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映画感想 山椒大夫

 すべてを喪っても、気高き魂は砕けぬ。

 今回の映画は1954年の大映映画『山椒大夫』。溝口健二監督作品で、『西鶴一代女』『雨月物語』に続いて3作連続でヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞受賞。名作を数多く世に放ってきた溝口健二作品の中でも最高傑作と呼ばれる1本。マーティン・スコセッシ監督、映画評論家のロビン・ウッドといった著名人がこの作品を称賛し、コロンビア大学のリチャード・ペーニャ教授は『死ぬまでに見るべき1001本の映画』の中で、「映画史上最大の感情的、哲学的な旅」と評している。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは20件の批評家のレビューがあり、もはや当たり前のように肯定評価100%。オーディエンススコア95%という評価となっている。
 原作は森鴎外が1915年に発表した小説『山椒大夫』。もともとは中世の芸能であった「説経節」の「五説教」と呼ばれた演目に「さんせい太夫」という作品があり、そこから童話としての『安寿と厨子王丸』が江戸時代頃に成立し、その後、森鴎外が小説としてまとめあげた……という経緯のようだ。
 安寿と厨子王丸の実在を示す資料はなく、物語自体は架空である。しかし民間信仰として根付いていたらしく、もともとの原作では安寿が拷問によって殺されてしまうために、弘前藩では「丹後の者が入ってくると災いが起きる」と入国を禁じていた、というエピソードもある。
 日本映画史上に残る最高の1本。まずその物語から見てみよう。


 平安朝末期。
 丹後の国守をしていた平正の屋敷に、農民達が殺到していた。平正が左遷されると聞いて、農民達が強訴にやってきたのだった。
「わしたちのためにこんな目に遭われるのだ! 黙っているわけにはいきません!」
「みんなでお願いしたら聞いてもらえるだろ!」
 農民達はみな平正に信頼を寄せていた。この頃は不作が続いていて、思うように収量を上げることができなかった。しかし朝廷はそんな事情などお構いなしに米を出せ、戦に使役しろ……とばかり。平正はそれに抗議した結果、左遷されることになってしまったのだった。
 平正は農民達のために、左遷を受け入れるつもりだった。
 いよいよ屋敷を出立する、という前の晩。平正は幼い厨子王に言葉を残していく。
「人は慈悲の心を失っては人ではないぞ。己を責めても人には情けをかけよ。人はひとしくこの世に生まれてきたものだ。幸せに隔たりがあってよいわけではない」
 それから厨子王に家に伝わる観音像を託し、平正は屋敷を去って行くのだった。

 数年後。厨子王と妹の安寿は母と召使いとともに旅に出ていた。母の故郷に戻るための旅だった。
 しかしとある領地に入ったところで、宿での宿泊を断られてしまう。この頃は旅人を装う盗賊や人さらいが多く徘徊するようになり、旅人は誰であっても泊めてはならぬ、というお触れが出ていたのだった。
 それでは仕方ない、と親子は野宿をすることになる。
 夜も更けた頃、親子が木陰の下にいるところに、巫女がやってきた。
「こんなところで、どうしたことですか?」
 事情を話すと、巫女はぜひ家に、一晩泊めて差し上げましょう、と申し出るのだった。
 なんとありがたい。親子は巫女の厚意に甘えて、その家で一晩過ごすのだった。
 この先の山々にも盗賊のねぐらが一杯にひしめいている。危険だから舟で旅をしなさい、知り合いの船頭を紹介しますから……と巫女は親子を案内してくれた。それに従って船に乗り込んだところで――子供たちを乗せずに舟が出発してしまった。
 船頭達は人さらいだった。巫女も人さらいの仲間だった。船頭達の正体に気付いた母と召使いは慌てて岸に戻るようにお願いする。しかし乱暴な船頭達によって召使いは海に沈められてしまう。
 こうして母は佐渡に連れて行かれて、厨子王と安寿の二人は山椒大夫と呼ばれる荘園領主のもとに売られていくのだった。


