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映画感想 ウィッチ(2016)

 「魔女」を描いた古くて新しい民話。

 ロバート・エガーズ監督による2016年の映画『魔女』の原題は『THE VVITCH A New England Folktale』。ロバート・エガーズ監督は現代的なソフィスケートされた「魔女」ではなく、文献の世界に見られる「実際の魔女」に魅了され、深く調査した上で改めて現代映画の世界に「魔女」が登場する映画を構想した。そこでタイトルも『VVITCH』。このように表記するのは、ジャコビアン時代(1603~1625年のイギリス)の文献によく見られた表記だったからだそう(Folktaleは「民話」という意味。タイトルを直訳すると「魔女 ニューイングランドの民話」となる)。
 映画の舞台となるのは1630年頃。ロバート・エガーズは現代人の空想をできるだけ排除するために、この時代を研究する学者と連絡を取り、建築、農業、衣装、アクセントを細かくチェックした上で制作した。その成果もあって本作が描き出す情景は、まるで本当に当時の光景を捉えたかのような真実味が出ている。
 2015年にサンダンス映画祭でワールドプレミア上映され、同じ年にトロント国際映画祭特別プロモーション部門で上映。初期の段階から大絶賛され、A24が配給権を獲得。A24は本作『魔女』の世界公開によって世間的に知られるようになった。
 本作の評価は映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは90%の肯定評価。平均スコアは10点満点中7.8。非常に高い。ボストン映画批評家協会最優秀新人映画監督賞受賞、シカゴ映画批評家協会もっとも有望な映画制作者賞受賞、エンパイア賞では最高ホラー賞受賞、ゴールデントマト賞では2016年最優秀ホラー映画に選出。主に新人映画監督として、ホラー映画として、さらに脚本のできのよさも評価された。
 そうした評価を受けて2016年2月アメリカ公開。日本では2017年7月公開。制作費は300万ドルに対し、世界興行収入4000万ドルを稼ぎ出した。

前半パート1 解説

 では前半のストーリーを見ていこう。


「何を求め、我らはこの荒れ地へ来た? なんのために親族と別れ、故郷を捨て、祖国を離れた? 広大な海を渡ったのはなぜだ? なぜ? それは深い信仰心を持って福音と神の王国をこの地を広めるためではないか。私は伝導に尽くしていたのだ。偽りの信者に裁かれる謂れはない!」
 そこは1630年のニューイングランド、ピューリタンの入植地だった。しかしウィリアムは同じくやってきた入植者達と対立し、一家でその地を離れることになる。
 一家は未開拓の森の中を彷徨い、間もなく自分たちだけの安息地を見出す。森を切り開き、家を建てて農場をつくり、家畜を飼った。そして新しい家族も生まれ、順風に思える生活を営んでいた。
 しかしある日、娘のトマシンが生まれたばかりの赤ちゃんを連れてあやしていると、ふっと目の前から姿を消す……という事件が起きる。
 それ以来、母・キャサリンは泣いて過ごすようになる。
 赤ちゃんはもう戻ってこない。捜索は諦めよう……。父・ウィリアムは息子ケイレブを連れて森の中へ入る。作物の実りはよくない。このままだと一家が餓死してしまう。森の中へ入り、ウィリアムはケイレブに「母さんの銀のコップを売った」と打ち明ける。インディアンに売って、獣を捕まえるための罠を買った。これも一家を救うためだった……。


 ここまでのエピソードでだいたい20分くらい。
 細かいところを掘り下げていこう。

 冒頭はニューイングランド入植地の審議会。父・ウィリアムはここにいる人たちと宗教的な意見の違いにより対立関係になってしまう。要するに「宗教性の違いによる解散」というやつ。
 ここでウィリアムが何をしたか具体的に描写されないが、後々ウィリアムがかなり「狂信的な信者」だということがわかってくる。かなり過激。それゆえに、他の入植者達と相容れなくなり、追い出されてしまった……ということだろう。

