【気まぐれエッセイ】シーンとシーンの間をいかに楽しめるか

人生が動き出すときの、心が躍る感覚が私はとても好き。少しの不安とたくさんのワクワクが入り混じったあの感じは、クセになる。

だけど私はよく忘れてしまうんだ。物語では描かれることのない、シーンとシーンの間の存在を。


ドラマや映画にも、ショッキングな出来事やハプニングは起こる。それが面白い場面でもあるからね。だけど、それによって喚起された主人公が決意し動き出したら、ドラマチックなまんま夢を叶えてしまうでしょう? 物語の世界では、良くも悪くもとにかく何か起こるのだ。何も起きないつまらぬ道をただひたすらに歩み続けるような平坦なシーンは、軽やかなBGMとともにリズミカルに過ぎ去っていく。尺はとても短い。

でもリアルな世界は、物語ではカットされがちなそんな平坦なシーンの連続だ。

いくらお気に入りの音楽をかけたって、同じテンポで物事が進んでいくわけじゃない。当然、倍速再生も出来やしない。その間に、最初は溢れていたワクワクやドキドキが擦り減って、いつしか不安が膨らんでいくのだ。

きっと、このときにどれだけワクワクをキープできるか、むしろ増やしていけるかが欲しいものを手に入れる秘訣なんだろう。どうすれば再び心が踊るのか。あの時みたいに。ううん、むしろあの時以上に。

酔いしれたっていい。浸ったっていい。いい歳してって鼻で笑われちゃうような子どもっぽい感情がきっと1番、ワクワクを取り戻させてくれる。

小学校入学前にランドセルを背負ったときの感覚。きっと、アレに近い。
「へへん、かっこいーでしょ。私もうお姉さんだもん」って、自分を誇らしく思う、あの感じ。これから始まる新しい生活に、期待を膨らませるあの感じ。何かを決意したとき、新しいことを始めるときって、いつもああいう感じだと思うのだ。

それを、平坦な道を歩んでいる最中も持ち続けることが出来たなら、それこそ映画のように軽やかに、あっと言う間に目的地に辿り着けるんだろう。

やりたかったことにやっと携われても、自分に出来るんだから誰にでも出来るのだろうと、すぐその価値を下げてしまうのが私の悪い癖。小学生になった途端、ランドセルを背負える誇らしさを忘れ「その歳が来たら誰でもなれる」って、思っちゃうのが私なのだ。それはたしかに間違いじゃないんだけど、当たり前に手に出来るものにすら誇らしさを感じていたほうが、毎日を楽しく歩んでいけるし、本当に難しいことにチャレンジする気力も湧いてくるってものだ。そしてその経験の積み重ねが、誰にでも、は出来ないことを成す力をくれる。


BGMも倍速もない世界だからこそ、自分でドラマチックに演出しなくっちゃ。



P.S.
16歳の私の日記に
31歳の私の想いをのせて……

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