 ここまでで前半25分。詳しいところを見ていきましょう。

 冒頭。平正の屋敷に集まってくる農民達。農民達は領主の平正に信頼を寄せていて、しかし左遷されてしまうと聞いて直訴にやってきたのだった。平正がいかに人徳優れた人か……ということがよくわかる。
 平正が左遷されることになった筑紫国とは現在の福岡。大陸と交易をするために太宰府が置かれていた場所。ここに左遷ということは外交のため、あるいは海外勢力を抑えるための兵士として駆り出されたかも知れない。

 こちらが幼年期の厨子王だけど……めちゃくちゃ可愛くない? なんですか、このショタは。この時代は男の子もこんなに可愛い格好をさせる風習があったのだろうか……。

 いよいよ左遷されることになった平正。農民達が「ついていきます!」と集まってきて、侍達が「邪魔だ! のけ!」とか言っている場面。
 現代の日本ではこんなロケーション、そうそう見つからない。なかなか見事な風景だが……ちょっと違和感がある。というのも、森に木がほとんど生えていない。短い草が茂っているだけで、木は尾根のところにちょこちょこ生えているだけ。戦後、しばらく森林不足に陥っていた……という話だけど、日本中の山がこういう様子だったんだろう。

 旅をする厨子王一行。このシーンにはいくつかツッコミどころがあって……。
 まず服が綺麗すぎる。旅をしているなら、もうちっと裾が汚れてないと……。
 それに、こんな時代に女子供で旅をするのは危険すぎる。こんな見るからに良い服を着た旅の一行……襲ってくれと言わんばかりだ。腕っ節のいい男2人は護衛に必要。いくら自分の領地内とはいえ、油断しすぎだ。
 もう一つ引っ掛かったのは、お婆ちゃんに荷物を持たせるのはどうかと……。一番元気な少年が荷物を持ちなさい。この時代の感覚ではこれが正しいのかもしれないけど……。
 ところでこの少年役……誰かと確認したら津川雅彦だった(当時は「加藤雅彦」名義)。えーあの人か! 2018年に78歳でお亡くなりになっているから、やっぱり古い映画だったんだな……。

 案の定、人さらいに騙されて親子離ればなれに。

 厨子王と安寿兄妹が連れて行かれた場所……というのがここ。山椒大夫の屋敷。これはまた……すごい屋敷を作ったな。この時代の映画制作は凄かったんだな……。屋敷の左手に枯れて折れ曲がった木が植えられているけど、あれがいいアクセントになっている。この場所の不気味さ、不穏さを表現している。

 屋敷の内部は……。どうやら大広間しか作っていないようだけど、柱とか梁が本物の材木で作られている。これは映画セットとして贅沢。

 こちらは右大臣を招いて歓迎しているシーン。屋敷の中の構造がよくわかる。使われている材木が堂々とした大木ばかりで……。凄いものを作ってるな……。

 さて、右大臣が山椒大夫の屋敷にやってきて、なにを言いに来たのかというと、この荘園では年ごとに収穫物がよくなっているから、実に見事だ、今度そなたを都に招待しよう……とか言っている。

 しかし実体は奴隷労働。女子供も容赦なく過酷労働。しかもみんな人さらいから買ってきた人達。
 右大臣だってこの屋敷敷地内に入ったところで、奴隷労働の様子を見ているはず……。それを知りつつ、収穫物の量が多く、モノが立派……という話をしかしない。上も下も腐りきっている現状がわかる。
 この山椒大夫の荘園は、冒頭の平正の領地との対比になっている。表と裏のような関係。平正は農民達に慕われて、農民達をさらに守ろうとした結果、左遷されてしまう。一方の山椒大夫は奴隷労働させて、収益を上げたら右大臣に褒められる。この時代の支配者がいかに労働者を軽視しているかが見えてくる。

 奴隷の身になって数年後……。安寿は成長しました。なかなかの美人に育った。相変わらず奴隷の身だけど、ふるまいの美しさは喪わないようにしている。

 一方の厨子王は……すっかりこの屋敷の空気に飲まれてしまっている。絶望しきって冷酷な性格になり、屋敷の決まり事を自ら進んで守ろうとするようになってしまった。脱走者を捕まえ、その額に容赦なく焼きごてを当てる。すでに人間性も死んでいた。

 過酷労働の末に倒れてしまう者も。倒れてしまったら、死ぬ前に捨てられる。しかし絶望している人々にとって、むしろ過労で死んでしまった方が「解放される」という気分にすらなっていた。

