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映画感想 移動都市/モータル・エンジン

 最近は5本も連続してSFばかり見ていて、「さすがにSFはもういいや」と思っていたのだけど、なにげなくAmazon Prime Videoのリストを見ていたら『モータル・エンジン』が無料で公開されている!! 見る見る見る見る!!
 ……という経緯で、もともと見る予定になかったのだけど急遽視聴することに。これ、観たかった映画だったんだよ。観られて嬉しいね。

映画の感想

移動都市/モータル・エンジン 予告編

 まず監督のクリスチャン・リヴァースだけど、私の記憶が正しければ、『ロード・オブ・ザ・リング』のメイキングに何度も出ていた人だ。髪の長いイケメンの兄ちゃん。あるいはゴンドールの兵士(兵士役として出演していた)。
 一応確認してみたけれど、正解だった。ああ、やっぱりあの人だ。
 それで企画がピーター・ジャクソン、脚本がフラン・ウォルシュにフィリッパ・ボウエン。ピーター・ジャクソンは脚本も手がけている。『ロード・オブ・ザ・リング』『ホビット』の2作でよく見かけた名前だ。
 ということはピーター・ジャクソンが愛弟子の出世に協力した……というやつだな。クリスチャン・リヴァースは『ブレインデッド』から始めて、ずっとピーター・ジャクソンの右腕として活躍してきた人だ。ピーター・ジャクソンはこの才鬼あふれる弟子を多くの人に紹介したかったのだろう。WETAファミリーの映画だ、というところから見始めることができる。

 さて映画本編。
 世界戦争によって崩壊した未来、それで都市は都市ごとに脚にキャタピラをついて移動して生活していた……というトンデモな世界観。よくもこの発想に行き着いたものだ。
 映像がなかなか凄く、都市がキャタピラを付けて移動するのだけど、全体が赤錆びたオンボロで、蒸気を吹き上げながら突き進んでいく。スチームパンクのスタイルでデザインが着想されている。それがうまくハマっていて、在りし日の姿を留めている建築物を載せた巨大な戦車が、蒸気を吹き上げながら大地に超巨大な轍を描きながらゴリゴリ進んでいく。その映像、音響のすさまじさに一気に好きになってしまった。今まで色んな映画を観てきたけど、こんな変な発想で作られた映画は初めてだ。特にあのオンボロ具合がなんともいえない少年心をくすぐってくれる。
 冒頭のシーン、小さな都市が寄せ集まっているのだけど、ちゃんと一つ一つ戦車ごとに都市の形が違っている。都市そのものがかつてあった文化の形を継承し、残している……という設定で作られている。それが生存のためにキャタピラを付けて移動している……という発想が本当に面白い。俯瞰映像を見ていると、ドールハウスがキャタピラを付けて動いているように見えて、とにかく楽しい気分になる(移動都市が載せている街、といってもせいぜいひと区画程度のものだから)。いっそドールハウスを買ってきて、キャタピラを付ける魔改造をやってしまおうか、と思うくらい(技術がないからやらないけど)。

 その大地だけど、私はちょっと勘違いして「低木が点々と生えている」と思い込んでしまったが、あれはそこそこ生育した木なのだけど、轍のスケール感が大きすぎて、低木に見えてしまっていた、というものだった。
 間もなく大地に下りて、その轍の中を歩くシーンが描かれるが、ここも面白い。初めてゴジラを観たとき、その巨大な足跡に唖然としたが、その感動が蘇ってくる。あの巨大な都市戦車がこれだけ大地をえぐり取ったのだ。その光景をまざまざと見せて、歩いて行くシーンの作りや展開が面白い。映画中のスケールをきちんと画で見せようという意欲が現れている。
 冒頭、俯瞰した画がいくつか出てきて、ぬかるんだ大地に無数のキャタピラ跡が刻みつけられた大地を観て、それこそ荒廃の証なのだけど、不思議なことにそういう映像を見てやたらとワクワクさせられる。

