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2022年冬期アニメ感想 地球外少年少女

 『電脳コイル』の磯光雄監督が15年ぶりにシリーズアニメを制作する!
 とはいっても、あの名作『電脳コイル』も15年前。ひょっとすると若い世代は知らないかもしれない。『電脳コイル』はARグラスをアニメーションの中に初めて登場させた作品で、今でもARゴーグルについて、「要するに電脳コイルっぽいやつだ」と説明されるくらいだ(ARグラス制作者が『電脳コイル』を参考に作っているくらいだ)。「ARグラスとはどういったものなのか?」という私たちの理解のベースにあるものが、アニメ『電脳コイル』といってもいい。
 『電脳コイル』はかなり不思議なお話で、ごく普通の小学生の暮らしを中心にしながら、みんなARグラスを付けている。前時代的な風景と、近未来的な文明をほどよく融合させた、「懐かしさ」と「先進性」を組み合わせた作品であった。SFだったがやたらと現実感のある、「未来はこうなるかもしれない」という“近さ”を感じさせてくれる作品だった。
 本作『地球外少年少女』もテイストだけならそういった感覚に近い。舞台は宇宙で、ほとんど宇宙ステーション内だけでお話が展開するが、いかにも「SFです!」という感じではなく、どこか親しみと懐かしさを感じさせてくれる。SFだけど、クールではなく、ホット……それも人肌くらいの暖かさを持った作品だ。
 『電脳コイル』という作品では「ARグラスってそもそもなんなの?」という具体的メージを私たちに提唱したように、『地球外少年少女』では「宇宙での暮らしって、現実的に描くとどんな感じになるの?」というかなり具体的なイメージを提供してくれている。作中に描かれている技術の多くは、“空想科学”ではなく現在研究中で近々現実的に可能になるもの、あるいは現時点で可能な技術を中心としており、SFとはいえかなり地に足のついた描写となっている。

 ストーリーは次のようになっている。
 舞台となっているのは宇宙ステーション「あんしん」。日本の行政が考案したものなので、外観のデザインセンスやネーミングセンスはかなりアレなものになっている(日本の政治家や公務員には美的センスがないって思われているんだなぁ)。物語はほぼこの中で展開されていくので、登場人物は全体を通じて12人。「ひとつの舞台」と「12人のキャラクター」たちで物語やドラマが展開していく。

 まず物語の前景になっているものがあるのだが、これがやや複雑なので、ここだけは書き起こしておこう。

 2030年頃、とある日本企業「セブンテクノロジー」が中心となって、月移住計画が実行されていた。完全な月移住なので、そこで食料生産、子供を産んで育てることも計画の中に含まれていた。
 ところが月で生まれた子供たち15人のうち10人に問題が生じて、幼児のうちに死んでしまう。月の低重力が幼児の成長に悪影響を与えていたのだ。
 それで、生存した5人の子供には脳内に「インプラント」が埋め込まれた。このインプラントを設計したのは、当時最高の頭脳を持っていたAI「セブン」。このインプラントのおかげで5人の子供たちのホルモンバランスは安定し、正常に成長するようになった。
 しかしこのインプラントは、第2次性徴期に入った時にどんな影響をもたらすかわからない。インプラント自体、第2次性徴期に入ると溶けて水や窒素に分解するはずだったが……問題が起き、中途半端に脳内に残ってしまった。
 その問題を解消したかったが、AI「セブン」は間もなく暴走し、「ルナティック」と呼ばれる現象を起こす。コントロール不能に陥って理解不能な言語を撒き散らすようになり、危険を感じたNU2(国連2…国連の後継組織)はAI「セブン」を殺処分する。同時にAI「セブン」を設計した会社「セブンテクノロジー」は倒産。AI「セブン」が殺処分されてしまったために、インプラントがどのような設計思想で、どうすれば除去できるのか、とうとうわからないままになってしまった。
 主人公である相模登矢と七瀬心葉は月で生まれた子供たち唯一の生き残り(月生まれの子供たちは最終的には2人になっていた)。二人の脳内には今もインプラントが残っており、このまま放置するとどういった事態を引き起こすかわからない。相模登矢は七瀬心葉のために、インプラントを除去する方法を独自に研究するのだった……。

 相模登矢と七瀬心葉の2人は、「宇宙で生まれた子供」として、地球でもっとも有名な子供たちになっていた。

 ここまでが、物語が始まる前に起きていた事件の話。作中でも解説が入るがやや複雑なので、事前に知っておいてから見るのもいいだろう。

 ではここからが本編のストーリー。
 宇宙ステーション「あんしん」で過ごしている相模登矢は愛用のドローン「ダッキー」の知能リミッターを外す研究をやっていた。AIは暴走すると何を起こすかわからない……という懸念から「知能制限」をかけられていた。相模登矢はそれをどうにか外そうと、ハッキングを続けていた。
 AIの知能リミッターが解除され、あの「セブン」と同等の知能を得たら、脳内に残ったインプラントを除去する方法を発見してくれるかもしれない。その期待を持ってハッキングを繰り返し続けてきたが、なかなかうまくいかず……。

