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天気専用ヒトガタの誕生【てるてる坊主考note#29】


1、江戸時代の平面的てるてる坊主

 てるてる坊主はいつごろからあるのか、確かなことはわかっていませんが、江戸時代にはすでに広く見られたようです。江戸時代のてるてる坊主を描いた絵が、わたしの管見の限りでも8点のこされています(★図1と表1参照)。

 ⑧の文献については、発行されたのは江戸時代ではなく明治18年(1885)です。しかしながら、描かれているのは幕末の光景であることが確かなので、江戸時代の事例としてここに含めることとします。
 てるてる坊主の姿かたちに注目すると、平面的な作り(図1および表1の①③④⑤⑧)と立体的な作り(②⑥⑦)が混在しています。事例の数のうえでは、前者の平面的な作りのてるてる坊主のほうが優勢です。
 平面的な5点のうち3点(①⑤⑧)は輪郭が人や衣のかたちとなるように、紙を切り取って作られているようです。⑧の衣の部分は2枚の紙を重ね合わせて切ってあります。ほかの2点も紙を重ね合わせてあるようで、①では衣と足のあいだ、⑤では頭と衣のあいだに、境目の線が横切っています。
 平面的な5点のうち残る2点(③④)は、折り紙のようにして作った着物を着ているようです。紙を折って作った着物を着ているのは、立体的な3点(②⑥⑦)とも共通するポイントです。
 平面的な5点に目立つのは、いずれも顔に目鼻がなくのっぺらぼうであること、および、⑧を除く4点(①③④⑤)が逆さまに吊るされていることです。なかでも、①は縦に真っ二つにされています。
 いっぽう、立体的な3点はいずれも頭が球体で、着物を着て帯を締めています。そして、②は向こうを向いているのでわかりませんが、⑥⑦には目鼻がしっかりと書き込まれています。逆さまに吊るされているものは見当たりません。
 わたしの管見が及んだ江戸時代の事例はわずかな数に限られます。そうしたなかでも本稿で注目したいのは平面的なてるてる坊主。繰り返しになりますが、その特徴としては、顔がのっぺらぼうである点、および、多くが逆さまに吊るされている点が挙げられます。

2、平面から立体へ

 昨今のてるてる坊主は、平面的ではなく立体的なものばかり見られます。ただし、立体的ではあるものの、着物は着ていません。江戸時代に見られた「平面的なてるてる坊主」や「立体的で着物を着たてるてる坊主」は昨今では姿を消しました。
 前者の「平面的なてるてる坊主」は、江戸時代を過ぎた明治期以降は見られません。明治期以降は、後者の「立体的で着物を着たてるてる坊主」ばかりになります。
 その後、大正を経て昭和に入ってからもしばらく、「立体的で着物を着たてるてる坊主」は主流であり続けます。昨今のような着物を着ていない立体的な姿に取って代わられるのは、ようやく昭和30年代前半になってからのことです。
 江戸時代には見られたものの、昨今では姿を消した「平面的なてるてる坊主」と「立体的で着物を着たてるてる坊主」。どちらが、より古いかたちなのでしょうか。それはおそらく「平面的なてるてる坊主」であろうと推測されます。
 とぼしいながらも、その根拠は3つ。1つめは、「平面的なてるてる坊主」のほうが素朴な作りであること。
 2つめは、管見が及んだ江戸時代の事例は先述のようにわずかな数に限られるものの、そのなかで最古の事例(①)が「平面的なてるてる坊主」であること。19世紀前半までに焦点を絞ってみると、5点のうち4点が「平面的なてるてる坊主」で、「立体的で着物を着たてるてる坊主」は1点(②)のみです。
 3つめは、「平面的なてるてる坊主」が明治期以降は姿を消すのに対し、「立体的で着物を着たてるてる坊主」は明治期以降に長らく主流となっていったこと(★図2参照)。

 さらに、広い視野で考えるならば、江戸時代は「平面的なてるてる坊主」から「立体的で着物を着たてるてる坊主」への過渡期と捉えることもできるでしょう。そして、「平面的なてるてる坊主」はより古いかたちというだけでなく、ひいては、てるてる坊主の原初のかたちなのかもしれません。

