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歩道に置き去りにされた3歳の私が見つけた光

3歳の私が
くっきりその光景を覚えているのは 闇と光の光景だ。
京都の田舎道に 置き去りにされた記憶
チラチラ落ちる白い雪 とてつもなく静かで
街灯も全く無い
真っ暗な畦道を 不安 恐怖 寒さを体いっぱいに感じて
トボトボと 3歳の私は
体を震わせながら泣き ただ あてもなく歩いた。
闇の世界。

畦道の遠くの方から 光が近づいてくるのが見えた。
優しい口調で話しかけられた。
それは巡回のお巡りさんだった。
私は自転車の荷台に乗せられ 交番へと連れて行かれ
無事に保護された。

お腹が空いていた
お巡りさんが
あったかそうなうどんを食べているのを
ドアの隅で覗くように見ていたら
「うどん食べるか?おいで」と呼び寄せられ
フーフと熱いうどんを冷まして 口に運んでもらった
「美味しかった」とても温かい人だった。それから
私は養護施設にゆく前の一時預かりの施設に保護され
そこで3日間過ごした。
私が歌を歌っても
「うるさい 黙れ」という人はいなかった。
「上手ね 上手ね」とニコニコと褒めてくれた
怒鳴られたり ビンタされる事もなかった。
食事も穏やかに食べる事ができ 何しても
褒められる事が嬉しかったのだろう
笑顔いっぱいで 一日中歌っていたらしい。
光の世界には 安心があり 自由があり 周りの人は笑顔で
温かさに満ちていた そして 私は生まれ始めて
伸び伸びと自分らしくいられた。
3日間の施設の生活は とても心地良かったのだ。

私の両親は 大阪で父の姉が大家をしている
アパートで住んでいた。
父の姉(伯母)には 私よりひとつ上の4歳の男の子と
2つ上の5歳の男の兄弟がいて
私はその二人にくっ付いてよく遊んでいた。
父の姉の夫(伯父)は 精神分裂病だったと聞いている
伯父さんは 二人の兄弟を連れて出かける時に
私も連れて行ったのだ。
京都についたその日に 私は置き去りされた。
悪気は全くなく 精神障害からくるもので
悲しいかな 叔父は私を京都に連れて行った記憶も
置き去りにした記憶も全く残っていない。
祖父母の法要で我が家に伯父が来た時も
置き去りにした記憶は全くなく
笑顔で 私に優しく接し話しかけてくれるのだ。
伯父が私を置き去りにした事も その事件の事も
誰も口にする人はいなかった。禁句で口にできなかった。

伯父が子供達3人を連れ出した日
心配する両親に
伯母は私を必ず夫が連れて帰るから
安心して 心配しないでと
私の両親をたしなめたらしい。
3日経って 伯父が家に着いた時
兄弟だけで そこに私はいなかった。
両親は「青龍(仮名)は⁇」と尋ねると
伯父は「知らん」と答えたと言う。
慌てる様に 親は警察署に捜索願いが出し。
私が京都で保護されている事を知った。
後1日捜索願いが遅れていたら
孤児院に行くところだったそうだ。

両親が迎えに来た時
私は隠れて すぐに親もとに 飛んで行かなかったらしい。
両親にとって それはショックな事で
母はのちにも「可愛げない子だった」と嘆いていた

私としては
光から闇の世界に送り返される気持ちだったのだろう
毎日のような夫婦喧嘩(叩く 蹴る 物が壊れるほど 凄まじい)
父から受けた暴力の腹いせを私にぶつけるように
「躾てやる」と言っては調教の如く
ひどい言葉とビンタが容赦なく私に向かって飛ぶ日々
闇の世界に戻されるのだから
お母さんと飛んでゆくはずが無い

私には その後も
その3日間の温かく優しい思い出が
3歳の記憶にしっかり残されていた。
いつか その温もりの恩返しができれば
養護施設で仕事ができればと願い祈っていた。

41歳の時から地域の小学校で外部講師(助産師)として
命の学習(性教育)の講演活動を積極的に行なっていた。
いつか 養護施設で命の学習の講座ができればと
願いも具体的になり
そうなる事を光の存在に祈っていた。

46歳の頃 養護施設の臨床心理士からメールが届いた。
「うちの施設で 命の学習(性教育)をしてもらえないかと」
養護施設の子供達に性教育の必要性を強く感じている
養護施設の臨床心理士の祈りと願いが
私の祈りと願いとに結びついて
その年から 二人でお互いの専門知識を出し合い
施設の子供達ひとりひとりの事を思い
独自のカリキュラム、性教育講座(命の学習)を作りあげて行った
今年で16年目を迎える。

置き去りにされた
あの闇から光の体験が無ければ
私は養護施設で命の大切さを
自分の心と体を大切にする事
他者を大切にする事
命の尊厳の講座をしなかっただろう。

私はずっーと
私があの3日間で感じた光の存在に
私もなりたかったのだ。



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