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聾学校時代

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幼稚部から中学部まで13年以上通った聾学校時代のNoteをまとめています。 ※マガジン分類は今後変わることがあります
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私には小学生に上がる前の記憶がほとんどない。驚きにあふれた世界で、子どもらしく生きること。

聾学校幼稚部の年長のときだったと思う。 教室の棚にセロテープがあった。セロテープの歯にそっと人差し指の腹を当ててひっかくと、うっすらと縦何本かのひっかき傷ができる。だが血は出ない。 これを「発見」した私は興奮した。この驚きを誰かに伝えたかった。近くに、1つ下の子がいたので呼び、喜び勇んで教えた。その子も、おおおと驚き、セロテープの前で、2人で興奮していた。 幼稚部にはホールがあって、ホールに3つの教室が面していた。教室への出入りには、ホールを通ることになる。 セロテープ「発

聾学校から一般高校への「インテグレーション」へ向けて、私は自身の葬列を歩いていた。行く先にある冷たく暗い何かを大いなる楽観で覆い隠そうとしていた。

聾学校など障害児に特化した教育を行う学校ではなく一般学校で、障害児・生徒が教育を受けることは「インテグレーション」あるいは「統合教育」と呼ばれた。当時、インクルーシブという言葉はまだなかった。 今でこそ、聾学校中学部から一般高校に進学する事例は珍しくないが、私が聾学校にいた当時はとても珍しいことであった。 珍しかったのは、大きくは以下2点の理由によるだろう。 第一に、そンテグレーションの時期だ。 インテグレーションするのは、小学校にあがるタイミングあるいは、小学校低学年で

耳の聴こえない子どもたちは、発音の正しさきれいさを測るテストを受けた。それはつかみどころがない「見えざる神のものさし」だった。

聾学校小学部には、毎年、発音テストがあった。年間行事予定表に書かれている「学校行事」であった。中学部にあがってからは発音テストはやっていないので、もともと中学部はやらない方針だったのか、中学部にあがるタイミングで中止されたのかは、わからない。 発音テストは、1人の出題者と4人の検査者で行われた。出題者も検査者もすべて先生である。被検者の児童は、1人ずつ教室に入り、1人の出題者である先生と向き合って座る。残りの生徒は、教室外の廊下で椅子に座って待機する。 その2人を背にして、

かつて聞いたことのない声を発音する難しさ。私は「うがい」が嫌い。

わたしは苦手な発音がたくさんある。とくにカ行を苦手としていて、これは幼少のころから周囲に何度も指摘されていたのだけれど、何度訓練をしてもできなかった。 カ行の発音訓練では、必ずといっていいほど、うがいをする。うがいをするときの舌の動きがカ行と同じらしいのだが、私には未だによくわかっていない。 私はうがいが嫌いだ。うがいを何度もやって、うがいの途中に水を飲みこんでしまい、むせたことも数えきれない。うがいをしているのか発音練習をしているのか分からなくなり「正しい」うがいができな

もっと早く手話と出会っていたら。聾学校は手話からあまりにも遠い世界だった。

今、私は一日のすべてを手話で過ごしている。職場で同僚との会話は手話。家では、夫や子供たちとの話は手話。友達との会話も手話。手話ができない人たちとは、筆談をする。 だが、私は高校を卒業するまで手話ができなかった。聾学校を幼稚部小学部中学部までと13年間過ごしたが、中学卒業の時点で、私が知っている手話といえば、1~10までの数字、「男」「女」「嘘」「でたらめ」くらいしかなかった。 その後入った高校は、聾学校高等部ではなく、一般の高校。聞こえない生徒は私1人。3年後の高校卒業時に

私は、スイカ割りの「ルール」を知らなかった。聾学校でありながら、聴こえる人のゲームルールが行き渡っていた。

聾学校の行事に海水浴があった。2時間ほどバスに揺られて海へ向かう。 参加する子どもは幼稚部から小学部低学年ぐらいまでの学校行事だったと思う。 海水浴では、スイカ割りがあった。 スイカ割りとは、スイカまでの距離を目測ではかり、目当ての方向へ、目をつぶったまま目的地まで移動する。そういう勘を競うものだと私は思っていた。 スイカ割りを私もやった。目隠しをした私は、前もって見積もっていたとおり歩数を数えながらできるだけまっすぐ進んだ。そしてここぞと思うところで、棒を振り下ろした。

聴こえない子どもと聴こえる親の間で。私たち姉妹は、互いを半身のように密着して生きてきた。

わたしには3歳下の妹がいる。私と同じく耳が聴こえない。 兄という存在に憧れていた私は、自分が兄をもつことは難しいからそれなら弟だ、と思って、母に、弟がほしいと言った。小学校高学年あたりの頃だ。 母は「また聴こえない子が生まれたらどうするの!」と言った。その話はそれきりになった。 私はそれを言われたとき、戸惑った。男か女かどちらが生まれるかわからない、と言われるかもしれないとは思っていたが、聴こえるか聴こえないかを言われるとは予想していなかったからだ。 聾学校には、私たち

