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映画感想 若おかみは小学生

 『若おかみは小学生』は講談社から出版されている令丈ヒロ子原作の児童小説で、アニメ化となる前に、すでに300万部を売り上げるベストセラーである。同作品のテレビシリーズは増原光幸監督、横手美智子脚本で2018年に4月放送されている。今回視聴した劇場作品は、同じくアニメ制作会社マッドハウスだが、監督は高坂希太郎、吉田玲子脚本。制作会社だけは同じだが、それ以外のすべての座組を変えての作品となる。同じ制作会社で、主要スタッフを変えて作品がどう変わるか……という興味深い試みによる作品だ。
 監督の高坂希太郎の名前を知らないアニメファンは少ないだろう。スタジオジブリ生え抜きのアニメーターで、『もののけ姫』から『風立ちぬ』までの宮崎駿監督作品で作画監督を務めている。「宮崎駿の一番弟子」を自称するように、宮崎駿とは師弟として深く結ばれる関係である。
 スタジオジブリは『風立ちぬ』の後、2014年に解散し、全スタッフがアニメ市場に開放された。業界最強アニメーター集団が開放されたとあって、一時、業界は「元ジブリ」の確保で大騒ぎになったわけだが、高坂希太郎はマッドハウスに移り、この作品『若おかみは小学生』を手がけることとなる。
 高坂希太郎監督作品には2003年に『茄子 アンダルシアの夏』があり(こちらもマッドハウス制作)、それ以来の監督作品となる。スタジオジブリ卒業後、独立しての最初の作品として、アニメファン的には注目度の高い作品であった。

 とりあえず、あらすじを順番に見ていこう。

 冒頭3分、関親子が交通事故に遭い、主人公・織子(おっこ)だけが生存する。
 天涯孤独になったおっこは、お婆ちゃん(関峰子)が切り盛りする老舗旅館「春の屋」に引き取られる。
 そこでおっこが出会ったのは幽霊の立売誠(ウリ坊)。おっこは事故の時、ウリ坊に救われたらしく、それでウリ坊の頼み事である「女将になり、峰子の後を継いでくれ」を引き受けることとなる。――ここまでが10分。

 20分――1時間半の映画なので、20分目からが第2幕となる。
 おっこは仕事着を身につけ、旅館の仕事を学び始める。しかし初めてのことばかりでなかなか上手くいかない。しかも旅館の中では時々不思議な現象が起きる。食べ物がなくなったり、モノが勝手に動いたり。どうやらウリ坊以外にも旅館には何か潜んでいる様子……。
 間もなくその地域の学校へ通うことになるが、そこで同じく旅館経営の娘である「ピンひら」こと秋野真月と出会う。

 ここからは春の屋を訊ねる3組のお客さんの紹介だけに留めよう。
 1組目は神田幸水、おかね親子――26分。
 2組目はグローリー水領――45分。
 3組目は木瀬親子――69分。

 以上で大雑把なあらすじの紹介となる。
 では本編の感想文に入っていこう。

 劇場版『若おかみは小学生』がどういったお話であるか、というと事故と両親の死別というトラウマが抱えた少女おっこが、いかにしてそれを乗り越えるか――がお話の中心となっている。その途中経過に「女将のなる」というサブミッションが設定され、そちらで外面的な成長を描く一方で、内面的なトラウマと葛藤する物語が描かれていく。
 では事故直後のおっこはどういった心理状態であったのか?
 冒頭の事故の後、おっこは誰もいなくなったアパートの部屋に向かって「いってきます」と言葉を残し、家を出て行く。この場面を最初に見たとき、私は不思議に感じた。この少女は、両親の喪失を気丈に振る舞って耐えているのではないか……とそう思ったが違っていた。そうではなく、おっこはまだ両親の死そのものを受け入れていない……という表現だった。両親の死をまだ現実のものとして受け入れていないから、誰もいないアパートに向かって「行ってきます」と声をかけたのだ。誰かの声が返ってくるのを期待して。もしかしたら、おっこの頭には両親の声が聞こえていたのかも知れない。
 それを示す場面がある。
 始まって13分ほどのところで、おっこは夢を見る。布団から起きたおっこは、両親の部屋に入っていく。この時の描き方が不思議で、旅館の部屋から、両親の部屋が続いているような描き方をしている。ふとすると、「夢の中のお話」とわからないような作り方をしている。
 両親のベッドに入って、おっこはこう言う。
「なんだ生きてたんだ」
 その後は、何でもなかったように、旅館の日常のシーンへと戻る。夢のシーンなのか、回想シーンなのかもわかりづらい。見ていると「おや?」と引っ掛かる描き方をしている。これは、まだおっこが両親の死を客観化できていないことを示唆するシーンだ。

