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映画感想 ドラえもん 新・のび太の日本誕生

 ドラえもん特集!!
 なんの脈絡もなしに、唐突に勝手に個人的に始めた『映画ドラえもん特集』。その1本目は『新・のび太の日本誕生』。
 『のび太の日本誕生』は私にとっても懐かしい映画。というのも1988年のリメイク元映画は、私も映画館で見た作品。この頃の劇場版ドラえもんは、毎回劇場で観ていた。
 原作の『大長編ドラえもん』シリーズは1980年からスタートし、毎年1本ずつ公開されていた。大長編シリーズは短編『ドラえもん』シリーズとは違い、起承転結のある長いストーリーとなっているが、必ず単行本1冊の中で完結する。物語の舞台は毎回変わり、登場するキャラクターたちも毎回変わる。毎回違うキャラクターとの出会い、友情、冒険が描かれ、鮮やかに完結する。それぞれのエピソードに関連はほぼないので、どこから読み始めても良い。単行本1冊というページ枚数は、劇場ストーリーに変換するとほどよく2時間前後のストーリーとなり、藤子不二雄の描いた漫画はそのまま映画の脚本にもなった。
 『大長編ドラえもん』は私にとっても、「人生最高の漫画」に推したい作品である。というのも構成が完璧。1冊の中に、漫画に欲しいと思っているドキドキがすべて詰まっている。最後にはきちんと感動できる。それが毎巻続く。こんな素晴らしい漫画は、『大長編ドラえもん』の他にはない。長編もの漫画は、何冊も続き、どこか冗長になっていくものだが、『大長編ドラえもん』は1冊の中に凝縮する。新しい本が出ると、その中で新しい冒険が始まる。読みやすくて濃厚。こんな見事な漫画は『大長編ドラえもん』の他にない。藤子不二雄という、漫画史に残すべき偉大なストーリーテラーだからこそ実現したシリーズである。
(このフォーマットは現代では『クレヨンしんちゃん』に引き継がれている)
 そんな『大長編ドラえもん』の中でも、特別な1本である『のび太の日本誕生』だ。私も子供の頃、夢中になった作品である。リメイク元の『大長編ドラえもん』はテレビ朝日開局30周年、テレビアニメ10周年、映画ドラえもん10周年を記念して作られた、記念づくしの作品だ。あの頃は子供だったが、なんとなく物々しく宣伝していた雰囲気を憶えている。
 あの頃の映画を、時を経て、新しくなって今の時代に見ることができる……なんともいえない幸福な瞬間である。

 では本作のストーリーを見てみよう。


 またしてもテストで0点をとってしまったのび太は、お母さんに怒られているのだった。
 これからは外出禁止、昼寝禁止、漫画もテレビでも禁止です!
 この宣告に、のび太も我慢の限界だ。
「今日という今日はもう我慢できない。学校でも家でも叱られてもうウンザリだ! 決心したぞ! 僕は家出をする!」
 誰の手も借りない。自分1人で生きていくんだ! ……でもドラえもんの道具頼みで。のび太は【着せ替えカメラ】と【グルメテーブルかけ】と【キャンピングカプセル】を借りて家出をするのだった。
 さっそくいつもの空き地に拠点をつくり、家で生活を始めるが、ものの数分で「土地の持ち主」に怒られてそこを去ることになる。
 次に裏山へ行って拠点を作るが、そこも誰かの私有地。すぐに追い出されてしまうのび太だった。
 仕方なく家に戻ったのび太は、ドラえもんの【どこでもドア】を借りて、誰もいない村へ行って拠点を作ろうとするが、村はその日のうちにダムに沈み、大慌てで家に戻るのだった……。
 一方その頃、ジャイアンは「冗談じゃないっつーの! 店番やら草むしりやら、俺はかーちゃんの奴隷じゃないっつーの!」と母親に反抗して家出。スネ夫としずかちゃんも家出。先んじて家出生活を始めているのび太と合流しようとするのだった。
 そんな様子を呆れて見ていたドラえもんだったが、家でハムスターを預かることになり、急遽家出に加わることに。
 でも家出をするっていったってどこへ? 今時、どこへいっても土地の持ち主がいる。昔のように子供が自由にできる場所なんてどこにもない。
スネ夫「こんなのおかしいと思わない! だいたい土地なんてものはさ、46億年昔に地球が誕生した時からあったわけじゃん。それから後から来た人が勝手に切り分けるなんてさ!」
 という話を聞いて、のび太は「そうか、誰もいない時代へ行けばいいんだ。日本が誰もいない時代へ行けば、日本はまるごと僕らのものだ!」
 遠い過去の時代へ行って家出をしよう! とタイムマシーンに乗る一同だったが、そこに謎の時空乱流が。どうにかこうにかやりすごし、無事に7万年前の日本に辿り着くのだった。