 この世界観をざっと観ると、大地には点々と木が生えているものの、森というほどの鬱蒼さがない。土がややぬかるんでいて、ということはそこそこ湿気ていることがわかるのだけど、しかし自然の育成が進んでおらず、その中を歩くシーンがあるが夜になっても虫も鳴かない静寂になり、野生動物の姿も見当たらない。ということは、それだけ自然が荒廃し、燃料が枯渇しているのだ、ということがわかる。第1次世界大戦の頃、塹壕を掘り進めて周囲は草木が枯渇して雨で地面がぬかるんでいたけど、ああいった状態の荒廃なのだろう。
 それで、巨大な都市が大きな口を開けて雑魚都市を飲み込んでいく。文字通りに“捕食”される。都市が都市を食べる……というこれまたトンデモな着想を見事映像化している。
 で、捕食された都市は、そのままより大きな都市の原料となって消費されてしまう。どうしてそういうふうにするのかというと、それだけ原料が枯渇した未来だからだ。ある程度のより分けが手作業でやられるようだけど、都市のほとんどが大雑把に炉の中に放り込まれ、別の何かに作り替えられる。

 ここ最近はSFばかり観ていて、今作『モータル・エンジン』は『マッドマックス』『ブレードランナー2049』『26世紀青年』と同じ端境に立たされている社会情勢だということがわかる。自然から天然資源を採取・採掘することがもはや不可能になってしまった未来、だから他の都市そのものを飲み込んで、自分の都市生活維持のために転用するしかない……という世界観だ。
 それでどうやって炉で燃焼しているかというと、木があのように生育状態が悪い世界観だから、普通に考えてコークス(石炭)だろうと思われる(あのサイズの都市を炉で溶かそうと思ったら、それこそ山5つぶんくらいの木炭が必要になるはず)。すると自然から採掘できるものが限られているとはいえまだ石炭採掘をやっているはずで、しかし石炭採掘の場面が映像で確認できなかったのかちょっと惜しい。

 その巨大都市は下部に様々な文明が混在したスラム(それこそ歴史の始まった初期のアメリカみたい)が形成されているのだが、頂点に立っているのがイギリス、ロンドンである。
 そこで「ははぁ」と気付くのだが、この設定はイギリスが世界中に植民地を持っていた頃、イギリス覇権主義時代を連想させるように作っている。
 ファンタジーを作る上での一つのポイントだが、「突飛な発想」と「おなじみの発想」をうまく組み合わせると成立しやすい。「突飛な発想」ばかりに終始すると観る側の思考が追いつけず、面白くてもよくわからない作品と言われやすい。「おなじみの発想」のみだと「既視感ある作品」と見向きもされない。「突飛な発想」と「おなじみの発想」がほどよく寄り合っているとちょうどよくなる。『モータル・エンジン』の場合、「突飛さ」に都市がキャタピラを付けて移動する、という発想に置き、その上にロンドンを頂点に置く、というヨーロッパの人なら「ああ、ハイハイ」とすぐにわかるようなものを持ってきている。イギリス帝国時代のお話を下敷きにしているのね、と即座に了解できる。
 もしかするとスチームパンクの様式を採ったのは産業革命時代のロンドンを少し連想させていたのかも知れない。

 巨大都市内は観てわかるようにあからさまな“上流階級”と“下層階級”の2系統により分けられている。ざっくりいって、ロンドン住民とそれ以外だ。トム・ナッシワーシーのような下層階級出身で博物館に勤めて研究をしている若者もいるようで、このなかでも上下関係というか、出世も可能なようだ。
 で、その上級階級であるロンドン住民は、かつて豊かだった時代のような消費生活を送っているし、他の都市を捕食する様子をあたかも“楽しいショー”だと思って拍手して眺めている。
 おそらく彼らにとって“捕食”はショーでしかなく、“捕食”が自分たちの生活を支えるものとして重要である、という意識はあまりないのだろう。というのも人間の社会というのは非常に複雑なもので、その構造がどうなっているのか、よほど興味を持って調べようという意識を持った人でない限り、考えないものだ。私たちにしても蛇口をひねると水が出るのはなぜなのか、など考えず、「それが常識だから」という“常識”だけで理解し、納得してしまっている。“普通の人”ほど特に何も考えず生きていて、それでも生きていけるように“社会”というものは構成されている。