聾学校で、私たちは子どもらしく遊んだ。「熱心に」「一生懸命」といった言葉をふりかざす先生と私たちは、どこかかみ合っていなかった。

聾学校の先生たちは様々な方法で、私たちに日本語を叩き込もうとした。 N先生は、教室内にワイヤーを張り、そこに、厚紙に短文を書いたものをぶら下げた。ぶら下がっていた短冊には、太いマジックで1文ずつ短文が書かれていた。短文とは、慣用句やことわざ、言い回しの例文などであった。長さがばらばらなそれらの短冊は、その頭が少し折られ、ホチキスか何かでワイヤーに停められ吊るされていた。 机に座る児童たちが後ろを向き、ちょっと上に目をやれば、短冊がずらりと並んでいる形であった。さながら物干しざ

私は、自身の本の世界を聾学校に持ち込まなかった。読書感想文コンクールについても同様で私は、聾学校図書室にあっただけの本について書いた。

聾学校小学部と中学部合同の行事として、毎年、読書感想文コンクールがあった。入選は小学部中学部の生徒全体で、1,2人、佳作は5人ぐらいだったかもしれない。小学部と中学部で、入賞を分ける基準があったのかどうかは分からない。 私は小1、小2のとき、2年間続けて「入選」した。 当たり前だ。母と二人羽織で書いていたのだから。そのことに、私は違和感は持たなかった。その前の聾学校幼稚部時代では、毎日日記を暗唱したが、その文章のベースは、母が書いたものであった。読書感想文を母と一緒に書くこ

一般高校がたとえ暗いトンネルであっても、聾学校に戻るつもりはなかった。一般高校でも聾学校でも、私にはさして代わり映えしないと思っていた。

聾学校小学部5年生のときだったか、教室にいた私に同級生2人が近づいてきた。2人はにやにやしながら「この手話、何かわかる?」と、手の形を提示してきた。それは五十音のどれかを表しているものだという。 「指文字」というのだそうだ。当時の私には「手真似」も「手話」も「指文字」も区別がつかず同じものであった。同級生が出してきた手を、ためつすがめつ眺めてみた。私は全く分からなかった。あてずっぽうに、「の?」などと答えてみた。 ブー!!違う!!と笑いながら言われた。問題は5問出た。私はその

卒業式は見事に規律がとれた軍隊演習のようであった。それでいながら、私の卒業式答辞を誰も「聞いて」いなかった。

私の聾学校卒業式は、幼稚部小学部中学部でまとめて1つの卒業式であった。体育館舞台を前にして、右側前方から幼稚部、小1,2,3と学年ごとに横一列に並んで座った。左側には、中学部の在校生が横一列に、前から学年の若い順に座った。そして、舞台に向かって正面あたりには、右側から縦一列に、幼稚部年長、小学6年、中学3年が座る3つの列ができた。 卒業式の流れとしては、幼稚部、小学部、中学部それぞれに送辞答辞がある三部構成で進む。卒業生は、幼稚部、小学部、中学部ごとに舞台にあがった。そして

私たち聞こえない子どもだけでなく、聞こえる大人たちもまた、分かったふりをすることがあるのだと気づいた。それは、発音の悪い子への気遣いなのだろうと思った。

聾学校小学部3年か4年のとき、隣の小学校の学芸会を見学しにいった。 引率のS先生と一緒に、薄暗い体育館のなかへ足音を忍ばせて入った。体育館は、聾学校の何倍ものの広さだった。遠くにみえる体育館ステージの舞台では、器楽の演奏をしているところだった。私たちはS先生と一緒に、舞台から離れたところの床にそっと座った。私は文字通り器楽の演奏を「見ていた」。数分ほどは見ていただろうか。私は少し飽きてきた。舞台以外の体育館の設備を見回したり、演奏に聞き入るS先生の横顔を見つめたりした。あちこ

聾学校にやってきた人形劇団は、字幕も手話もなしに、人形を操った。人形劇を見る私たちも、「人形」さながらに、鑑賞した。

聾学校にいたとき、何か演劇を文化会館まで見に行ったことがあった。何かチャリティー企画の観劇に招待されたのだと思う。 聾学校の友達のみんなと文化会館に行き、座って見た。どういう内容だったのか全く覚えていない。1~2時間、私たちは座って見た。字幕もない。私はただボーっと見つめた。確か夜の上演で、劇が終わったときは21時を過ぎていた。文化会館を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。夜の時間帯に、学校の友達と外に出ていることがなんだか楽しかった。 聾学校に人形劇団がやってくること

私は、聴こえる聴こえないを全く意識することなく遊んだ。子どもだけが持ちうる強さの世界に、私はいた。

小学1年生になった私は、放課後遊ぶ自由を得た。 学校が終わると、校庭に駆けて行った。 聾学校には、家が遠方で通えない等の児童生徒もいて、彼らたちは寄宿舎に入っていた。寄宿舎で寝泊まりをし、毎日聾学校まで通っていた。私たちのクラスは全員が通学生だった。ただ、みな家が別方向に離れていたので、学校で遊んでから帰宅するのがお互いに都合がよかった。バス通学をしているクラスメイトのバス時間まで、校庭で遊んだ。時には、バスを1本見送って、終了時刻を延長して遊んだ。 聾学校から帰宅すると