 ここまでで15分くらいのお話。だいたい15分刻みで物語が展開するようになっている。展開が非常に早い。
 今回の冒険の切っ掛けは、親たちへの反抗。のび太は母親から厳しく勉強をするように言い渡され、しかしどうしてもその義務を負いたくなかったのび太は、家出を決意する。
 ここには2重のテーマが隠れている。
 まず大人達の決めたルール。学校の勉強しなければならない。家の手伝いをしなければならない。のび太は学校の勉強をしなければならないし、ジャイアンは家の手伝いをしなければならない。それがいつかやってくる、大人の社会、現実の社会に適応していくために重要な課題となる。その課題からの逃避。
 もう一つのテーマは、子供としての自意識。のび太達は、自分たちの自意識の発露を疎外された子供たちだ。子供であっても、自分の土地、自分の時間、自分が思い通りにできる“領域”がほしい。そういうものが、例えば子供が作りがちな「秘密基地」なんかに現れてくる。子供たちが何かを欲しいとごねるのは、それそのものが欲しいから、というより、自分にも一定の「権利」があるという証が欲しいのだ。
(のび太はテストで何も回答せず、0点を取る。これはひょっとすると「わからないから」ではなく、「親・大人への反抗」だったのかも知れない。なぜなら、一問も解かなかった――要するに最初から解く気がなかった。普通なら、頭が悪くてもとりあえず何か書いて試行錯誤をしようとするものだが、のび太は最初からそれをやっていない。これは「頭が悪い」からではなく、「反抗」だったのではないか。お母さんに怒られた後「もう我慢できない」と憤慨する。この憤慨の理由は、もともと0点のテストが親や大人達の抗議で、それを受け入れられなかったからの怒りだったのではないか)

 ところが現代の子供たちは、家や学校の他に、「自分たちの領域」を持つことを禁じられている。私たちの子供の頃は、どこか知らない土地に勝手に段ボールを持ち込んで「秘密基地」なんか勝手に作ったりしていた(そういえばあの土地もどこかの誰かの所有地だったんだよな……と今さらながら思うけれども)。そういうことがギリギリ許されていた時代だった。でも本作のリメイク元である『のび太の日本誕生』が描かれた時代には関東の住宅地にはもうそういう「子供のための領域」がどこにも残されていない時代だった。
 「ゲームばかりしてないで外で遊びなさい」……というのはあの当時から言われていた話だけど、「じゃあどこへ?」という問題だ。1988年当時はまだ緩かった。しかし現代は公園に行っても「自転車で入るな」「ボール遊びするな」「大声を出すな」と看板が立てられている。要するに、「子供は入ってくるな」という意味だ。「ゲームばかりしてないで外で遊びなさい」と言われても、子供が遊べる場所なんて、今の時代、どこにもないじゃないか。
(子供だけではなく、どの年代も、「自分たちだけの領域」は欲しがる。だから若者は誰かの家を拠点にして集まったりする)
 『ハックルベリー・フィンの冒険』という昔の小説があって、家なしの子供が筏を組んで、気ままに川下りをして、魚を釣って過ごしていた……という物語だ。私たちはそういう気ままな旅暮らしに憧れる。
 でも今の時代……こんなお話は無理。現代人にしてみれば、異世界ファンタジーみたいなものだ。
 子供たちはやがてやってくる大人社会のルールを学ばなければならない。でもその前に、“自分たち”が好きにできる領域が欲しい。社会に順応しろという前に、自分たちの自意識もまた大事だ。だがその自意識を構築する場所が現代のどこにも残されていない。
 そこで『ドラえもん』らしい飛躍――日本に人類が入ってくる以前まで戻ればいいんだ! と思いついて過去へ行くのだった。