3、大祓(夏越しの祓)のヒトガタ

 「平面的なてるてる坊主」の姿は、はらえに用いる形代のヒトガタを思い起こさせます。形代とは、積もり積もったけがれを託し、水に流して祀り棄てるもの。で物とか雛形ひながたとも呼ばれます。また、ヒトガタとは半紙などを使って、人や衣服のかたちを模して小さく作ったもの。
 昨今でも、とりわけ6月末の大祓(夏越しの祓)の日などには、各地の神社で参拝者にヒトガタが配られます。からだを撫でたり息を吹きかけたりしてヒトガタに穢れをなすりつけ、身代わりとしてそれを川へ流し去ることで無病息災を祈願する慣わしです。

 なお、本稿を記すにあたり「ヒトガタ」と「形代」の語意を再確認していたところ、両者の用法にしばしば混同が見られることに気づきました。「ヒトガタ」とは「形代」のことである(「ヒトガタ」=「形代」)とか、「ヒトガタ」は「形代」の一種である(「ヒトガタ」<「形代」)といった説明も散見されます。
 しかしながら、「ヒトガタ」は祓の形代だけではありません。よく知られたところでは、人をのろうために五寸釘を打たれた藁人形が思い浮かびます。あるいは、船の守り神として祀られる船霊ふなだまさまのご神体として、紙で作った夫婦一対のヒトガタが多く見られます。
 いっぽう、穢れを託す「形代」も人のかたちをしたものばかりではありません。動物や剣のほか、昨今では車やバイクなど、さまざまなかたちの形代が見られます。「ヒトガタ」と「形代」には重なり合う部分もあれば、重ならない部分もあることを確認しておきましょう(★図3参照)。

 本稿で注目したいのは、まさにその重なり合う部分。ヒトガタのなかでも祓に用いられる紙製の形代であり、そして、形代のなかでも人のかたちをしたものです。以下、本稿ではこうしたヒトガタと形代が重なり合う部分を指して、「祓のヒトガタ」と表記することとします。

4、穢れの除去から現世利益へ

 穢れと祓をめぐっては、宗教学や歴史学といった分野において研究の分厚い蓄積があります。本稿で手がかりとしたいのは、民俗学者・宮田登(1936-2000)の論考「神と仏——民俗宗教の基本的理解——」。そのなかで宮田は「祓=ハラエの構造」という一節を設けて、ヒトガタを用いた祓の風習が形成されてきた過程を整理しています。
 分析の対象とされているのは、古代・中世の文献に記された祓の光景。そこから宮田は、古代から中世にかけて祓の方法・目的・担い手に変化が見られる点、および、その変化には陰陽師が大きく関与していた点を明らかにしています。
 宮田によれば、祓とは「穢気の原因を探り、これを直接除去しようとする積極的意図」に基づく行為。その本来のかたちは、「水の浄化力によって、災厄をもたらす悪しきものを(ママ)う」みそぎでした。すなわち、「わざわざ水際へ行って、水を浴びる神道の伝統的呪法」です[宮田1983:39、43頁]。
 やがて、古代末から陰陽道の関与が次第に強まった結果、中世になると祓は神事として制度化されていきます。『源氏物語』(平安中期)、『河海抄』(室町初期)、『公事根源』(応永29年=1422)といった文献に散見される祓の特徴として、宮田は以下の2点を指摘しています[宮田1983:43-44頁]。

・「陰陽師の作った人形が、災厄けの形代かたしろとして重んじられ……(中略)……陰陽師の祓えの具によって、海や川から災厄を流す呪法が、禊ぎにとって代っていること」
・「すっかり祓えが陰陽師に委託されてしまっており、本来の浄化を求める水辺の禊ぎが薄められていったこと」

 こうして、陰陽師の知識により、祓の具として盛んに用いられるようになったのが撫で物とも呼ばれる形代のヒトガタ。すなわち、「穢気の部分を直接なでて、川へ流す呪具」です。そして、「陰陽師たちが主役となっていくと……(中略)……禊ぎの穢気の解除という目的が弱体化しはじめ、吉祥を祈願するまじないとしての意味が表出することになった」といいます[宮田1983:42、45頁]。
 加えて、宮田が注目しているのは、祓の風習の担い手にも変化が見られる点。本来、祓は京都の知識人たちのあいだの風習でした。それが中世以降になると各地へ広まり、地域に根づいた風習として伝えられていきます。
 そうして巷間に根づいた一例として宮田が挙げているのが、江戸時代後期にも見られた夏越しの祓。天保9年(1838)に発行された『東都歳時記』の「夏之部」に収められている「六月晦日」の記事です。
 江戸のあちこちの神社で夏越しの祓がおこなわれており、「此日庶人紙をもて衣類の形に切て撫ものとし川へ投ず」という光景が綴られています。そこに人びとは延命長寿の願いを託したといいます[宮田1983:40-41頁]。
 『東都歳時記』に記された夏越しの祓の光景には、陰陽師の介入によって方法や目的が変化したあと、庶民の風習として根づいた祓のありようが窺われます。先述のように、似たような光景は昨今でも見られ、「祓のヒトガタ」に現世利益の願いが込められているのです。