 追放されていく場面。ちらっとネイティブアメリカンの姿が出てくる。冒頭のシーンより、こちらのほうで舞台が開拓時代のアメリカだということがわかる。

 一家はしばらく放浪の旅をして、森の一角に自分たちだけの安息地を見出す。ウィリアムはこここそ「神の地」と定めて、家を建てて、一家だけでそこに住むことにする。

 それからしばらくして、森を側にしたこの小さな土地に家が建ち、畑と家畜小屋が作られる。新生児も生まれ、順風に思える時が流れ始めた。
 が……。

 次のシーンはこんな場面から始まる。
「私は罪を犯しました。仕事をさぼり、両親に逆らいました。祈りを怠りました。安息日にこっそりと遊びに興じ、心の中で戒律を破りました。精霊ではなく、自分の欲望に従いました。罰として私は惨めで過酷な人生を送るべき人間です。でもどうか……イエス様に免じてお赦しを。どうか私にお慈悲をお与えください」
 娘・トマシンの懺悔の場面から始まる。実はトマシン、この抑圧的な生活から逃れたいと思っていた。貧しいうえに、狂信的で独裁的な父親がいて、自由に振る舞うこともできない。今の状況から逃れたい……。
 このトマシンの密かな願望が、結末に繋がる伏線になっている。

 さて、トマシンが赤ちゃんに「いないいないばぁ」をしていると……突如目の前の赤ちゃんが姿を消す。
 赤ちゃんは認知能力が低いので、目の前で顔を隠すと、その人間が「姿を消す」と思い込むそうだ。で「ばぁ!」と姿を現すから、赤ちゃんにとってはその現象が面白くて(面白いというか、緊張からの解放で)笑う……という。
 このシーンはその逆。「いないいないばぁ」をやっていると赤ちゃんの方が目の前から消えてしまう……という不思議な現象を描いている。赤ちゃんから見るとこういう状況ですよ……という描き方だ。

 消えた赤ちゃんはどこへ行ってしまったのか? 実は魔女に誘拐されてしまう。
 この場面はかなり度し難い。赤ちゃんを殺して、すりつぶしている場面だ。ただの肉片になった赤ちゃんを裸に塗りたくり、すると体に魔力が宿って浮かび上がる……そういう場面を描いている。
 魔女が空を飛ぶとき、現代の通俗的なエンタメでは「呪文」を唱えるが、実際には「薬」を体に塗っていた。「薬を体に塗ることによって宙に浮かぶ」とわりと多くの文献で書かれている。その薬の製法は不明だが、この物語における魔女は「忌まわしきもの」の象徴だから、もっとも忌まわしい行為……赤ちゃんの死体をすりつぶして作っている。
 ところで魔女達はどうして裸でいるのか。この作品は昔からある文献を細かく調べたうえで描いていて、文献ではどの魔女も裸だったから……ということが理由だと思うが、私が考えるに彼女らが「文明の外」にいるからではないか。
 一家は入植地から追い出されて、森のすぐ手前で過ごしている。文明世界から排除されたが、どうにか文明的な生活を維持している……という状態だ。だがそのすぐ側には「野生」あるいは「野蛮」な世界が待ち受けている。そこには知性や理性もない。理性も知性もなく、忌まわしい呪いと悪習だけで成り立っている……ほとんど動物的な世界だ。ただひたすらにおぞましい世界が横たわっている。そんな野蛮な世界に今まさに転落しようとしている……そういう一家の物語だからではないか。裸は野蛮なものの象徴として描いたのではないか。

 赤ちゃんが姿を消してしまったために、母・キャサリンは以降、娘・トマシンに対して辛辣に当たるようになっていく。これが一家が崩壊する、最初の切っ掛けとなる。

 息子・ケイレブ。トマシンの弟。この作品はほとんど自然光、あるいはロウソクの光だけで撮影されている。このシーンも窓から差し込んでくる光だけで撮影されていて、非常に美しい画面になっている。まるで絵画のような光表現を見てほしい。
 ケイレブは思春期の少年で、姉・トマシンの胸の谷間をつい凝視してしまう。性の目覚めを前にしている少年……という表現だが、おそらくこういう意図だろう。この一家は全員が何かしらの“罪”を犯している。ケイレブの場合は姉への欲情……近親相姦の欲求。かなり狂信的な宗教一家なのだけど、しかし全員が宗教的タブーを犯す。“狂信”と“狂気”はほんの少しの差でしかない……。これが転落の切っ掛けを作っていく。

 ところでこの少年役だけど、演技が素晴らしかった。特に後半、悪霊に取り憑かれてからの演技は名芝居だ。誰もこの少年の演技の良さについて言及していないが、ぜひ見てほしい。