 それで、ロンドンの上流階級の人々はおそらくはそういう意識を持っておらず、捕食をただのショーだと思って見ている。どうしてそう言えるのかというと、もしも事情を知っていたら、あんな笑顔で楽しんで見られるもんじゃないから。もしも捕食に失敗すると、自分たちの贅沢暮らしもその時点で終了になる。上流階級の暮らし、といっても絶対安泰のものではなく、世界観を見るに“紙一重で何とか成立しているに過ぎないもの”……というのがわかってくる。都市の捕食と自分たちの贅沢暮らしの連なりがわかっていたら、「楽しんで見る」ものではなく、心配と不安で見るようになるはずだ。
 だから要するに、上流階級の人々にとって、そういう意識を持てないくらいの巨大さを都市は備えているのだ……ということがわかる。

 映画の後半戦、ロンドン都市は東に向けて、とある都市に進行しようとする。
 ここのシーン、岩山の狭間に巨大な壁が作られて隙間を埋めているのだが、ここの映像は『ロード・オブ・ザ・リング』を観た人ならピンと来る。あれはモルドールの黒門だ。思いがけないところでオマージュだ。
 高い岩山と岩山の間を埋めるように壁が作られているので、その巨大さは『進撃の巨人』の壁よりもさらにでかい。後々、ロンドン都市とのわかりやすい比較シーンが登場してくるが、ロンドン都市がミニチュアサイズに見えるくらいにでかい。見ているとその途方のなさがわかる。
 この壁が出てくるシーン、まず壁の西側が出てくる。西側の段階でも“森”が出てくる。これまで映画の中で一度も出てこなかった“森”だ。さらにカメラはノーカットで繋がっていき、壁の向こう側へ、すると壁の反対側にへばりついている都市と、見渡す限りの明るい大地が現れてくる。この大地が美しく、しかもキャタピラ跡がまったくない。

 この映像でわかってくるが、壁の向こう側には豊富な自然・資源があり、ロンドン都市はあの資源を狙って襲いかかろうとしているわけだ。それでなんで定住都市は他の都市のように移動しないで暮らしていけるのかってそれは豊かな自然があるから。東側の世界はまだまだ自然の環境に余裕があり、それでいて消費し尽くさないように注意しながら倹約生活をしているのだろう。ロンドン都市の過剰な豪奢さと比較すると、その生活観が見えてくる。
 ただ、この映像の中に、農村や牧畜の光景が見当たらない。ということはあの壁都市では食料の生産を行っていないのだろう。やはりゴンドールの城ミナスティリスのような城塞都市であって、食料生産は別のところで行って輸送してきているのだろう。
 また壁の裏側には一杯の飛空挺が待機している。どこかの極東国のように「憲法9条があれば敵は襲ってこないんだ。兵器なんて捨ててしまえ」なんてお花畑の世界ではなく、きちんと武器を持ち、兵器を揃えた上でのスイス的な平和中立をやっているのがわかる。おそらくは西側国家、つまりヨーロッパはなにかと戦争をふっかけてきて天然資源を奪いに来るので、そのための防衛としての壁と兵器なのだろう。こういうところで、ヨーロッパ文明は略奪によって成り立っているに過ぎない、という歴史観を反映させて設定が作られている。

 東側世界についてだけど、東洋風世界で描かれている。具体的なモデルはわからないが、どこかの仏教国のような空気感だ。チベットなのかインドなのかは私にはわからない。
(侵略する側がロンドンだとすると、インドがモチーフなのかも知れない)
 それで、最終的にはロンドン都市の頭についた神殿(宗教施設)がパカッと開き、巨大な砲台が姿を現す。これでまた「あーはいはい」となる。要するに「宗教戦争」のメタファーなのね、これ。
 といっても『モータル・エンジン』は現実の宗教戦争に対する皮肉を込めた作品ではないだろう。あくまでも虚構を作る手法の一つとして、私たちの歴史にとっておなじみのものを、歴史的になぞってきたものと同じものを採用しているに過ぎない。これも「わかりやすい・受け入れやすいストーリー」を構築するための一つの工夫である。