5、祓の対象としての「天気」

 穢れを除くべき祓の対象とは何なのか。時代は再び大きくさかのぼりますが、宮田が前掲論文のなかで紹介している『玉葉』の記事が注目されます。
 『玉葉』は平安時代末期の公卿・九条兼実かねざね(1149-1207)が30年余りにわたって綴った日記。とりわけ、当時の宮廷行事についての記述は詳細です。宮田が読み下して引用しているのは建久2年(1191)6月29日の条[宮田1983:42頁]。

夏と秋の季節が相改むる時、天気相乱れ、人気は相反す、人は病となり、世は災いを招く、ここによって金火相刻の時、解謝の法を修す

 「金火相刻の時」とは陰陽五行説でいうところの夏(火)と秋(金)の境目のこと。6月末のこの一節に目を留めた宮田は、「夏の気と秋の気が交替する折り目にあたって、天気と人気が大いに乱れ災厄が生ずるという意識」に注目しています。
 旧暦と新暦では、年によって20~50日ほどのずれがあります。前掲の日記が綴られた旧暦6月29日というと、いまの新暦の感覚では7月下旬から8月中旬ごろ。日中の暑さは厳しいものの、だんだんと早まる日暮れや、夜に鳴きだす虫の声に、少しだけ秋の兆しを感じられるころでしょうか。
 「解謝の法」、すなわち祓の行事が集中しておこなわれるのが、そうした旧暦6月末ごろ。それは夏から秋への変わり目にあたり、陰陽五行説に基づく世界観では、陰と陽のバランスが崩れて「穢気不浄」に陥りやすい時期とされます。
 そして、もしも「穢気不浄」に陥ってしまった場合に危惧されるのが「天気相乱」と「人気相反」。つまりは災厄や病だというのです。本稿で注目しておきたいのは、ここに祓の対象として「天気」が挙げられている点です。
 祓の方法のひとつとして、中世には庶民のあいだに広まっていたとされる「祓のヒトガタ」。そこには、さまざまな穢れが託され、また、さまざまに現世利益的な願いが込められてきました。
 そうしたなか、いまもむかしも日々の暮らしのなかで気になるのが空もよう。天気に関わる穢れを祓うべく、「祓のヒトガタ」を使って好天を願うこともあったでしょう。取りも直さず、それがてるてる坊主の始まりなのかもしれません。

6、形代としての「雛」

 はたして、てるてる坊主の始まりは天気を対象とする「祓のヒトガタ」だったのでしょうか。謎を解く手がかりとしたいのが、先述のように、形代の別名のひとつである「雛形」という呼びかた。
 『日本大百科全書』で「形代」の項を引くと、一般的な説明に続けて以下のような興味深い記述が見られます(読みやすさを考慮して改行を加え、段落の頭にローマ数字を付す)[『日本大百科全書』1984:340頁]。

Ⅰ 今日一般に、雛人形ひなにんぎょうとよばれているものも「雛ひとがた」すなわち形代であり、これを人体の代わりとしてこれに災いをつけて流してしまうのである。つまり身代りになる形代であった。
Ⅱ 撫物なでものと称するのも同様で、形代で身体を撫でてそれにけがれをなすりつけたのち、それを流して災いを除いたのである。平安時代には、宮廷や貴族の間では陰陽師によってこの行事が行われたのである。
Ⅲ 現在鳥取地方でよく知られている郷土がんの流し雛も、この習俗の一つとして行われたものである。