 そんな両親の死を受け入れられていないおっこの周囲に、幽霊の少年ウリ坊が姿を現すようになる。これはおっこが臨死体験をしたから、幽霊の姿が見えるようになったからだ……という設定が説明されるが、見方を変えるとウリ坊も秋野美陽も鈴鬼も、おっこの「幻覚」であると考えられる。両親が死に、おそらく地元にたくさんいたであろう友人達と別れて、馴染みのない旅館に住むことになった。その不安な気持ちが、「妄想の友達」こと「イマジナリーフレンド」を生み出した……という表現とも読み取れる。
 おっこは両親が死んだことをまだ受け入れていないわけだが、しかしそれがわからない年齢であるわけがない。幽霊の存在は、「両親はまだ生きている」という嘘を補強するためにおっこが自分自身についたもう一つの嘘……という読み方もできる。幽霊があんなふうに生き生きと存在して語りかけてくるということは、両親も同じようにいつでも自分に語りかけてくるはずだ……と。
 これは「イマジナリーフレンドとも読み取れる」と私が個人的に思ったことだけではなく、どうにも作り手側にもそのように読み取れる余地をあえて作っているように感じられる。この作品におけるファンタジー要素は、あくまでもおっこの妄想の産物である、と。
 幽霊など存在せず、あくまでもイマジナリーフレンドであるから、やがておっこの精神が立ち直っていくとともに、幽霊の姿が見なくなってくる。幽霊の姿が完全に感知できなくなり、やがて思い出すことすらもできなくなったとき、おっこは完全に事故とトラウマと両親の死別という心の傷から解放された……ということになる。もしもこの劇場版『若おかみは小学生』の続編があり、大人になったおっこが描かれるとしたら、子供時代のイマジナリーフレンドがいたことすら、もはや忘れていることだろう。

 幽霊など存在しないから、幽霊に語りかけられたことはおっこの幻聴に過ぎず、おっこは自身の心の声と対話していただけに過ぎない。鈴鬼に食べられたプリンはどうしたのかというと、食べたのはおっこ自身だ。おっこの顔に施されたイタズラ書きは、おっこ自身でやったものだ。そう説明してもお話が通るようにできてるし、そのように読めることを意図していたようにも感じられる。
 はじまって19分ほどのところで、ウリ坊がおっこにお花畑の幻覚を見せるシーンがある。こちらのシーンは現実とかけ離れすぎていて、全体のトーンから外れてしまっていることが不思議に感じていた。幽霊の能力としても突飛だし、他のシーンで似たような能力を発揮するような場面もない。でもおっこは両親の幻覚も見ていたわけだから、同じ流れであると解釈すれば不思議はなくなる。
 31分のところで、キラキラした上着を着たおばちゃんの姿を見て、おっこはプリンを作ることを思いつくが、この時ウリ坊は、おばちゃんに「気ぃ悪うせんといてな」と言う。これはおっこがおばちゃんに言いたかったことを代理で言わせている場面だ(幽霊の言った言葉だから、おばちゃんには聞こえていない)。幽霊達はおっこの意に反したことを言ったりしているわけではなく、おっこが心の底で思っていることを代弁しているだけ。
 そう考えていくと、幽霊はおっこの妄想に過ぎず、存在していなかったかも知れない。