 とまあ世界観の描写がとにかくも秀逸。あまりにも見事。一つ一つのディテールが徹底的に作り込んでいて説得力のあり、かつ映像的な力強さを持っているし、「なんだか巨大なものがゴンゴンと動いている!」という映像を見るだけでどうしようもなくワクワク、ゾクゾク感が来る作品だ。
 例の砲台についてだけど、もはや本体が見えないくらいチューブやコードを繋げて、意味のわからないディテールの洪水状態を作っている。あんなに一杯のコード類、絶対必要ないもののはずだよ。でもあえてやってしまう。ディテールに対するフェチ感があちこちで見えてくる。そのディテールを追いながら見ているのがひたすらに楽しい作品だった。

 ……と、ここまでは良かったんだけど。
 実は見ていると「あれ? なんで?」という部分があっちこっちで引っ掛かりとしてある映画でもある。
 物語の半ば、シュライクというほぼターミネーターっぽいキャラクターが登場し、前半1時間くらいのなか、がっつりシュライクと戦い、逃亡する展開が描かれる。
 このシュライクのデザインがなかなかかっこよく、私は即座に一目惚れをした。
 だが果たしてヘスターとシュライクとはどんな確執があるのだろう? 間もなくこのあたりのエピソードが語られるが……これにガッカリした。そんな程度の理由で追い回してたの? ヘスターとシュライクは長年の付き合いがあるはずで、シュライクにしても「ヘスターが突然家出したのは相応の理由があるはずだ」とか考えるはずだけど、いきなり怨霊となって追いかけ回してくる……これでは回想シーンで描かれたシュライクのイメージと噛み合わない。
 それでヘスターがシュライクの元を去るシーン、シュライクが「ヘスターーー!!!」と叫ぶが、これまたゴラムのオマージュだ。そこだけは良かった。

 前半1時間かけてシュライクをどうにかこうにか撃退するのだけど、それまで無敵を誇っていたシュライクがいともあっさりと機能停止してしまう。これはなぜ?? いくらなんでもご都合主義すぎやしないか。
 しかもその過程で多くの人が死んでしまうし、空中要塞を壊滅させてしまう。その原因を遡っていくと、ヘスターが悪い、ということになってしまう。ヘスター一人のエゴのために、とんでもない数の犠牲を出し、しかもその犠牲について振り返ることなくその先の展開へと進んでしまう。
 これは展開として非常にマズい。「結局は主人公の自業自得じゃないか」と思わせる展開は、映画のストーリーとしてやっちゃダメなやつ。いくらいい雰囲気の映像を出してきても、観客を苛立たせてしまう。

 シュライクと同じころ、前半戦を乗り越えたところでアナと呼ばれる女性が出てくる。まあこのアナの不細工っぷりはさておくとして、このアナが乗っている真っ赤な飛空挺が格好いい。デザインが秀逸。……なのだけど、どうやって飛んでいるのかいまいちよくわからない。
 あの形だからジェット噴射機で推進し、翼後部についているフラップを上下させることで方向を変える。翼自体も少し動くようだから、それで機動力を高めているのかも知れない。ということは、あの飛空挺の動きは複葉機っぽい動きをするはずだ。
 と、いうところまで推測できるのだが、明らかにそれ以上の機動力を見せてしまう。いや待て、あの翼でそういうふうに機動しないんじゃない? という動き方。あかたも『スターウォーズ』のタイファイターのような反転機動するシーンがいくつかある。ロンドン都市の機関部に突撃していくシーンがあるのだが、あそこから反転脱出するのは不可能じゃないか? 宮崎駿だったらあんな空中シーンは描かない。
 飛空挺が空中要塞に着陸する場面があるのだが、着陸する寸前、なんと減速する。どうやって減速したんだ? ジェット噴射がオスプレイのように稼働するので、あ、これはきっとホバリングが可能な機体なんだ、と思ったら映像を見ているとジェット噴射が反転してしまっている。どういうこと?? まるで宇宙空間のような描き方じゃないか。
 推測としてあるとしたら、揚力は加速すること以外の別のもので得ていて、しかも空中を一定速度で移動し続けている。私たちの知らない別の原理があるのだろう。

 その飛空挺のお尻がむき出しになっていて、そこでヘスターとトムが語り合う場面が描かれるのだが……なんと雲の上だというのに、ほとんど風ながない。これは映像として不自然。ああいった場所へ行くと、風がゴウゴウと吹き荒れているはずだろうに。あんな場所でささやく声で語り合ってしまう。“イメージ優先”でおかしな映像を作ってしまっている。