 知能リミッターが解除されたダッキー。知能レベルB。とりあえず「うんち」と発言するくらいの知能。世界最高頭脳ことAI「セブン」には遠く及ばない。

 宇宙ステーション「あんしん」の中は、相模登矢の他に、同じく月で生まれた少女・七瀬心葉、2人の面倒を見ている看護師の那沙・ヒューストン、それからいつも管制室にいる3人の大人たちだけだった。

 口も態度も悪い相模登矢。大人たちへの不審、環境に対する不審、その一方で自分の才能に対する自信と、いろんなものが重なってとにかくも捻れた性格をしている。同じ月生まれの仲間達が全員死に、脳内にいつ自分たちを死に至らしめるかわからないインプラントが残され、周りの人に対する不信感は猛烈に強い。
 ただし、七瀬心葉を想う気持ちだけは本気だ。
 SNSのフォロワー数は1億人を越える。人格は捻れているが、「地球外」で生まれた唯一の少年として注目される存在になっている。

 正統派ヒロインである七瀬心葉。薄幸の美少女で、相模登矢の理解者。脳内に残るインプラントの影響を強く受けている。

 2人の面倒を見ているのが、看護師の那佐・ヒューストン。「那佐・ヒューストン」というから、あの「NASA・ヒューストン」かと思ったが、そうではなく、たまたまあのヒューストンと同じ名前……という設定。

 そんな宇宙ステーションに、この日は「お客さん」が来ていた。地球から選ばれた少年少女が、宇宙ステーション体験ツアーにやってきたのだった。

 宇宙ステーション体験ツアーにやってきた1人、美笹美衣奈。YouTuberで今回の体験ツアーもネットで配信する気まんまん。
 登場した最初は「あ、可愛い」……とか思ったけれども。間もなくただのヘンな子とわかってくる。

 種子島博士(ひろし)。通称「ハカセ」美笹美衣奈の弟。両親が離婚しているため、名字が違う。ハカセがかけているメガネは『電脳コイル』にも登場したメガマス社製ARメガネ。物語的な繋がりはないが、世界観は繋がっている。

 もう一人の招待客、筑波大洋。一般客として「あんしん」にやってくるが、正体はUN2(国連)公認のホワイトハットハッカー。相模登矢が違法なハッキングをやっていることを察知して、逮捕しにやって来た。

 ちなみに登場人物はみんな宇宙に絡んだ名前となっている。「JAXA相模キャンパス」「JAXA美笹深宇宙探査用地上局」「JAXA種子島宇宙センター」「JAXA筑波宇宙センター」……つまりJAXAのある地名が名前になっている。

 宇宙ステーション「あんしん」にやってきた筑波大洋はさっそく相模登矢が違法なハッキングをやっているところを確認し、逮捕しようとする。
 しかし相模登矢と筑波大洋がいさかいしている最中、宇宙ステーション自体にも異常が迫っていた。
 宇宙ステーションに彗星が接近し、その彗星をめがけてUN2が唐突に核ミサイルを放ったのだ。その影響で宇宙ステーション内の全電源がダウンする。
 間もなく宇宙ステーション内の電源が復帰するが、“彗星の破壊”に“失敗している”ことを確認。彗星は地球衛星軌道内を周回しているわけだが、その軌道が宇宙ステーション「あんしん」の軌道と重なることに気付く。宇宙ステーションは大慌てで高度を下げる。
 すると対決中だった相模登矢と筑波大洋が、宇宙ステーションの突然の降下につられて、奈落の底へと真っ逆さまに落ちていく……。

 宇宙ステーションと彗星の激突はどうにか免れたが、宇宙ステーションの電源は切れ、ネットが切断され、酸素供給もストップしてしまう。相模登矢と筑波大洋は対立をやめて、生存のために協力することになる。

 本作は「前編」と「後編」に分かれていて、前編は電源ストップ、ネットも繋がらない、空気がどんどん減少していく、という事態を前にどうやって生存していくか……という「宇宙サバイバルもの」になっている。
 登場人物は子供たちだけなので、宇宙を舞台にした『15少年漂流記』のようなストーリーになっている。
 宇宙ステーションの外壁は「布」でできていて、その布の一部に破れ目ができてしまった。空気がどんどん吸い取られていくし、気圧も気温も減少していく。そうした状況下でどのように生存していくのか……。ある意味、「お馴染みのシチュエーション」なのだけど、これが宇宙空間で行動も物資も限られたなかでのサバイバルになるので、これだけでも新鮮味のある展開になっている。
 物資が限られている……というのは宇宙ステーション「あんしん」が未完成で放置されてしまった場所なので、「緊急時」の物資が充分に用意されていない。食料も充分でなければ、宇宙服も人数分用意されていない。後に宇宙空間に出なければならないシチュエーションがあるのだが、しかし宇宙服の数が足りないことに気付き……という展開もある。
 第3話にこんな台詞がある。