 でもなぜおっこは幽霊の友達を生み出さねばならなかったのだろうか。
 その答えを求めて、春の屋を訪ねる3組のお客さんについてを見ていこう。

 ひと組目が神田幸水とあかね親子だ。神田幸水にとっては妻が、あかねにとっては母親を亡くした直後で、親子は「気晴らしの旅」に出たところだが関係は暗澹としている。立場的にはちょうど、両親と死別したばかりのおっこと符合する組み合わせとなっている。
 母親を死を受け入れられないあかねと向き合い、献身的に尽くすことによって、おっこは自分自身の両親を亡くした想いと向き合っていく。
 おっこはまだ両親の死を乗り越えたわけではなく、受け入れていないだけ。本当はまだ生きているのではないか……まだそう考えているから哀しみも薄く、落胆することもない。無理して気丈に振る舞っているわけではない。
 しかしひたすらに哀しみに暮れるあかねを通して、ようやく、「両親はまだ生きているかも知れない」という思い込みに揺らぎが生まれる。両親の死にリアリティを感じていくようになる。
 あかねとの交流を終えた後、夢のシーンでおっこは両親にこう尋ねる。 「ねえ、お母さんとお父さんは、生きているんだよね?」  両親はひょっとすると死んだのかも知れない……ようやくおっこはそのことを自覚し始める。

 次に訪ねてくるのはグローリー水領だ。グローリー水領は映画のちょうど中間地点である45分頃に登場する。映画の中間地点ということは、その作品にとって重要な何かが起きる場面だ。そこに現れるグローリー水領は重要人物であるはずだが、ちょっと立場が特殊だ。

 おっこはグローリー水領とすぐに仲良くなり、一緒に出かけることになる。その直前のお風呂のシーンのやり取りだが……

グローリー「おばあさまはとても厳格な方ね」
おっこ「よく叱られます」
グローリー「でも尊敬している」
おっこ「はい!」
グローリー「ご両親のことも……あ」

 どうやらグローリー水領は、おっこと対話しながらその背景を読んでいるように感じられる(岸部露伴のヘブンズ・ドアーのように)。まずいって、一人のお客さんに過ぎないグローリー水領が、関峰子と関織子がお婆ちゃんと孫の関係なんてわかるはずがない。でもグローリー水領はあたかも知っているように話し、さらにお婆ちゃんについて「でも尊敬している」とおっこの内面を言い当てている。その次に両親の話題になり、あっと何かに気付いたように言葉を止めている。対話しながら占い師の勘でおっこの内面とプロフィールを同時に読んでいたから、この時、グローリー水領はおっこが両親と死別した後だと気付いたのだ。
 それからもうしばらく後になって、おっこが事故に遭ったことを話す場面があったが、グローリー水領はおっこが話す前にすでにだいたい気付いていたのではないかと思われる。
(ドライブ中、3体の人形を握っているおっこに、グローリー水領は「かわいそうよ」と声をかける。グローリー水領は、それがおっこのイマジナリーフレンドと気付いてそう言ったのかも知れない)
 そんなおっこを、グローリー水領は買い物に連れ出すが、なぜ連れ出したのかというと、おっこを励ますため。「占い師は人を励ます職業」と語るとおり、その職業意識に立ち返ったのだ。(神田親子が気晴らしの旅に出ていたように)
 両親と死別したおっこはすぐに旅館春の屋へ移され、すぐに女将になるべく修行を始めたから、心安まる瞬間はなかった(両親の死から逃避するために、おっこ自身があえて自分をそう追い込んでいた)。グローリー水領はおっこが感じていた心理的負担に気付き、外へ連れ出し、気晴らしをさせたのだ。おっこにとって両親との死別後、初めての「気分転換」というべき瞬間だった。

