ZQN。日本はコミュニティが崩壊し、街にいるみんなが“モブキャラ”化している。みんな進路上のやっかいなモブキャラ。みんな気の置けない他者になって、そういう他者のエゴをおそれて、毎日頭を下げて暮らしている……というのが現代人だ。現代人はそうしていることに、潜在的なストレスを抱えている。
 所詮はネットスラングのDQNを一字変えただけのもの。でも現代人、みんなネットスラング的に物事を考えたりしているので、かえって現代の風刺にもなっている。
 ゾンビ映画はアメリカ人を抽象的な表現で風刺した姿だ。『アイアムアヒーロー』はきちんと日本人の今の姿を、風刺で示している。
 アメリカ文化の鏡であるゾンビ映画をいかにして日本の文化へ置き換えるか。その試みが非常にうまくいっている。これなら確かに“日本におけるゾンビ映画”としてしっくりくる。初めてうまくいったローカライズを見た……という感じだ。そういう意味で、『アイアムアヒーロー』は本当の意味で、日本発のゾンビ映画の代表と言えるかも知れない。


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