 話は飛んで、ヘスターは持っていたペンダントの中に兵器の起動を終了させるキーが入っていることに気付くのだが、いやいや待て待て、ヘスターは8歳の頃からあのペンダントを持っていたはずで、一度もその中に何が入っているのか確認しなかったのか。あそこのシーンで始めてペンダントの中身に気付いて驚く、という展開はだいぶ不自然。

 そのヘスター、ようやく宿敵を追い詰めたのだけど、なぜか撃たない。なぜか躊躇う。これは本当になぜ?? 躊躇ったことによって、逆転され、危機に陥ってしまう。これだと主人公が間抜けに見えてしまう。
 主人公の判断ミス、過ちによって問題を悪化させる……という映画は世の中に一杯あることは確かだけど、これは本当にやってはいけない展開。というのも主人公が間抜けに見える。「なんで??」と行動に納得することができない。
 主人公は間違いなく最善の行動を取ったように見えて、しかし敵のほうが一枚上手ですでに対策されていて追い詰められた……この展開なら納得感がある。「次どうなるんだ」と惹きつける力になる。例えば『ジョジョの奇妙な冒険』は全編この作り方でお話を進めている。だから『ジョジョ』は面白い。『モータル・エンジン』のように、主人公側の明らかな過失、判断の迷いなどで失敗やあるいは大きな災害を引き寄せてしまった……みたいな展開を見ると「このお話、ひょっとすると主人公が一番の害悪だったんじゃないか?」みたいに感じられてしまう。なにしろヘスターはあの空中要塞を沈めてしまっているわけだし。お前、その個人的な仇討ちのために、何人殺したよ? これだとどんなに映像を頑張っても、観客の気分を高揚させることはできない。

 『モータル・エンジン』は映像だけを見ると本当に豪華で、個々の作り込みが凄まじく、たぶん、映像から登場人物の姿をぜんぶ編集で切り取ってしまうと、ものすごく格好いい映像の連続になると思うんだ。いっそ、キャラクターをぜんぶ切り捨ててしまったほうが、見ていてテンション上がる映像になるんじゃないかと。
 そうすると、登場人物は上の方で展開しているアクションを盛り上げるためにドラマを組み立てていかなければならないのだけど、実際にはその逆、「いやいやいや! ちょっと待て! それはないよ!」と思われるような行動をいくつも取ってしまっている。登場人物がものすごく間抜けに見えてしまう。
 こういうところで「惜しい!」という映画になってしまっている。いいところを挙げようとすると一杯あるのだけど、同じくらいダメなところも一杯ある。何もかもがダメな映画なら「こりゃダメだ」みたいになるけど、本当にいいと思えるところも一杯見付けられる映画だから、「惜しい! もったいない」みたいな気分になってしまう。映像は非常に良い。何がマズかったって、脚本の作り込みだ。人間の描き方だ。もうちょっと個々を深掘りしていったら、傑作の変わっていたはずの作品だったのに。もったいない!!

 この映画の残念な結末は、制作費1億ドルに対して、興行収入が8363万ドル。制作会社に入ってくるお金は、興行収入の4分の1だったと記憶しているから、結構な赤字だったのだろう。才気あふれるビジュアルデザイナー・クリスチャン・リヴァースの華々しいデビュー映画のはずだったのだけど、収入、批評面で良い結果を残せなくて残念。映像の作り・着想は本当に素晴らしく、あれだけ大きな仕掛けをきちんと映画的な画としてまとめあげた手腕は、間違いなく才能の産物(映画監督は画面を作るのが職業だから。「シナリオが大事」と言うんだったらライターになったほうがいい)。いっそ、天才的な作りだといってもいい。しかし個々の作り込み、とくにキャラクターの心理的な背景に明らかな問題があった。
 またどこかで挑戦してほしい作家だ。クリスチャン・リヴァースがまた映画を作る、と聞いたら私は喜んで観に行くよ。ジェームズ・キャメロンでも最初の1作目はつまんなかったんだから。映像はしっかり作れるんだから、まだまだいくらでも再起の機会はあるはず。次回作に期待しよう。


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