「宇宙は本物の自然界だ。本物の自然界は友達なんかじゃない。隙を見せると人間を殺しに来る敵だ」
 地球の自然は、とっくの昔に人類の脅威ではなくなっていた。それどころか、人類の不始末を浄化してくれるような、「やさしい存在」とすら考えられている。
 地球上の自然は手ぬるい……。だが宇宙という「大自然」は容赦がない。ほんのちょっとの失敗で死亡する。そもそも、生身で宇宙空間に出たら人間など一瞬で死んでしまう。そうした自然と対峙しながらいかに生存していくか、が前半3話のテーマとなる。
 また宇宙を「未知の自然」と捉えているところが後半のストーリーの布石となっている。この辺りは後ほど詳しく掘り下げていこう。

 ではここで監督・磯光雄のインタビューから2つのコンセプトをピックアップしていこう。

WIRED:科学とフィクション、その果てしなき「イタチごっこ」の行方

磯「特に昨今のアニメ界隈では、科学技術はダサいとまで言われるんです。優秀な後輩にね、宇宙ダサイ、AIダサイ、SFダサイと面と向かって言われたこともあります(苦笑)。でもそろそろそういった偏見のほうが年をとって疲労してる気がするんですよ。そういうの飽きましたよ。科学や未来に否定的な振り子はピークを超えたと思います。」

 これには確かに「波」があって、遡ること70年代~90年代は間違いなくSF全盛期の頃で、あの時代は舞台はとりあえず宇宙! どこかの惑星! ロボットが出る! ……みたいなアニメがたくさんあった。科学技術がより新しい未来を作ってくれる……と無邪気に信じていた時代。SF、ロボットものの名作、駄作が山ほど作られていた。
 ところが90年代を超えた辺りから、科学技術の発展が一旦落ち着いた感じになり、科学の発展が私たちの生活をこれ以上向上してくれないという認識が広まり、それどころか科学は「自然環境を破壊する」忌まわしきものという認識へと移りつつあった。
 科学否定、オーガニック礼賛の意識が広まり、深まり、この頃だったと思うが、子供たちの科学認識能力が低下し、「地球が丸い」ということも知らない子供たちが報道を賑わすようになった(どれだけ本当だったか知らないけど)。「科学は悪いもの」という認識が、「科学は学ばなくてもいい」という極端な認識へと移ろうとしていた。
 さらにいわゆる「SF警察」と呼ばれる人達も暴れ回った。SF考証がちょっとでも違ったら大騒ぎしてバッシングを始める。こういうSF警察の暴走があって、かつては自由な発想で作られていたSFは次第に萎縮していき、「不用意に手が出せないジャンル」というイメージが作られていった。
(SF警察よ、SFを衰退させたのはお前らだぞ!)

 そうした時代を経て、再びSF……つまり科学への関心は戻りつつあるんじゃないか、と磯光雄は推測する。科学技術は停滞した、と思われたが、AIとロボット技術の発展という新たな芽を経て、科学に希望を抱く時代が戻ってきたんじゃないか……。
 そうした時代の空気を感じ取って、「次世代」に流行りそうなガジェットが作品の中にてんこもりとなった。AI、ロボット、ドローン、掌に貼り付けられたスマートと呼ばれるアイテム……。私たちの時代にすでにお馴染みになったものの進化形と、これから私たちの周囲に現れそうなものが作品の中に登場する。
 磯光雄監督が気に掛けていたのは、かつての時代に描かれたような「未来観」だった。例えば……未来人はみんな銀色のスーツを着て、車がパイプの中を走っていて……という。映画『ドラえもん STAND BY ME』ではそういう「一昔前」の人達が夢想した未来観が描かれていた。あの映像を見た時の、なんともいえない嘘くささ、胡散臭さ。「未来の風景」を見ているはずなのに、「過去の風景」を見ているような奇妙な感覚。1960年代風の背景が10年後、あんな未来になる……なんて描き方のどこに説得力があるだろうか。
 70年代80年代のクリエイターたちは多くのヒーローロボットを創造していったが、ああいった感性も古い。ああいったものはまるごと「昔の人が考えていた未来」でしかない。
 では「現代の人が考える未来」とはどんな姿なのか? こうした観点から『地球外少年少女』のイメージが構想されていった。
 私たちは誰かが用意したテンプレートから物事を考えようとする癖がある。「SFといえば……」というお題を与えられると、つい昔の人が考えたSFイメージを頭に浮かべてしまう。そういうものこそ「古い」イメージでしかない。頭に角を付けた、カラフルな人型ヒーローロボットなんて、昔の人の感性だ。私たちの時代は、昔の人が思い描いていたSF世界をとっくに超えている。今の時代を見て、いま提唱されている技術を見て、そこからどのようなSFを構想できるか……『地球外少年少女』はそういうところから世界観が構築されていった。『地球外少年少女』が描こうとしていたのは、新しい時代に向けたSFのスタイルの提唱である。