 では次の15分のストーリーだ。


 7万年前の日本。そこは見渡す限りの原野。人なんているはずのない。何もかもが自分たちだけの世界だ――!
 のび太達は自分たちの世界がそこにあることに大喜びする。しかしその時代の空気はやたらと寒く、しかも危険な野生動物が一杯。そこでドラえもんは【エアコンスーツ】【ショックスティック】という2つのアイテムを出し、しのぐのだった。
 のび太達は場所を移して、ちょうど良さそうな小さな山を見付けると、そこに横穴を掘って住居を作ることに。その仕事はジャイアンが受け持った。
 しずかちゃんは【華園ボンベ】を渡され、花壇を作ることに。
 スネ夫は【畑のレストラン】を渡され、みんなのための食べ物を作ることに。
 のび太は……特にすることもないので、ペットを作ることに。【遺伝子アンプル】と【クローニングエッグ】を渡され、何かしらのペットを作り、育てることに。
 さっそくのび太はペットを作りを始めるが、普通に作るのは面白くない。みんなを驚かせたい。そこで遺伝子を混合させ、空想の生き物を作ることを思いつく。
 誰もいない世界での一時を満喫したのび太達は、ここで一度家へ戻ろう、と提案し始める。家出はやめない。ちょっと中断するだけ。またこの時代に来て、家出の続きをやろう――と決めて、現代に変えるのだった……。


 7万年前の日本へ行く。その時代はいわゆる「氷河期」に当たる時代で、第4期更新世で「ヴェルム氷期」が始まった辺りだった……こういう雑学を提供してくれるところが『ドラえもん』の面白いところ。
 実際に、7万年前から1万年前を『ヴェルム氷期』あるいは『ウィスコンシン氷期』と呼ばれていた。この時代は海面が120メートルも低下しているので瀬戸内海も東京湾も陸地だった。「大昔の話だからデタラメでよい」ではなく、きちんと考証した上にファンタジーを作る。『ドラえもん』はこういうところがキッチリしているところが面白い。
 おそらくのび太達が住んでいた辺りというのは、関東の住宅地(でやたらと平地の多い地域)だから、江戸期以降の埋め立て地じゃないかと思われる。海面が上昇していたから陸地になっていたかも知れないが、あそこまで起伏豊かな地形ではないだろう。後のシーンで、西へ向かう際に富士山を通過するので、やはり関東あたりだ。タイムマシーンで移動したついでに、少し内陸部へ移動したのかもしれない。
 氷河期を終えた後の時代は、関東は海に沈み、鬱蒼とした湿地帯に変わる。関東は歴史を通じてずっと海で、源頼朝の時代でもそこに拠点を作ろうとは思わないくらいの荒れ地だった。のび太達が降り立ったのは、その以前の時代だ。

 この時代の日本にバイソンがいたかどうかは……。バイソンと同じ種である「ハナイズミモリウシ」の骨が発見されている。バイソンによく似た生き物は、どうやら生息していたようだ。

 この時代でのび太達は、ドラえもんの秘密道具を使い、衣・食・住の問題をあっという間に解決してしまう。こういうところが実にゲーム的だ。現実世界で食べ物を作るには非常に大変なプロセスが必要になってくる。食物を作るにも、作物の身を一つ一つ育て、しかし天候不順だとうまく育たなかったり……そういう問題を秘密道具であっという間に解決し、その日のうちに食べ物が作られてしまう。しかもカツ丼にカレーにスープ……「加工された」食品達だ。
 こういうのが一瞬にして手に入ってしまう、というのはゲームの世界。『牧場物語』的な世界観だ。
 さてゲームの不思議。現実世界の「仕事」は退屈で大変だけど、ゲームの世界の「仕事」は楽しいしもっとしたいと思う。なぜか? それは少しの苦労で結果が見えるように工夫されているからだ。ということは現実の仕事も、ゲームのように楽しめるのではないか。なぜ現実の仕事は楽しくないのか?
 ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を紐解くと、そもそも「仕事」というのは「遊び」から始まったものと書かれている。いつしか私たちは、「仕事」から「遊び」の要素を排除するようになった。仕事は楽しくない……仕方なくやるものだ……と。
 でも未来の世界、道具が発達すると仕事に付きものの「面倒」が排除され、仕事が再び「遊び」に回帰していくのではないだろうか。
 ……ということを『ドラえもん』のこのシーンを見ていて思ったのだった。