 父・ウィリアムは息子・ケイレブを連れて森に入る。狂信的な思想を持つウィリアムは、かなり熱心に宗教的な思想を息子に教え込もうとしている。自分たちはアダムから継承した罪を受け継いでいる。罪深い人間なのだ……と。
 その対話の中で誘拐されてしまった赤ちゃんも「原罪を持っていたのか?」という話が出てくる。一家は入植地から離れた孤独な世界で暮らしている。ゆえに赤ちゃんは「洗礼」を受けることができなかった。洗礼を受けられなかった赤ちゃんは地獄に……?
 つまり赤ちゃんは、何も罪を犯してないのに罪人……ということだった。この一家は全員なにかしらの罪を犯す。赤ちゃんは洗礼をしなかったこと自体が罪だった。
 父・ウィリアムも自身の罪を告白する。母さんの銀のコップを勝手に売ってしまった。一家は全員何かしらの罪を犯す。妻の銀のコップを勝手に売ってしまったこと、これがウィリアムにとっての罪だった。

 森の中を歩いていると、野ウサギと遭遇する。しかしなんとなく佇まいがおかしい……。
 実はこの野ウサギは「魔女の手先」。森の中は基本的に「魔女」や「悪魔」の領域なので、こんな野ウサギも人間達を陥れようと姿を現してきている。
(たぶんこの野ウサギは本物ではなく、ロボット仕掛け。アニマトロニクス)

 ところで後半に入り始めたあるシーンで、この野ウサギにサブリミナルが出現する。時間は40分24秒、野ウサギの足に「003J」という表記が一瞬出る。
 特に意味があるような表記だとは思えないので、何かしらのミスで残ってしまったのだろう。たまたま何かしらの切っ掛け(配信ミス??)であそこにサブリミナルが現れただけかな……と思って翌日同じ場面を見るとやはりこの瞬間にサブリミナルが出てきた。もしかしたら配信トラブルとかかも知れないので、次に見るときには修正されて消えているかも知れない。

 何気ない場面。鶏小屋から卵を引っ張り出そうとする。しかし卵から死んだヒナが出てきて……。ここも悪魔に浸食されている様子を描いている。家の周囲に悪魔の手が迫っている。

 双子が言うことを聞かなくなって「黒いヤギ」を追い回して遊んでいる。
 ここで双子の歌を聴いてみよう。
「ブラック・フィリップ。頭に王冠が生える。ブラック・フィリップ、雌ヤギを女王に。全てを統べる王。ブラック・フィリップ、空と大地の王。ブラック・フィリップ、海と砂漠の王。私たちはあなたのしもべ。ブラック・フィリップはライオンを食べる……」
 歌を聴いて勘のいい人はすぐに気付くが、この黒ヤギは悪魔。サバトの絵で「悪魔の王」として黒ヤギが描かれるが、この場面はまさにそれ。歌を聴いていると「ネタバレ」をしていることがわかる。子供たちがこんな歌を唄っている……ということはすでに悪魔の手先になっている。

 この後、姿を消していた父と息子に対して、母・キャサリンは「どこへ行っていたの?」と尋ねる。トマシンは「リンゴを探していた。谷にリンゴがあったはずなんだ」と答える。
 この物語はキリスト教的な思想を題材にしているので、キリスト教におけるリンゴといえばアダムとエバのいた楽園に実っていたリンゴのこと。リンゴを口にすることは「原罪」を意味する。「リンゴ=原罪」ということがわかっていれば、後半のある展開の意味も理解できる。

前半パート2 解説

 では続きのストーリーを見ていこう。


 黒ヤギを小屋に連れて行く間に、父・ウィリアムが肥やしの中に転んでしまった。母・キャサリンは娘・トマシンに父の汚れた服を洗濯しに行くよう命令をする。
 そこに双子の片割れ・マーシーがやってくる。マーシーは笑いながらトマシンに対して、「あなたは母さんに嫌われてるのよ」と言い放つ。
 そんなマーシーに、トマシンは脅かしてやろうと「そうよ。あんたの言うとおり。魔女の仕業よ。私なの」と言う。マーシーはトマシンの話をすっかり信じ込んで、怯えて逃げ出してしまう。
 その日の夕食。母・キャサリンは銀のコップがなくなっていることに気付き、トマシンを責める。「あなたがなくしたのでしょ」と。トマシンが無くしたことを認めないので、キャサリンはトマシンに「ヤギの寝床を整えてきて」と命じる。
 夜になって寝ようとしているとき――。ウィリアムとキャサリンが話し合う。お金もない。食べ物もない。トマシンが月のものを迎えた。トマシンをどこかの家に預けよう……。村へ連れて行き、奉公に行かせよう。
 そんな話を聞いて、トマシンとケイレブは夜のうちに馬に乗って出かけてしまう。トマシンは奉公になんか行きたくないし、ケイレブは姉さんを奉公に行かせたくない。家を出ればどうにかなるかもしれない……。
 森に入ると、あの野ウサギが2人の前に姿を現す。犬が野ウサギを追いかけ、ケイレブもその後を追う。トマシンも後を追おうとするが、急に馬が暴れ出して、トマシンを振り落として走り去っていく。
 野ウサギを追って森の奥へ迷い込んだケイレブは、そのまま野ウサギを見失い、その代わりに奇妙な小屋を見付ける。その小屋の中から女が現れて、ケイレブを誘うのだった……。