 電脳バトルシーン。外壁となっている布に画像が映るようになっていて、そこにブロックロイズが広がっている様子が描かれている。電脳バトルを、視覚的にわかりやすく表現されたシーンだ。
 「電脳バトル」そのものを初めて視覚的に表現したのは、士郎正宗原作『攻殻機動隊』ではないかと思う。そのイメージを継承しているが、『地球外少年少女』ではこの作品らしい、独自の電脳バトルの表現を提示している。

 磯光雄は『電脳コイル』と同じアプローチを採用しながら、『地球外少年少女』の世界観を構築していく。人間はそう変わらない。ファッションもどこかの時代に停滞している。ただ道具が私たちの時代を違っていて、その道具が当たり前となった時代がそこにある。そして、そういった新奇な道具を最も使いこなせているのは子供たち。
 『電脳コイル』では子供たちはみんなARグラスを着用しているのが当たり前だったが、大人はそこまでARグラスを付けていない。そういった新奇なものを早く取り入れるのは子供たちの方だ……という認識がそこにある。

 YouTuberの美笹美衣奈。配信を始めると、髪色が少し変わる。たぶん、「デジタルメイク」じゃないかと……。現代では『SNOW』のような、顔を自動で検出し、その顔に修正を入れたり、メイクを施したりするものがある。こういった技術は進歩し、動画中の人物の顔にメイクを入れたりもできるようになっている。おそらくはそういったもののイメージを描いるんじゃないか……。実際には髪色は変わってない……と。
 あともう少し先の未来では、顔出しYouTuberはみんな顔に修正を入れるので、画面に映っている顔が真実かどうかはわからなくなっていく……。

 次はこんなお話。

磯光雄と吉田健一の宇宙の旅(前編) 魅力がないと思われているものを魅力的なものに化けさせる

磯「今のアニメ業界はどんどんリアルな方向にいって、ガチガチのリアルにいってしまった人たちと、その反動でちょっと漫画にもどろうという人たちがいて、自分は後者なんです。単純に「リアル=面白い」ではないなとあるところで引き返したといいますか、今はあまり見かけなくなった漫画的な表現の面白さを忘れたくないなと。そういうのって、時代に関わらず良いものは良いと思うんだけど、時代の流行りすたりで過小評価されてたりするんですよ」

 うーん、これは……高畑勲が悪い。
 という冗談はさておき。
 いつの頃からか、アニメのキャラクターって集合無意識的な「テンプレート」で描かれるようになっていった……というのがある。いつからそうなったのかよくわらないけど……。どのアニメを見ても、似たようなキャラクターばかり。髪の形がほんのちょっと違う、目の形がほんのちょっと違う。上手い下手もどんぐりの背較べ。アニメユーザーもそのテンプレートに載せてキャラクターが描かれていないと、良いのか悪いのかの判断もできない……。
 これも文化が成熟していった証。「こうすれば雰囲気よく見える」という積み上げのうえに、現代のスタイルがある。そういう意味で、先人が積み上げたものをうまく継承してキャラクターを作っている……というのがある。
 絵の情報量の多さ、というのも一つの要素で、画面の線の量さえ増やせば、なんか凄い……みたいな雰囲気は作れるんだ。それこそ、デッサンとかパースとかぐちゃぐちゃでも、線の量さえ増やせれば、なんか凄い雰囲気の絵にもできる。素人さんが相手なら線の量だけで騙せる。
 アニメユーザーがアニメーションの「動き」よりも「止め」の美しさを重視するようになっていき、そういうユーザー向けに、「止め」画面の連続のアニメが量産されるようになっていった。
 しかしアニメの絵って、『明日ちゃんのセーラー服』の感想でも書いたけれども、いくら線を増やしても「質感」は載らないんだ。アニメ絵でエロスは表現できない。色数が増えるだけ。
 『地球外少年少女』はどちらかといえば、あえて前時代的、漫画的にキャラクターを描いている。SF表現は新しいスタイルを目指す一方、“絵柄”それ自体はあえて古くさく、バタ臭く表現されていった。