 グローリー水領の登場シーン、かなりファンタジックな仕掛けが画面一杯に満たされるが、しかしおっこがコンセントに足を引っ掛けたことによってあっという間に幻覚が剥ぎ取られてしまう……という場面が描かれる。
 この場面に何の意味があるのか……というと、これからおっこが自分自身に付いていた嘘が剥ぎ取られるという意味だ。実際に、グローリー水領との交流を終えた後、おっこは幽霊の姿を感知しづらくなっていく。おっこがずっと感じていた心理的負担が、グローリー水領との交流を経てだいぶ軽くなったから、幽霊というイマジナリーフレンドの必要性が薄くなったからだ。また友人もできて、新天地での社会性ができあがってきたから、やはり幽霊というイマジナリーフレンドの立場が弱くなっていった。もう間もなくおっこは「幽霊の友達」を必要としない局面まで来ていた。
 グローリー水領の存在は、おっこのそんな心理的変化を促し、予告するための存在であった。「幽霊」というこの作品の核ともいえる前提が喪われる瞬間……だからグローリー水領は作品の転換点であるパートに登場してきたのだ。

(余談。グローリー水領は春の屋を訪ねた経緯を、「恋人に振られた」と語っている。これは本当だろうか。映像を見ていると、「花束を残してすーっと姿を消す」と描写されている。普通、これから別れようという女性に、花束は残して行かない。「すーっと姿を消す」……という映像の作りもかなり意味深だ。それに「花束が残される」という表現が意味するものとは……? 1組目と3組目のお客さんとトーンを較べてみても、釣り合いが取れない。「恋人に振られた」というお話は、小学生のおっこに語るためにオブラートに包んだ表現ではなかっただろうか)

 いよいよ3組目のお客さんである木瀬親子が訪問する。これがおっこにとって最後の試練となる。  この木瀬親子に対して、おっこはどのように対応するのか。ここでおっこの成長が試される場面である。ここから作品のクライマックスへ向かって進んでいく。

 『若おかみは小学生』は心理的ミッションを、段階を作って一つずつ乗り越えるように描かれていく。  あらすじをもう一度見てみよう。
 おっこは事故によって両親が死に、それまで育ってきた家と土地を捨てて、しかも旅館というストレスの多い環境で暮らすことになる。生活を最初から立て直さなければならないし、人間関係も最初からやり直さなければならない。しかも両親の死というトラウマがおっこの心理に大きな負担となっている。
 あまりにも大きすぎで多すぎる問題を解決するために、おっこは「幽霊の友達」というイマジナリーフレンドを生み出す。
 次にやってくるのは神田幸水とあかね親子だ。「母親を喪った少年」と向き合うことによって、おっこは最初の関門である、「すでに両親は死んだ」ということを少しずつ受け入れようとする。
 その間に挟まれるエピソードが「ピンひら」こと秋野真月との出会いだ。真月は「ライバルキャラ」というポジションで、おっこが成長するために必要なキャラクターだ。ライバルキャラであるから真月は最初からおっこに対して当たり方が厳しい一方、その哲学は大人びていて、どの台詞も言っていることは的を得ている。ライバルとして、あるいは目標として、大きな存在として立ちはだかり、そんな存在を受け入れることによって、おっこは飛躍的に成長していく。おっこの成長を促す存在として、真月の存在は大きい。