 せめて病人に屋根を作らせてください……。というこの場面。前半シーンの繰り返しになっている。あえて繰り返しのシーンを入れることで、冷酷になっていた厨子王が父と母を思い出す……という場面になっている。
 こういうところも作劇がうまい。似たような構図を作って見る者に喚起させるし、登場人物も「あの時の気持ち」が蘇ってくる感覚を表現している。
 この辺りの脱走シーンでだいたい1時間あたり。映画の中間地点。ここから物語が転換していく。

 いよいよ厨子王は脱走する。麓の国分寺へと逃げ込む。
 このシーンだけど……これって映画のセットだと思う? それとも実際の大仏? 実際の大仏だとしても、その側で松明をたいて芝居をするなんて、もしものことがあったらどうするつもりだったんだろう……。映画のセットとしては大仏があまりにも立派だし、屋根の構造もしっかりできているんで、本物なのか映画セットなのかかわからない。2カットしか使わない大仏のために、わざわざ作るかな……?

 厨子王を匿ったのはこのお坊さん。私はすぐに気付かなかったのだけど、山椒大夫のあまりの横暴が許せなくて、その屋敷を出て行った太郎。
 でも、なぜ屋敷からやってきた追っ手はお坊さんが太郎だって気付かなかったんだろうか。……まあ、日が落ちているし、数年経っているし、私も気付かなかったから、気付かないのは仕方ないかな。

 厨子王は京都の屋敷に忍び込み、関白のもとへ直訴。一度は牢に入れられるが、持っているもので丹後の守・平正の息子であると証明された。

 父の後を継いで丹後の守の任に就き、まっさきに山椒大夫の悪徳を告発し、妹・安寿を迎えに行くが、しかしすでに……。


 本編の解説はここまで。ここから感想文。
 率直な感想としては……見事な1本。今年見た映画の中でもベストワン。名作と呼ばれているが、そこに文句の付けようがない。出来が良すぎて「参りました」と言うしかない。
 まずお話しがシンプルにまとめられていること。このお話しはくっきりした対比構造と繰り返しでできている。例えばまず最初に人格者の平正が登場し、その後、悪党の山椒大夫が登場する。この2人はコインの裏表の関係性にある。人格者の平正は領民を守るために朝廷に楯突き、結果左遷されてしまう。一方の山椒大夫は誘拐してきた人達を奴隷労働させて、無理矢理収益を上げて右大臣から評価される。
 繰り返しは前半に母との旅の最中、その中のできごととして木の枝を折ったり、芝を刈ったりする場面がある。厨子王と安寿が奴隷の身になった後、木の枝を折ったり芝を刈ったりする場面で、わざわざ同じ構図が使われている。

 子供の頃。野営地を作るために枝を折り集めている。
大人になって同じ行動を同じカメラワークで描く。枝を折ろうとして転ぶところも一緒。意図的に同じ動作をさせている。

 厨子王は人間性を喪っていたのだけど、ふと子供の頃と同じ行動、遠くで母が呼ぶ声を幻聴のように聞いて、ハッと忘れていた感情を思い出す……。
 ここまでの物語の流れ方が非常にスマート。無駄が1カットもない作りになっている。登場人物の心情的な流れがスッと下りてくる感じがするし、観ている方も腑に落ちる見せ方をしてくれている。佐渡島にいる母の声が偶然聞こえる……というところはやり過ぎかとは思ったけども。

 無駄のない登場人物配置も見事。
 映画の前半で、山椒大夫の手先として働いていた太郎。しかし厨子王の父が残した言葉「慈悲の心を失うな。己を責めても人には情けを」に感動し、同時に山椒大夫への憎しみを膨らませ、それを切っ掛けに屋敷を去って行く。
 その後、国分寺に出てくる僧侶として再登場。作りが上手い。

 山椒大夫の屋敷を脱走した厨子王は、関白に直訴。実は関白は平正と知り合いだった。キーアイテムである観音像、何の意味があるのだろうか……と思っていたけれど、こんなところで意味が出てくる。色んな要素がうまくはまって実に気持ちいい。