 執筆担当者は民俗学者の大藤時彦(1902-90)。引用文中のⅡにおいては、古代(平安時代)に陰陽師が主導して宮廷の貴族たちのあいだでおこなわれていた、形代を流す慣わしについて説明されています。形代は「撫物」と呼ばれています。
 ⅠとⅢにおいては、昨今では豪華絢爛なお雛さまの人形も、元をただせば「雛ひとがた」であったことが説明されています。穢れを託して流される、身代わりの形代です。そして、お雛さまが形代として流されていたころの名残が、鳥取あたりに伝えられてきた「流し雛」の風習に窺われるといいます。
 整理してみると、形代が雛形とも呼ばれたことに関連して、形代のなかでも人の姿かたちをしたものが「雛ひとがた」と説明されています。本稿でいうところの「祓のヒトガタ」です。
 ところで、「雛」とは形代であり、本来は流されるものでした。その点をふまえるなら、「流し雛」という語は「流す」という意味を二重に含んでしまっており、おかしな表現であることになります。いわば、「痛」とか「頭い」とかいうのと同じような感覚です。
 おそらく、「流し雛」という命名がなされたのは、「雛」は流すものという意識が薄れたのちの時代。「雛」は飾っておくものという意識が浸透してからのことなのでしょう。
 流す「雛ひとがた」に代わって、飾るお雛さまが流行したのは、人形工芸の技術が高まった近世以降のこと。その流行に流されず、「祓のヒトガタ」として水に流され続けていた雛が、やがて後世に「流し雛」と呼ばれることとなったのです。

7、形代だった名残の「てり雛」

 ここでようやく、話をてるてる坊主に戻しましょう。先ほど、てるてる坊主は天気に関わる「祓のヒトガタ」として誕生したのではないかと予想しました。つまり、てるてる坊主の始まりは形代だったのではないかという仮説です。むろん、いまはまだそれをきちんと実証する力はありません。ただ、謎を解くきっかけとなりそうなのが、てるてる坊主のかつての呼び名。
 てるてる坊主は「てり雛」とも呼ばれていた時代があるのです。言うまでもなく、「てり」は日照の有無や空もように関わる言葉、そして、「雛」は先述したように形代の別名のひとつです(★詳しくは「雛としてのてるてる坊主【てるてるmome#6】」、および、下記の表2参照)。

 わたしの管見が及んだ「てり雛」の事例は6点。いずれも辞書に記されている事例です。6点のうち3点は、辞書の主なる項目として記載されています(表2の❶❷❸)。江戸時代と明治期の事例です。辞書の項目に採用されているほどなので、当時、「てり雛(照雛)」は日常語としてそこそこ浸透していたと考えてよさそうです。
 残る3点は大正期と昭和前期の事例。「てるてるばうず」(❹)「てりてりばうず」(❺)「テルテルボーズ」(❻)といった項目の説明文のなかに登場しています。いずれも、列挙されている別名のひとつとして触れられているに過ぎません。
 どうやら「てり雛」という語は、江戸時代・明治期と比べて大正期・昭和前期には、日常生活では疎遠となっていたようです。もとより江戸時代においても、確認できた「てり雛」の事例は1点(❶)のみ。前掲した図1と表1の「平面的なてるてる坊主」5点(①③④⑤⑧)ですら、「てり雛」と呼ばれている例は確認できません。江戸時代にはすでに、語尾に「法師」や「坊主」をつけた呼び名が主流でした。

8、おわりに

 本稿は、「祓のヒトガタ」の名残を求めて、かつてのてるてる坊主のありようを探った、試行錯誤の軌跡にとどまります。いま一度、てるてる坊主の姿かたちと呼び名に焦点を絞って、その傾向を整理しておきましょう。
 まず姿かたちをめぐって。江戸時代のてるてる坊主が描かれた8点の絵には、「平面的なてるてる坊主」(5点)と「立体的で着物を着たてるてる坊主」(3点)が併存していました。江戸時代に優勢だったのは、「祓のヒトガタ」の名残と推測される「平面的なてるてる坊主」です。しかし、この「平面的なてるてる坊主」は明治期になると姿を消します。
 次に呼び名をめぐって。「祓のヒトガタ」のような形代を雛形ともいうことに関連して、かつててるてる坊主は「てり雛」とも呼ばれた時代がありました。時代ごとに辞書のなかでの位置づけに注目することで、「てり雛」という語の盛衰を垣間見ることができました。
 すなわち、江戸時代から明治期にかけては、てるてる坊主の呼び名は語尾に「法師」や「坊主」の付くかたちがすでに主流でしたが、「てり雛」という呼び名もそこそこ聞かれたようです。しかしながら、大正期・昭和前期には「てり雛」という呼び名は稀になり、その後はすっかり使われないまま現在に至っています。
 「祓のヒトガタ」としてのてるてる坊主。その名残は、姿かたちの面では江戸時代まで、呼び名の面でも明治期までは窺うことができました。とりわけ呼び名の面に限れば、大正期を経て昭和前期に至るまで、名残をほんのかすかにとどめていたようです(★図4参照)。