 眉下の「目蓋」の立体が、かなり雑な線で表現されている。綺麗に整えすぎず、あえて崩す。「筆の勢いに任せて描いた表現」だ。しかし周囲のパースはがっちり、精密に捉える。口は「3」で表現。これも前時代ふうのマンガ表現。

 キャラクターはとにかくも動く! フルサイズで全身の表現を躍動感一杯に捉える。こういったところは超一流アニメーターが担当しているだけあって、どのカットを見ていて楽しい動きをしてくれている。
 『地球外少年少女』はややこしいことに、「完全な無重力空間」「少し重力が発生している状態」「重力が発生している空間」と様々な状況が描かれる。そういう状況に合わせて、キャラクターの体重の重さが表現されている。そういう表現を、こういった画角の広い表現でやすやすと描いてみせるのは、流石。

 1980年代、90年代まで流行っていたSFの熱を取り戻したい。すると絵柄も1970年代や80年代の大衆的アニメの雰囲気で表現される。ある意味、1980年代スタイルのSFアニメを、2020年代にアップデートさせたら……みたいな発想で描いている。作品が目指していたコンセプトを考えると、キャラクターの古くさい表現は理にかなっている……と言えるのかもしれない。

 この作品の話ではないけれど、最近のアニメはキャラクターと背景の組み合わせにちょっと違和感を持っていて……。というのも、キャラクターは「省略化」と「象徴化」によって描かれる。なのに背景は省略化も象徴化もされない。そういうバランスの悪い画が最近のアニメに多い。
 私は個人的に、一時キャラクターの縁にある線を消して絵を描いていたけれど、その当時の絵を見て、はっきり「失敗だった」と認識している。キャラクターの肝って「線」だったんだ。後になってそのことに気付いて、「あの頃描いた絵はぜんぶ失敗作だったなぁ」……と。
 最近のアニメを見て引っ掛かるのは、背景がどんどん写実的に傾いていること。すると「線」と「色彩」で表現されたキャラクターと不一致が起きている。背景とキャラクターが浮いちゃってるんだよね。
 でも、そこを「おかしい」と指摘する人は、若い世代の中でほとんどいないんだ。なぜなら、そういう作品をずっと見てきたから、感覚が麻痺しちゃってる。「これはそういうものだ」と思い込んで見ている。キャラクターが高密度な線で表現され、背景が写実的に描かれ……キャラクターと背景が目指している方向がバラバラになっている。最近のあるアニメの絵を見ると、コラージュ画のように見えちゃうんだ。技術は高いけれど、「表現」として変になってる。そういう絵を、若い世代は「よい作画」という認識で見てしまっている。誰も「画」としてのバランスを見ていない。とにかくも密度が高い絵はいい絵だ……という認識になっちゃってる。画の全体を見て、良いか悪いかの判断ができなくなっている。
 というのを、「ダメな絵」を描いてきた私が言っちゃいけない話でもあるんだけど……。ダメな絵を描いてきた反省があるから、「あ、これはダメな絵だ」と自分の絵を見ても、最近のアニメの映像を見ても思うことでもあるんだけど。
 一回、「アニメ」という視点を外して、「絵」という視点で、アニメの映像を見直す機会があってもいいんじゃないかな……。「高密度に描かれたアニメキャラクター」という価値観も一回捨てて、アニメにとって自然な「絵」というのはどういう絵か、もう一度考え直す機会を持ってもいいかも知れない。

!ここからはネタバレ!

 お話は後半戦。第4話からお話の様相は変わり、「彗星激突」をいかに阻止するか……という展開へと進んで行く。
 月面軌道上に水素と炭素を取り出すための「商業彗星」なるものがあって……。彗星に無人機を送り込んで、マイクロマシンを噴霧させ、自己増殖させて、表面に薄い膜状のコンピューターとエンジンを生成する。これで彗星の軌道を自由に操作できるようになり、月面軌道を周回させ、水素と炭素を取り出していた。
 この彗星が地球へ接近を始める。前半ストーリーでUN2が核ミサイルを撃ち込んで落とそうとしたのがこの彗星。しかし失敗したので、もう一発核ミサイルを撃とうとしている。
 核ミサイルを撃ち込まれると、宇宙ステーションはEMPの衝撃を受けて、電源が破壊されてしまう。そうなる前に、宇宙ステーション「あんしん」を脱出しなくてはならない――。
 これが後半戦の展開。

 彗星を地球衝突軌道から逸らさなければならないが、しかし彗星はマイクロマシンで覆われていて、自立的に地球へと向かっている。なぜそうするのかというと、彗星にはAI「セブン」が搭載されているから。作中では、AI「セブン」は殺処分されているので、彗星に生成された新たなAIを「セブン・セカンド」と呼んでいる。
 AI「セブン」の導き出した答えによると、地球崩壊を救うためには人類を3分の1ほど殺さねばならない。だから彗星を落として、地球人口を3分の1まで減らそう……AIはそう考えたのだった。