 シナリオはシンプルにして力強い。私が「強いエンタメ」と呼ぶものとは、見る側に「これ、どうするんだ?」と困惑させる要素があることである。この作品の場合は、奴隷の身になった兄妹がいかにして人間性を取り戻し、脱出するか。一度兄妹は山椒大夫の領地でどん底を経験する。もしも脱走しようとしても、屋敷の人々が一斉に捕まえに出てきて、しかも額に焼きごてを当てられてしまう。どうにもならない状況に、厨子王は絶望して、むしろ脱走者に拷問を加える側にすらなってしまう。
 これはもうどうにもならないんじゃないか……一瞬そう思わせておいて、実は伏線がスッと忍ばされている。過酷労働で倒れかけている人と、佐渡から渡ってきた娘を登場させて、脱出のチャンスと人間性を取り戻すチャンスの2つを同時に提示している。

 ただし、厨子王に“選択”させている。脱走のチャンスを与えるけれども、妹の命は……。自分は助かるし、母も助かるかも知れないが、妹は……。厨子王にとっての「トロッコ問題」状態。この選択肢をつきつけて、さあどうする? 名作ドラマはこの選択肢から極上のドラマが生まれる。

 演技も見事だった。絶望のどん底状態で、ほんの一筋あるかどうかわからない希望にすがる……。実写作品にとっての演技は、脚本や監督が提示した状況下でいかにその感情を表現するか……だが、この作品の場合、どの演技も見事だった。どのシーンもゾクゾクくるような緊張感がある。見る側を引っ張り込んで離さない力がある。現代の俳優だと、ここまで力強い演技をやれる人って、そうそういないかもしれない。

 このシーンも凄い。兄のために死のう……その決心をしたとき、安寿はうっすら微笑みを浮かべる。緊張しすぎての微笑みでもあるのだけど、ある種、勝利を確信しているから。10年間奴隷労働をさせられて、はじめての反逆のチャンスがやってきた。それを感じ取っての微笑みだ。

 構図も見事で、どのシーンも絵としてしっかり作り込まれている。例えばこの場面。各登場人物がただ立っているだけ……に見えるけど、それぞれの顔が格子にハマっているように作られている。

 逆にこちらのシーンでは格子で顔が隠れている。声を掛けたら顔がパッと見えるようになって、「誰だ?」と思わせる仕掛けになっている。

 どのシーンも風景が見事で、かつての日本にこんな美しい場所があったのか……と感心する画面が作られている。カメラを担当したのは名カメラマンで知られる宮川一夫。黒澤明、市川崑、小津安二郎といった名監督の画面を支えたカメラマンで、名作映画と呼ばれる作品のカメラマンを見ると、だいたいこの人の名前が載っている。今作でもその実力を充分に発揮している。

 お寺のシーンがそうだったが、映画の小道具なのか本物なのか区別できない……というところも。ここのシーン、なんと森の一角を本当に燃やしている! 今だったらCGでやるところ。こんな撮影、よくやったよね……。

 と、こんな感じで褒めるところしかないような作品。名作と呼ばれるのは納得すぎる作品。まさに「映画好きならば死ぬまでに見ておけ」という作品だった。
 引っ掛かりがあるとしたら、音の収録がうまくいっていないところが多々あること……それは時代だから仕方ないけれども(当時の人がやりたかったであろう音源を再現したバージョンとかないだろうか。映像は綺麗に復元されて4Kになっているけども……)。それで音声がどうにも聞きづらいところが結構あった。字幕がほしかった。
 しかしここまでの名作でありながらどうしてこの作品は、同時代の名作達と較べて、あまり名前が挙がらないのはなぜだろう? 溝口健二作品なら『雨月物語』のほうがずっと有名だし、黒澤明作品は神格化されている。『山椒大夫』だって同じくらいの存在感を持っていてもいいような気がするが……。
 その理由はたぶんタイトル。だって「山椒大夫」って、名前だけ聞いてもピンと来ない。というか作中に出てくる悪党の名前。どうして悪党の名前をタイトルに持ってきたのだろうか。『ゴジラ』や『キングコング』くらいどっしりとした風格のあるキャラクターならともかく、山椒大夫はせいぜい小悪党。後になって考えると、なんで「山椒大夫」をタイトルに持ってきたのか……。作品は磨き上げた刀というくらい完璧なんだが……。

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