 はたして、てるてる坊主の原初のかたちは「祓のヒトガタ」だったのでしょうか。解明すべき疑問が山積しています。たとえば姿かたちについては、平面的だったのが立体的になったのはなぜでしょうか。あるいは呼び名についても、「雛」でも「神」でもなく「法師」や「坊主」といった仏教的な名で呼ばれるようになったのはなぜでしょうか。今後の課題です。
 さらには、こうした姿かたちや呼び名とは別に、祈願の方法に関しても疑問が湧いてきます。「祓のヒトガタ」は流すものですが、てるてる坊主はいまもむかしも吊るします。
 そういえば、本来は「祓のヒトガタ」だったものの例として前掲したお雛さまも、飾っておいたり流したりするだけではありません。「つるし雛」とか「雛のつるし飾り」などと称して、雛飾りを吊るす風習が日本列島各地に散見されます。
 かつて「祓のヒトガタ」として流されていたと推測される雛飾りやてるてる坊主が、吊るされるようになったのはなぜでしょうか。とりわけ、江戸時代に見られた「平面的なてるてる坊主」は、5点のうち4点(図1および表1の①③④⑤)までもが逆さまに吊るされているのが特徴的でした。こうした祈願の方法をめぐる謎についても、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献

【全体に関わるもの】
・『日本大百科全書』5(第2版)、小学館、1984年
・宮田登「神と仏——民俗宗教の基本的理解——」(『日本民俗文化大系』第4巻 神と仏=民俗宗教の諸相=、小学館、1983年)

【図1と表1に関わるもの】(丸数字は図と表に対応。二重括弧内は原典にあたることができなかったための参照元)
①、菅江真澄『蝦夷喧辞弁』上、1789年 ≪菅江真澄〔著〕内田ハチ〔編〕『菅江真澄民俗図絵』上巻、岩崎美術社、1989年≫
②、式亭三馬〔著〕歌川豊国(3世)〔画〕『鬼児島名誉仇討』、西宮、1808年 ≪林美一〔校訂〕『鬼児島名誉仇討』(江戸戯作文庫)、河出書房新社、1985年≫
③④、尾上梅幸〔作〕歌川国貞〔画〕『皇国文字娘席書』、丸屋甚八、1826年
⑤、万亭応賀〔作〕静斉英一〔画〕『幼稚遊昔雛形』下巻、吉田屋文三郎、1844年 ≪尾原昭夫『日本わらべ歌全集』27 近世童謡童遊集、柳原書店、1991年≫
⑥、歌川国芳〔画〕「三海めでたいつゑ 十 天気にしたい」、1852年 ≪名古屋市博物館ほか〔編〕『挑む浮世絵 国芳から芳年へ』、中日新聞社、2019年≫
⑦、歌川国芳〔画〕『時世粧菊揃』まじなひがきく、19世紀半ば
⑧、岡本昆石『古今百風 吾妻余波』1編、森戸錫太郎、1879年

【表2に関わるもの】(丸数字は表に対応。二重カッコ内は原典に当たることができなかったための参照元)
❶、太田全斉〔編〕 『俚言集覧』 ≪村田了阿〔編〕井上頼国・近藤瓶城〔増補〕『俚言集覧』中巻 増補、皇典講究所印刷部、1899-1900年≫
❷、井上頼国 『国語漢文新辞典』、大倉書店、1905年
❸、井上頼国〔編〕 『国漢新辞典』、大倉書店、1911年
❹、上田万年・松井簡治 『大日本国語辞典』第3巻、金港堂書籍、1917年
❺、落合直文ほか 『言泉』、大倉書店、1927年
❻、下中弥三郎〔編〕 『大辞典』第18巻、平凡社、1936年

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