 ところでドラえもんがのび太に動物育成セットを持たせるのだが、そのバッグが、のび太が最初に「家出をする」といって持っていたバッグと非常によく似ている。ほぼ同じデザインで、形を大きくしただけのものだ。のび太への課題が、そこで一歩進んだ、ということが示されている。

 次の15分を見てみよう。


 いったん家に帰ったのび太達。しばし現代の時代を過ごした後、「またあの時代へ行こう」ということになり、のび太の家へと集まってくる。
 しかし――誰かいる。のび太の家に誰かが忍び込んでいる。
 押し入れに、謎の少年がいた。ジャイアンとスネ夫が2人がかりでどうにかこうにか取り押さえるが、その騒動の音を聞きつけてお母さんが階段を登ってくる。のび太達は大慌てでタイムマシーンに乗ったのだった。
 謎の少年はどうやら本物の原始人のようだ。本物の石槍に本物の毛皮の服を身につけている。
 そうだ、あれだ! あの時の時空乱流だ! あの時の時空乱流に人が飲み込まれて、自分たちが7万年前の世界に行ったことが干渉し、1人の少年が現代に引き込まれてしまったのだ。
 ドラえもんは早速、時空乱流の痕跡を調べ始める。
 ジャイアンとスネ夫は周辺に人がいるかも知れないと見回ることに。
 のび太は自分が育てたペットのグリ、ドラコ、ペガがどうしているのか、様子を見に行く。すると、みんな立派に成長していた。
 間もなくドラえもんの調査が完了し、少年がやって来たのはこの7万年前の時代、北緯31度7分、東経118度2分――21世紀の時代でいうところの中国大陸和県(ホーシェン)辺りだと特定する。
 目覚めた少年に【翻訳コンニャク】を食べさせて話を聞くと、自分たちの村は『クラヤミ族』に襲われ、みんな連れ去られてしまった。自分はその時たまたま狩りに出かけていて難を逃れたが、その時謎の大穴が空に浮かび、吸い込まれてしまった……と語られる。
 それは大変だ。すぐに助けに行こう――ということになり、グリ、ドラコ、ペガたちに乗り、中国大陸へ。間もなく連れて行かれようとしている少年ククルの仲間達であるヒカリ族を発見し、戦いになり、解放するのだった。
 この時、ドラえもんは『ドラゾンビ』と名乗り、未来の道具で奇跡のような現象を起こし、敵である『ギガゾンビ』の抵抗勢力になるのだった。


 いよいよ7万年前の人類と遭遇する。
 諸説はあるが、人類がアフリカ大陸を出たのが10万年前から7万年前。狩猟採取民としての初期時代の文明で、まだ青銅器も作り始めていない。農耕も始まる以前の時代だ。
 この時代の人類というのは、現代人よりも体が大きく、脳の容量も大きかった。現代人は「昔の人は何も知らないから、きっとバカだったに違いない」と決めつけてかかるが、単に近代的な科学と教育に触れてなかったというだけで、「考える力」はこの時代の人のほうが圧倒的に高かった。現代人は「あまりにも便利すぎる道具」に囲まれすぎて、「自分で考える能力」は非常に弱くなっている。
 身体能力も現代とは比較にならないくらい高い。それはククルの設定に反映されていて、のび太達と同じくらいの年頃だが、圧倒的に高い身体能力を見せている。氷河期で寒かったのにも関わらず、肌を晒しても平気でいる。
(ついでに、この時代の人達は歯並びもよかった。現代人は栄養過多の暮らしをしているから、「虫歯」を抱えている。狩猟採取民の人類は虫歯と無縁であった)

 この時代の道具は石と石をぶつけてあって作る『打製石器』というものが使われている(こうやって道具を作る方法を「ルヴァロワ技法」と呼ばれる)。後のシーンで、ヒカリ族がこの打製石器を作っている場面がある。武器に使う槍も石だし、草刈りに使っているのも石のナイフだ。
 本作ではこの石器を作る人、その道具を使う人と役割分担しているような描写が見られるが、実際にはこの時代の人ならば誰でも打製石器を作ることができた。というか、これを作る能力がなければ即死亡の世界なので、必須のスキルだった。石器時代は『ダークソウル』よりもハードな世界だったのだ。
 この時代は生存のために、大人も子供も同じように働く。ジャイアンは家の手伝いが嫌で家出をしてきた身だったが、子供たちも当たり前のように働く姿を見て、一緒に働くようになる。これはジャイアンにとって「大人のルール」に体を順応させていくうえで重要な描写だ。