 2番目のお客さんがグローリー水領だ。グローリー水領と交流……いやカウンセリングによっておっこは少女としての快活さを取り戻し、春の屋にやってきてからの心理的負担がようやく軽減される。この経験を経て、おっこは春の屋を拠点とする「新しい暮らし」を受け入れていくようになる(その直前までは、ちょっと「空気読めてない子」だった)。新しい友人も生まれ、ライバルとの交流を生まれて、次第にイマジナリーフレンドこと幽霊の存在が後方へ追いやられていく。そろそろ幽霊の存在が必要ではなくなってきたからだ。
 最後にやってくるのが木瀬親子だ。木瀬親子との交流することによって、おっこはようやく、両親が既に死んでいること認識する。事故の当事者が語り始めるということは、両親は間違いなく死んでいるということになる。おっこはそのことに衝撃を受ける。
 その時の映像は、
「私……うそ……」
 おっこは息も絶え絶えになりながら、夢の中で見ていた、「生きている両親」の姿を思い出している。あの光景が嘘のもの、夢の中でしかない……ということにショックを受ける。
 しかし、間もなくおっこは、両親の死という事実を受け入れ、ようやく事故のトラウマを完全に乗り越えた状態になる。木瀬親子を受け入れることができたし、両親の死を受け入れたのだから、「両親は実は生きているのかも知れない」という証拠としての「幽霊の友達」は不要になってしまう。だから幽霊の友達は間もなく姿を消してしまう。

 『若おかみは小学生』はだいたい1時間半くらいの作品だ。かなり短いほうだ。しかしドラマの作り方が非常に優れていて、お話の短さを感じない。おっこの成長のドラマと心理的な変化が丁寧に、しっかりと描かれる。原作は20巻というかなり長いのだが、見事なくらいにうまく刈り取り、ドラマが濃縮されている。無駄がなく、かつドラマとしての要素がきっちり入った完璧な脚本だ。
 そこに、やはりジブリ仕込みの見事な日常描写。とにかくも一つ一つの所作が丁寧だし、真に迫っている。背景も美しいし、その中に児童文学出身のキャラクター達が生き生きと活動している。児童文学原作のキャラクターだから、線の数は少なく、デフォルメの高い、抽象度の高いキャラクター達だが、その抽象度の高さに逃げることなく、きちんとすべきところはどこまでも徹底している。どのシーンを見ていても「うまいなぁ」と感心する絵ばかりだった。
 だた、それだけに大袈裟すぎる身振りや表現は余計に感じられた。背景やキャラクターたちの芝居がリアルに作り込まれているから、「児童文学らしい」大袈裟に声を張り上げたり、飛び上がったりする場面は、それ以外のシーンからやや浮いて感じられる。ああいった場面は、思い切って切り捨てて、もっと濃密な日常空間を作り上げてもよかったように感じられる(それこそ高畑勲的な……)。
 キャラクターにしても(ベストセラーになった原作があるから難しいのだが)、原作のデザインを越えてもよかったように感じられる。絵やキャラクター演技が濃密であるぶん、抽象度の高いキャラクターデザインがどこか引っ掛かる。このあたりの表現でバランスを欠いていたように思える。
 でもそれをやってしまうと原作軽視になるし、先行するテレビシリーズとの繋がりが薄くなるから、思い切るわけにはいかない……という難しさも抱えていたのだろう。これを除けば『若おかみは小学生』という作品に引っ掛かる部分は一切ない。完璧なクオリティの作品だ。

 『若おかみは小学生』は文句なしに素晴らしい作品だった。言ってしまえば「感動ドラマ」であるが、安易に涙を求めるような作品ではない。しっかりした組み立てがあり、物語があり、それが積み上がって最終的には大きなドラマになっていく構造になっている。この組み立てや個々の物語が見事だ。見た目の可愛らしさに反して、かなり骨太な柱を感じさせる。
 この感想文では「幽霊は実はおっこの妄想」という奇説めいたお話をしたが、そうであっても、そうでなかったとしても、どちらにしてもこの作品のドラマは揺るがない。「幽霊がおっこの妄想」であっても、やはりこの作品は素晴らしいドラマであることは変わらない。それはやはり骨がしっかりしているからだ。妙な奇説を引っ張り出してきても、作品の良さが揺るがないような作りになっている。
 これは10年や20年は語り継ぐべき名作アニメだ。すでに作品発表から2年経っても、作品の素晴らしさは一切色あせていないし、揺るぎないものだった。10年経ってもこの素晴らしさは少しも変わっていないことだろう。


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