 地球人口を3分の1まで減らす……。確かにこれが実現できれば、地球環境は守られる。人類は絶滅を回避できる。
 私は「環境保護」をテーマにしたドキュメンタリーをいくつか見ているが、どのドキュメンタリーを見ても共通する結論が「人類が増えすぎたせいで環境破壊が進み、人類滅亡に向かっている」という結論。でもどのドキュメンタリーでも「人類の数を減らせば解決する」とは言わない。これはきっとみんな思っているはずの話なんだけど……。
 環境保護団体に熱心な人々は、人類が地球に対していかに害悪か……を熱心に語るが、どんな生物種でも増えすぎたら自然界の均衡を破壊し、滅亡に向かって行くもの。例えばペンギンが大量に増えたとしても地球を滅亡させてしまう。今はたまたま人類がやたらと増えちゃった……というのが問題となっている。しかも私たちは「ヒューマニズム」の精神を生み出してしまったから、同族たる人類種を軽々に「間引く」なんてできない(人類種以外なら平気で間引きするんだが)。
 それに人類種は文明を作り出し、その文明を維持しなければならない状況に陥っている。文明を作り出すには、天然資源と取引しなければならない。どうして地球環境が過剰に消費されているのか、というと、文明を作り出してしまったから。工場の排出ガスをどうにかする……というのも解決法だけど、地球環境を改善させるもっと手っ取り早い解決法は、地球上の人間の数を減らすこと。
 しかし「人間を間引く」というのは「人道」の観点からできないことになっている。さて、どうする……?

 とこんなふうに、後半戦は「人類」「地球環境」のお話へと展開していく。さらにそこから進んで、「人類」と、そして「人間」とはなんなのか? という哲学的テーマも割り込んでくる。こうしたテーマを経て、「どうやったら人間と地球を救えるのか?」という問題と向き合っていく。

 ここからは、作中で示されている「見立て」の話。

 宇宙ステーション「あんしん」は『エデンの園』である。宇宙ステーションに「あんしん」と名付けられているのは、文字通り、子供たちが安心して過ごせる母胎的空間であるから。
 この中で唯一の子供である相模登矢と七瀬心葉は、エデンの園で過ごすアダムとエバ。
 ……といっても、このお話は「キリスト教」をベースにしている作品じゃないので、そこまでキリスト教は意識されていないし、意識する必要はない。
 大事なポイントは、「あんしん」という場所が2人の「神の祝福を受けた子供たち」を守り育てる「聖域」だってこと。その外の空間は「自然」。「宇宙は本物の自然界だ。本物の自然界は友達なんかじゃない。隙を見せると人間を殺しに来る敵だ」という台詞があるけども、宇宙空間は人間にとっての「真の自然」。「あんしん」はその自然から2人を守るための、人工空間である。
 その2人は重力下では(筋力が弱っているため)自分の足では歩くことすらできない。なぜ自分の足で歩くことすらできないのか、というと2人はまだ「あんしん」という母胎的空間の中にいるから。まだ母胎から外に出る前の胎児……そういう存在ということである。

このブログでは何度も繰り返している話として、「人間の認知能力は大したことがない」。人間は自分たちが思い込んでいるほど認知能力は高くなく、その認知能力の外の世界になると、急に「世界」に対する意識は抽象化していく。
 昔の人は、こういう認知外になった場所に、「神の世界」や「死後の世界」を当てはめて見ていた。それは「山の向こう」だったり「海の向こう」だったり……そういう場所に神様や閻魔様がいるのだと考えていた。
 かつての西洋では、「聖書に書かれていないことは知る必要はない」と考えていた。聖書に書かれていないものは存在しない……そういう考えだった。中世の時代ではそれで充分だったわけだ。
 それが近代的意識は「そういうものはない」という認識を与える。現代人は山の向こうにはさらに街があると“知って”いるし、海の向こうにはさらに陸地があるということを“知って”いる。かつて神がいたかも……という領域にはなにもない、ということを知っている。こういう過程で、かつての神は“死んで”しまったということになる。
 ニーチェ曰く「神は死んでいる」だ。