 ここまでで40分。前半パート終わりまで。

 詳しく掘り下げていこう。

 赤ちゃんを喪って以来、母・キャサリンは神経質になり、特にトマシンにはつらく当たる。
 だいぶ後になって、キャサリンは「ヨブの妻になってしまった」と語る。
 「ヨブの妻」とはなんなのか?
 『ヨブ記』とは旧約聖書に収められている一遍。
 昔、「ヨブ」という名の信仰心厚い男がいた。しかしサタンはヨブの信仰心は「怪しい」と疑っていた。そこでサタンはヨブの財産を奪い、さらに息子達を殺した。しかしヨブの信仰心は揺るがなかった。サタンはヨブを病気にさせた。ヨブは全身皮膚病に冒されてしまった。そんなヨブに対し、妻は「神を呪って死んだ方がまし」と言うのだった。妻がそう言うのに対し、ヨブは「愚かなことを言うな」と言った。ヨブの信仰心はようやく認められ、病気から全快し、財産は2倍になって返されて、ヨブ自身も140歳まで生きることができた。
(※ この時代のサタンは「悪魔」ではなく、神の使い。天使の1人だった。後に堕天して悪魔になる)
 キャサリンが言っているのはこの『ヨブ記』の妻。赤ちゃんを喪ってしまったことにより、神への信仰心を喪ってしまった。そしていま住んでいるここは「森」という「異界」の前。信仰心が彼ら一家をどうにか文明人としてを留めさせていたが、その信仰心を喪おうとしている……。
 今の時代だったら信じられないような話だが、こういう時代では、「果たして人と獣の違いはなんであろうか?」という疑問があった。実際、規律の一つを喪うと、あっというまに環境が崩壊してしまう、飢餓で全滅する……それくらいの危うさの中を生きていた(17世紀になってもそんな感じだった)。キリスト教が「魔女」と呼んで恐れていたものは、私の考えでは実在しない。「文明を喪い、野性に返ってしまった人間」……そういうもののシンボル的なものとして「魔女」というイメージがあり、キリスト教が恐れていたのはそのイメージのことだろう。
 この一家は、森という、この時代において「魔物の領域」を前にして生活している。信仰心だけが唯一の拠り所であったが、その信仰心はかなり“狂信”の側に傾いている。“狂信”と“狂気”は隣り合わせのもの……。
 キャサリンは赤ちゃんを喪ってしまったことによって信仰心を喪い、攻撃的な性格になって一家の崩壊を推し進めてしまうのだった。

 森で洗濯をしていると、双子の片割れマーシーがやってきて、トマシンをからかう。
 この時の台詞を見てみよう。
「マーシーじゃない。私は森の魔女よ。お前をさらいに来た。木の枝に跨がって飛ぶと、ブンブンって音がするの」
 木の枝にまたがる仕草をしていて、すでに「悪魔の手先」になっていることを隠そうともしない。でも子供のすることだから、「ふざけているだけ」とみられてしまう。だから誰も双子が「悪魔の手先」になっていることに気付いていない。
 ここで「箒」ではなく「木の枝」にまたがる仕草をする。この時代に描かれた魔女の絵は確か箒に跨がっていたはず……。箒を“逆さま”にして跨がることで、信仰の逆の状態が表現されていた。
 ここで「木の枝」としてのは、そもそも魔女の住んでいる領域が「文明の外」だから、箒なんていう文明的な道具も使わんだろう……と。それに、そういえば魔法使いと言えば「杖」で、杖といえば「木の枝」だ。そう連想を進めると、木の枝で表現されているのは納得がいく。
 そんなマーシーにからかわれ、誘導されるようにトマシンは「そうよ。私が魔女よ」と言う。トマシンはふざけてばかりいるマーシーを脅かすために言った……みたいな感じになっているが、よくよく見るとまんまと誘導されている。ここで「私が魔女よ」と言ったことが後々禍根を作ることになる。