 では敵となる「クラヤミ族」とは何者なのか?
 映画の映像を見た感じ……おそらくクラヤミ族は「ホモ・サピエンス」とは別種の人類ではないだろうか。というのも、ヒカリ族の風貌と比較して明らかに違いすぎる。体格も大きくがっちりしているし、体毛も濃い。
 かつての地球上には、ホモ・サピエンスだけではなく様々な人類種がいた。ネアンデルタール人やジャワ原人、ホモ・フローレンスなど……。クラヤミ族はそういった、ホモ・サピエンスに先んじてアフリカを脱して世界中に拡散していた、ホモ・サピエンスとは別の架空種なのではないだろうか。7万年前という時代ならば、そうした現代に遺されていないない、謎の人類種がいてもおかしくない。そうしたファンタジーを描いているのだろう。こういうところもドラえもんらしいファンタジーで面白い。
 そしてそれをギガゾンビが従えている。おそらくは力に特化したクラヤミ族たちを服従させれば、その時代に自分の帝国を容易に作れると考えたのだろう。

 その謎人類種であるクラヤミ族は、みんな黒っぽい石槍を使用している。黒曜石の石器だ。黒曜石は加工すると非常に切っ先の鋭い刃になる(ただしもろいという欠点もある)。凶暴なクラヤミ族の性格をよく現している武器だ。

 映画は最終的に、中国を放浪していたヒカリ族を日本に招いて定住させるところで物語が終わる。その後のストーリーが少し描かれるが、勾玉の首飾りが描かれる。ヒカリ族が間もなく「日本人の祖」となっていった……ということが暗示されている(そういえば「ヒカリ族」というネーミングは「天照大神」を示唆しているのかも……これは勘ぐりすぎか)。おそらくは勾玉を身につけるようになったのはもっと後の時代ではないかと思われるが、ヒカリ族の祖先が間もなくそういったものを身につける一族になっていった……ということを示しているのだろう。
(そもそもあの映像が、本当にククルたちのその後、大人になったククル達なのか……はわからない。実は何世代も後の姿を見ているのかも知れない)

 確かに7万年前のこの時代、日本は海面の低下で大陸と地続きになっていた。その時代に日本へ移住してきた人達……というのは確かにいる。しかしその彼らはどうやら日本人の祖とならず、全滅している。
 現代の日本人の祖となった人が日本に入ってきたのはもう少し後、日本と大陸が海で切り離された後の時代、舟で海を渡ってきたのではないか……というのが現代の説だ。
 今のところ発見されている遺跡からは3万年から5万年の間……というふわっとした説が唱えられている。結局のところは「よくわからない」ということだ。
 このまだ解明されていない問いに対して、「実はのび太達が日本人の祖を連れてきた」というお話は、『ドラえもん』らしいファンタジーとして面白い。

 ただし、大きな問題は、なぜタイムパトロールは黙っているのか? 本作の場合、ドラえもん達は日本人の祖先を連れてきてしまっている。この一件にかかわらず、ドラえもんは様々な歴史や事件に介入してしまっているが、タイムパトロールはドラえもんとのび太のすることに関しては見逃してきている。
 ギガゾンビの悪行は許して、ドラえもんたちの歴史介入は見逃される理由は?
 1つの推測は、(これは以前から考えていることだが)ドラえもん達が作った歴史が「正史」であるからだ。ドラえもんがのび太の時代にやってくることも、そのドラえもんがのび太と共に歴史介入することも、実は未来の大きな視点から見ればすべて正史である。だから見逃されている……という説だ。歴史は実際にドラえもんとのび太が介入して作られていったのだ。
 か、どうかはわからないが。

 では1988年『のび太の日本誕生』と2016年の『新・のび太の日本誕生』はどこが違うのだろうか。比較……といっても私の記憶で話をするので、「果たしてオリジナルはどんなストーリーだったかな?」みたいに思っているところもある。私の記憶の範囲で考えていくとしよう。