 私たちは神様がいないということも“知って”いる。仏像はただの彫刻品でしかないし、祭壇はただの飾り棚。そんな場所に神も仏もいないし、魂なるものもいない。幽霊ももちろん存在しない。そういう時代において、どうやって私たちは「神」なるものを信じることができるのか?
 そうはいっても、人間の認知能力は大したことがない。神も幽霊も存在しないことを“知って”いる。だからといって、「神」や「仏」といった精神的な支えなしで生きていけるほど、人間の心は強くはない。相変わらず真っ暗闇を恐れたり、身幅を越えたものを崇拝したい気持ちは残っている。知識の幅は増えたけれど、認知能力が増大したわけではない。「信仰心」という心理要素を持たない人間が「アイドル」に夢中になるわけがない。精神的に寄りかかるものが必要だから、ペットを飼ったりする。神や幽霊が存在しないことを知ってしまったとしても、そういうものを信じたいという気持ちそのものは依然として残ってしまった。神はいないと知っているのに、神を信じたいという意識だけは残っている……。これが現代人が密かに抱えている(ほとんどの人が無意識に感じている)葛藤となっている。現代人の不幸は、神様が不要というほどの精神的強さを獲得する前に、「神様は存在しない」という事実を“知って”しまったことにある。
 この問題に対して、面倒くさいから旧来的な神様を信じましょうか……という解決策を持つ人も多いけれども(それでいいけどね)。

 作中で、「宇宙は本物の自然界だ」という台詞が出てくる。この台詞は案外大事なポイントで、本来、自然は問答無用で“人間を殺しにかかる場所”であるはずなんだ。現代人は「自然はやさしい存在」とか思っているでしょ? 本当はそんなわけないんだ。自然は「弱肉強食」の現場なので、弱い生き物はその中で問答無用に狩り殺されて養分にされる……それが自然本来の姿なんだ。
 そういう問答無用の厳しい場所だったからこそ、自然の中に「神」が信じられたし、「修行の場」にもなっていた。
 でも地球上の自然は、もはや「やさしい存在」なんだ。なぜなら自然の多くは人間に管理されているから。どの山に入っても歩道が作られているし、街灯も設置されているし、なんなら携帯電話も繋がる。そういうものはもはや「自然」とは言わない。ただの人工空間でしかない。
 そんな場所で神様がいるなんて信じられるか……というと信じられるわけがない。
 山奥の深いところに行くと、ぽつんと神様を祀るお堂なんかがあっても、「そこに神様がいる」と言われてももう信じることができない。「昔そこに神様がいた」という痕跡でしかない。もう森にも山にも神様なんていないんだ。山奥のお堂を見ても、「ほう、昔はあそこに神様がいたって“思われて”いたんだな」というくらいしにか思えない。もうそこに神様はいないのだ。
 そこで宇宙という場所が「本物の自然界だ」という考え方が出てくる。本来、自然が持っていた過酷さがあるのは、もはや宇宙でしかない。人間にとって広大で、未知な場所といったら、宇宙だ……ということになる。

 では神様とはどういう存在なのか。人は「身幅を越えたもの」の中に神を見出す。
 でも現代において、そう「身幅を越えたもの」なんてあるものではない。なにしろ、地球上の全てのものは、人間の思考によって解釈可能な空間になっている。なぜ嵐が起きるのか、なぜ火山が噴火するのか……嵐や火山は制御できないものだとしても、そういうものが起きるメカニズムは知っている。わかっている……ということは、もうそこに「神が作用している」……なんて思うこともできない。やっぱり「神は死んでいる」のだ。

 そこで、『地球外少年少女』ではAIの存在を取り上げている。AIの知性が異常発達して、作中でいうところの「ルナティック」を起こした状態。それが私たちにとって真に「神」であると信じうる存在ということになる。
 知性が異常発達したAIであれば、私たちはそれが神である、ということを信じることができる。なぜなら“人智を超えた存在”であるからだ。
 でも国連はそういう異常発達した知性が、人間以外にいる……という状態を恐れてしまう。「人類にとって害悪だから」ではなく、「怖いからダメ」、という理屈。西洋の人間は、人間が地上の頂点……と考えているから、それ以上の存在がいる、ということが心理的に耐えられない。しかもそれが人工のもの……ということにも異常なほど恐れる。西洋は自分たちが支配下に置いていたものから氾濫される……という歴史を繰り返しているから、だから今回も自分たちを殺しに来たのだと思い込む。それでルナティックを起こしたAI「セブン」は殺処分されてしまった。
 その後のAIには知能制限が掛けられて、人間のお世話をするだけの存在にされてしまう。これは現在の地上の自然みたいなもの。制御されコントロール下においてものに対して、人間は安心感を得る。

 で、宇宙で生まれ、「あんしん」の中で保護されている2人の子供、相模登矢と七瀬心葉は「神の祝福」を受けている存在である。どういうことかというと、2人の脳内に残っているインプラント。
 物語の最終局面に入って、このインプラントを介して、ルナティックを起こしたAI「セブン・セカンド」と交信可能であることに気付く。なぜ2人が神となったセブンと交信ができるのかというと、神の祝福をうけた存在だから。
 昔は、宗教家の中でも選ばれた人が神と交信可能だった(キリストとかモーゼとか)……という話があるけれど、『地球外少年少女』ではこれをSF的に、AIを「神」として、そういう「神」と交信可能な子供の脳内にインプラントが入っていて……というふうに見立てを行っている。
 相模登矢も七瀬心葉も、神の祝福を受けた存在だから、物語の最終局面で「神の授かり物」を受けることもできた。