 さて、夜になって母・キャサリンは娘・トマシンが疎ましくなって、「奉公に出してしまおう」……と提案するのだった。
 それを聞いていたトマシンとケイレブは、夜のうちに家を出て行く……。
 しかし森は魔物の領域。あちこちに悪魔の手先が潜んでいる。野ウサギももれなく魔物が化けたもの。小さくても魔物だから馬が怯えて暴れるし、ケイレブは野ウサギにつり出されてしまう。こうやってトマシンとケイレブははぐれて、馬も犬も喪ってしまうのだった……。

 森の奥へと迷い込んだケイレブは、こんな女と遭遇する……。
 森の深い中、性の目覚めを迎えたばかりの少年の前に現れる女……。もう見るからにヤバい。怖いしエロいし、エロいから怖い。思春期はじめの少年が、こんな色気出しまくった女の誘惑に抗えるわけはなく……。
 ところでとあるレビューでは、この魔女の家が、一家が作った家に似ている……という指摘がある。実はこの魔女の家は、自分の家だった……というのは面白い発想だ。魔女が一家の家を模して作ったのか、すでにあの一家の家が悪魔の浸食されていたのか……それはどっちなのかわからない。

映画の感想

 前半はここまで。ここから後半パートへ入っていく。
 馬も犬も喪い、完全に野生の森を前に孤立してしまった一家。後半、悪魔の手先が一気に迫ってくる。
 トマシンがヤギの小屋へ行こうとすると、その途上で裸のケイレブと遭遇する。前半でもそうだけど、トマシンがヤギの小屋へ行こうと必ず何かしらと遭遇する。ヤギが忌まわしきものだということがわかる。
 ケイレブが服を剥ぎ取られているのは、文明の痕跡を剥ぎ取るため。野生、つまり魔物の側にすでに堕ちている……ということが示されている。
 ここからクライマックスへ一気に堕ちて……いや、落ちていく。一家は悪魔の囁きに負けて、ひたすら転落の道を辿っていく。そして最後にはトマシンが魔女になり……冒頭のトマシンの願望が魔女になることで果たされてしまう。トマシンを苦しめていた抑圧から解放されたことになり、トマシンは歓喜を浮かべる。

 というホラー映画だけど、ここからが私の感想。
 本作『ウィッチ』は「ジャンル:ホラー」だけど、ありきたりなホラー演出は一切無い。例えばジャンプスケア――いきなり怪物が画面に飛び出してきてビックリさせるあの演出などもないし、カットが切り替わったところに幽霊がいる……という演出もない。そういう近代的で通俗的なホラー演出を全面的に排除し、古い文献に基づいて、「昔の人々はどういうものを恐れていたのか」それを現代映画で表現したのがこの作品。
 そうやって作られたものがちゃんと怖い。昔の人が感じていたであろう恐怖が今でも同じように怖がられる……ということがわかる。
 ただ、そういう近代的なホラー演出を完全に排除してしまっているから、「ホラー映画といえばジャンプスケアでしょ」と考える現代の観客が見ると「なにこれ?」と思われてしまう要素が多いらしい。実際、マイナス評価をしたのは、そういう観客だったようだ。
 確かにこの作品は、まずキリスト教に対する理解がないと難しいところがある。どうして魔女があんな姿をしているのか、なぜ魔女が恐れられているのか、そんな魔女がどうして文明から隔絶された森の闇の中にいるのか……。それは文明が完全に崩壊し、人間が“野生”に戻った姿を描いているのであり、さらに文明人が忌まわしいと思っている因習や儀式が生活の全てになってしまった人間像を描いている。その狂気が狂信の向こうにあるもの……という示唆もある。冒頭で赤ちゃんを殺してゴリゴリ砕いて、それを体に塗りたくっている……という描写もそう。なんであんなことをしているのかというと、忌まわしいことをするのが魔女だからだ