 大きな違いは、お母さんの描写。オリジナル版のび太のお母さんこと野比玉子はただただ理不尽に恐ろしい母親だった。それが本作では、「母親の目線」も少しだけ描かれている。こうした多様な視点を入れ込むのは現代的な描写といえる。
 後半、雪山で遭難したのび太は、幻覚を見ることになる。お父さんがストーブに当たっている姿。お母さんがラーメンの汁を捨てる姿……。この描写はオリジナル版にもあった。
 この時、お父さんとお母さんはのび太に「1人で生きていくんでしょ」と指摘する。この台詞はオリジナル版にはなかったはず。
 そもそものび太は、映画の冒頭において、「家出をして1人で生きていくんだ!」と息巻いて飛び出して行ったはずだった。それが結局のところ、ドラえもんの道具頼り。のび太にとっての命題である「独り立ち」のテーマは最初からポッキリ折れてしまっている。それが今回の劇場版で改めて掘り下げられている。
 このシーンはドラえもんの秘密道具で救われるはず……だった。しかしドラえもんの秘密道具で救われてしまったら、「1人で生きていくんだ」という命題がまたしても腰折れになり、結局はドラえもんの秘密道具頼みということになってしまう。
 そこで、自分が生み出した生き物である、ドラコ、グリ、ペガに救われるという展開が代わりに描かれる。
 ラストの戦いも変更されている。オリジナル版は、もっとあっさり追い詰められ、もっとあっさりとタイムパトロールが登場しておしまい……だった。劇場版ドラえもん、「タイムパトロール=デウス・エキス・マキナ化問題」だ。結局はタイムパトロールが登場したら、物語が終わり。タイムパトロールが物語を終わらせる便利なキャラクターにしてしまっていた。
 それが、今作ではしっかりと戦い、ギガゾンビを追い詰める……というところまで描写している。ドラえもん達自身で戦いの決着を付けて、タイムパトロールはその仕上げをするだけ……と役割が入れ替わっている。
 さて、そのギガゾンビはネタバレをすると実は未来からやってきた男だった。ドラえもんよりも1世紀ぶん未来からやってきた。ドラえもんと対比するようなキャラクターになっている。同じく未来からやって来た存在でありながら、一方は悪しき欲望を持って過去の時代から未来を変えようとした。「鏡面の存在」……というほどではないが、ドラえもんと対立するキャラクターとなっている。
 そのギガゾンビとドラえもんが一騎打ちをする、というのが本作のクライマックスに置いている。この構図作りは非常にいい。

 さらにその後、ドラゴ、グリ、ペガの別れは情緒たっぷりに描かれた。旧作の大長編はここまで情緒を出して描かれることはなかった。この物語の終わりに、この物語の締めくくりに、感情のポントを置いている。旧作にはなかった名シーンが生まれている。

 こうしたクライマックスを経て、のび太はようやく、0点テストの問題を解く……ということを始める。ようやく自分に課された課題を受け入れる気になった。のび太のごくごく小さな成長の一歩を描いて、物語が終わる。

 久しぶりに『劇場版ドラえもん』を見ていて、「ああ、いいものだなぁ」としみじみ思った。とにかくも楽しい。興味をそそられる。ただの冒険物語ではなく、科学的な知識が随所に張り巡らされ、デタラメな作りをしていない。ある程度根拠のある考証を行った上で、夢一杯の冒険物語を描いている。このバランス感覚がいい。
 映画の画作り的な面を見ると、とにかくも「止まっている画」がない。常に画面が動いている。キャラクターが動いているというところもあれば、背景のどこかが必ず動いているし、画面移動も多い。画面の動きだけで、見ている人を飽きさせない配慮が一杯施されている。  視聴者の半分は10歳前後の子供だ。こういう子供は、非常に集中力が低い。1分でも止まっている画面が続くと興味を失ってしまう。そういう子供にとっても楽しい作品になっている。
 ただし、もう少し情緒のある画面も欲しかったな、とも思う。光景を見ていて美しさを感じる場面が少ない。現代の風景、7万年前の日本、もう少しその風景そのものを見せる場面も欲しかった。
 その7万年前の日本の風景だけど、パースをほとんど無視して描かれているところは残念。原野に立っているのび太達の立ち位置がおかしい。こういうところをがっちり描けば、本当の意味で大人も「お!」と思える映像になったのだが……。あと一歩という感じがするのは惜しい。
 新作にはクライマックスに向けて感情のピークとなるポイントが置かれている。ギガゾンビの戦いと、ドラゴ、グリ、ペガとの別れに重点が置かれている。それから、のび太の成長をどのように表現するか。この2つの変更点を見ただけでも、リメイク映画を作る意義は間違いなくあったと見てもいいはずだ。


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