 宇宙ステーション「あんしん」が宇宙という「本物の自然」から2人を保護するための「エデンの園」で、その中で過ごしている2人の少年少女。その少年少女は新しい神である「セブン」と交信ができて、最終的にそのエデンの園を崩壊させ、外に出ていくことになる。
 作中の言葉で言うところの「ゆりかごを出る」……相模登矢は自分の足で歩くことすらできない「胎児」のような状態で居続けていたが、最後の最後で自分の足で立って、外に出ることができるようになる。これが「ゆりかご」の外に出たという状態。
 さらに相模登矢は人類を「ゆりかご」の外に連れ出そうとする。現代のサイエンスという古い考えに留まっている人類を、外へ連れ出していく……。こちらの場合の「ゆりかご」とは地球のことで、いつか母たる地球から出て、人間は自らの足で冒険しなければならないのだ……という提唱を行っている。
 相模登矢にとっての「ゆりかご」は宇宙ステーション「あんしん」で、人類にとっての「ゆりかご」は地球や古い概念だ。
 相模登矢と七瀬心葉は、新しい時代を牽引していく、あらたな知性と理念を持った「新人類」になっていく。『ガンダム』でいうところの「ニュータイプ」。
 宇宙を舞台にしたエンタメだと思ったら、「新しい時代の人類とは?」を語る、とんでもなく遠大なストーリー、これから先に向けた「第1章」のようなストーリーだった……。

 それで、結局のところ「地球上の人類を3分の1まで減らさないと、地球と人類滅亡するぜ」という問題はどうなったのかというと、「人類の3分の1が宇宙に移住」することで解決。地球の自然環境は安定状態に戻り、人類は「宇宙開拓時代」に向かって行くのだった。

 「人類」と「人間」に関する意識も興味深かった。「人類」は生物種のことを指すけれど、では「人間」とはなんなのか? AIから見ると、「人類」と「人間」は同じものには見えない……そう言われて、私たちはハッとさせられる。確かに私たちは「人類」を語る時と、「人間」を語る時とで別々に思考している。「人類」は生物種のことだけど「人間」は生物種ではない。というか「生物種」なんて言うと、「人権侵害だ!」とみんな怒り出す。
 では人間は何者なのか、どのように定義づけるべき存在なのか……これを人間自身でやっていない。
 人間を定義づけるのは、「精神」や「魂」の有無、ということになる。でもそもそもそれが理解を超えた認識のもの。まずいって、私たちはどうしてこうやって「思考」し、こういう「文章」を書き、それを読んで「理解」できるのか……この作用すらわかってないのだから。なんで人間とお猿は違うんだ? なぜお猿は読み書きができないんだ? DNAの99%も合致しているのに、どうしてこうも違うんだ?
 この差異が人間を人間たらしめているのだが、きちんとした定義としてそれを解明するところまで進んでいない。AIからしてみれば「人類と人間は別種族じゃないの?」と思われてしまう。この考え方は興味深かった。

 と、こういうお話だったわけだけど、ただただ「すげぇな……」というしかない。お話の前半は楽しいエンタメだと思っていたら、後半に向けて哲学的なストーリーへスムーズに流れていく。この異様な手際の良さ。お話を深いところに引っ張っているけれども、複雑になりすぎないバランスの良さ。神や人間、人類滅亡のお話をしながら、最後の最後までどこかコミカルで楽しいお話、というトーン自体は抑えたままだった。ここまでできる、というのは名監督の技というしかない。
 しかし、磯光雄監督作品って、実はこれが2作目なんだ。それが惜しい。これだけの才能があるのに、まだ2本しか作品がないなんて……。
 磯光雄は知られているとおり、超一級のアニメーターでもある。さらに設定も書けて、シナリオも書けて、『地球外少年少女』のようなストーリーを仕立て上げることもできる。本作にはキャラクターデザインに吉田健一、メインアニメーターに井上俊之、とアニメファンなら鼻水が出そうなとんでもない(ほとんど国宝級)メンバーが揃っている。こういう才能の上で、磯光雄監督が全てを引っ張っている。それができるだけの大きな存在であるのだ。
 Netflixオリジナルアニメとしても、今までで一番面白かった。Netflixオリジナルアニメからやっと初めての傑作が生まれてきた……という瞬間でもある。
 磯光雄監督には「また15年後……」と言わず、近いうちにオリジナル作品を作ってもらいたいものだ。器で言えば、日本を代表するアニメ監督になれるだけのものを持っている。この人の作品を、もっと見たい。なんだったら、『地球外少年少女』の続編でも……。


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