 それに、この作品は“長回し”が多すぎる。一つのシーンが長い。上に掲げた画面のように、構図も俳優を真正面に捉える……という単調な画面が多い。しかも画面が薄暗いと来ている。明るい室内でこの映画を観ると、何が描かれているのかほぼわからない。
 でもこれもすべて意図的なものだ。この人物達は常に信仰や神や悪魔と向き合っている。人間の心情そのものを描いている。そこで俳優の芝居に対する全幅の信頼もあるのだろう。だからむしろカメラワークを封印して、ひたすら俳優の姿を正面から描いている。映像が薄暗いのも、彼らがそういう文明の光から遠ざかったところで生活している……という説明だ。
 とにかくも“刺激”が薄い作品というのは確かだ。ジャンプスケアもないし、殺人鬼も出てこない。刺激を求める若い人には退屈……となってしまうかも知れない。それでもこの作品に挑戦したい……という人だけが鑑賞すべきだろう。
 こういうところで作品を“理解できているかどうか”で大きく評価が分かれるところ。理解できていないと「登場人物が何を言っているのか」わからなくなる。みんなボソボソと念仏みたいな台詞を言っているだけ……みたいに見えてしまう。しかし台詞の全てには意味がある。登場人物達がやたらと宗教談義をするのは、信仰心がこの物語の大きなキーワードで、その信仰心を喪ってしまったり、信仰心がただの“狂気”に傾いていく姿を描いている。熱心すぎる信仰がどこかで狂って悪魔の側に転落してしまう……そういう過程が描かれている。
 でもこの辺りもキリスト教の理念がわかっているかどうか……が前提。難しい物語だが、理解できると「とんでもない作品」であることがわかるはず。

 どんな物語にいえる話だけど、「作為的」に感じると冷める。登場人物の自由意志ではなく、見えざる神――つまり作者が顔をちらつかせて物語に干渉しているように感じさせる物語はダメ。登場人物が自由意志で発言し、行動し、それで結果を出している……そういう物語は登場人物自身がその世界に実在して人生を語っているように見える。しかし作者の作為が見えてしまうと、「この世界観は嘘で、人物は虚構だ」ということを突きつけられてしまう。だから気持ちは冷めてしまう。
 でも物語には多かれ少なかれ、そういうところはある。特にホラー映画は作者の作為が混じりすぎて、そこで胡散臭さを感じさせることが多い。ホラー映画はどうしても俳優達が、「ホラー映画っぽい芝居」をしてしまうからだ。大袈裟に怯える、大袈裟に驚く……ホラーはどうしても無理矢理なものがある。
 本作『ウィッチ』はそういうホラー映画的作為がほとんど感じられない。というか、ホラー映画然としていない。私はこの映画について何の予備知識を入れずにいきなり見たいのだが、ホラーだとは思わなかった。だいぶ後になって「あ、そうか、ホラーか」と気付いたくらい。それくらいのホラーっぽいところがまったくない。
 それどころか、むしろ「歴史物」として見ることができる。私はだいぶ後の方まで「歴史映画」だと思って見ていたくらい。17世紀の考え方や習慣を徹底的に調べ、現代的なソフィスケートを一切入れず描いている。制作には実際の研究家を何人も入れて、どんな家に住んでどんな格好をしてどんな生活をしていたか……ということを描き込んでいった。さらにどのように考え方をしていたか。つまり「信仰と魔女」について。当時の人は何に怯えていたのか。当時の人が感じていたであろう不安や恐れがこの作品に主軸なっている。だから一番適切なのは「民俗学的映画」ではないだろうか。
 私はキリスト教が描いていたような魔女は実際には存在していなかった……と考えている。ではどうしてあんなに魔女やサバトの資料が大量に作られたのかというと、ああいう姿が当時のキリスト教徒たちが、つまり「印刷技術を持った人たち」が恐れていた姿だったからだ。魔女とは、キリスト教の理念を“反転”させた姿だった。
(映画に描かれているように、森の深いなかで、裸の女達だけで原始的なコミュニティを築いていた……なんてわけはない。現実的にはあり得ない。あれは「生身の人間」ではなく「魔物」だろう)
 そういうものを描いた作品だから、やっぱり「ホラー映画」というより「歴史映画」というより「民俗学的映画」といったほうがいい。「ホラー映画だと思ったらガッカリした」……そういう意見があるのもなんとなくわかる気がする。当時の人が感じていた恐怖と、現代の人が感じる恐怖の感性は違う。ただ「恐怖の根源」そのものを追求した作品というのは間違いない。その恐怖の根源まで読み込めるかどうかだが。
 歴史映画といっても、歴史の偉人を描いたわけでも歴史事件を描いたわけでもない。ただその時代の人がどんな環境に住んで、なにを恐れていたのか……。だから「民俗学的映画」だ。そしてその恐れは今でも人々が心の奥底で恐れているものとそう変わらない。『闇の奥』で描いたような文明が崩壊した姿。あの姿に私たちはいまだに恐れ、怯えて、そういう属性を排除したがる。私たちは変わらないのだ……そういうことをこの映画は突きつけたような気がする。


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