『翠』 29
翌日、忘年会の件を矢代さんに伝えようと、バックヤードで品出しの準備をしている矢代さんに声をかけた。
「あ、あの……、すみません」
そう背後から近づくと、「あー、もうびっくりした〜! もう、ちょっと、急に後ろから話しかけないでよ〜。心臓に悪いでしょ〜」と、一瞬、怪訝な表情を浮かべてから、ほんとに心臓が止まったような顔をする。
「あ、ごめんなさい……」
とっさに彼女に謝り、本題を切り出そうとすると、
「で、何?」と、彼女のほうから、ぶっきらぼうに訊いてくる。
「あ、えっと、ぼ、忘年会の件なんですけど……」と、改めて切り出すと、
「あーー! 参加してくれるの?」
と、こちらから結論を言う前に、先読みして訊いてくる。
「あ、いや、そのことなんですけど……」
「え? 何? ダメだったの?」
がっかりしたような表情を浮かべる彼女に、
「あ、いえ、そうじゃなくて……」と、すぐに訂正すると、
「え? だったら何?」
急に真顔にもどる。
「あ、いや、その……、なんとか忘年会は参加できそうなんですけど、その、二次会は行けそうもなくて、それで……」
「あー、なんだ! あー、いいのいいの。とりあえず、忘年会にだけでも参加してくれるなら。まー、店長はグダグダうるさいだろうけどね……」
そう言って、ため息交じりに呆れた顔をする。
「にしても、大丈夫だったわけ?」
「え? 何がですか?」
「いや、ほら、旦那さんよ。旦那さん。事前に麻倉さんの旦那さんが、厳しい人って聞いてるから、正直、麻倉さんの参加は半分あきらめてたのよね……」
「あー、そのことですか……。いや、わたしも無理かなって思ってたんですけど、なぜか忘年会の参加は許可をもらえたのはいいんですけど、遅く帰ってくるなって、先に釘を刺されまして……」
「あー、やっぱ? まあ、仕方ないよね……。麻倉さんは家も遠いし、九時に一次会が終わっても、家に帰りつくのは、一〇時すぎるでしょ? あ、えっと、どこだっけ? 住んでる場所? 千葉の奥のほうだっけ?」
「あ、そうなんですよ……。ド田舎で働く場所も禄になくて……」
具体的な地名は明かさず、言葉を濁した。
ヘンに詮索もされたくなかったし、角が立つのも避けたかったので〝あすみが丘〟という住所は、面接時に、ほかのパートさんたちには、伏せておいてもらえるように、念のために口止めしておいた。恐らく知ってるのは、ごく一部の社員だけで、誰かが口を滑らしてなければ、パートの人たちは誰も知らないはずだ。
「どんなド田舎に住んでんのよwww まあ、いいわ。私は品出しがあるから、ちょっと行ってくるわね……」
そういって、店内へと続く扉のほうへと去っていく。
出勤準備を済ませようと、ロッカールームに向かおうとすると、
「あ、そうだ!」と、思い出したように彼女が立ち止まり、その声に驚いてふり返ると、
「なんか、この間は、色々ごめんね!」
と、急に彼女が謝ってくる。
何のことだか判らず、こちらがきょとんとしたまま突っ立っていると、
「ほら、忘年会こと! 無理なお願いしちゃったから!」
と、さらにつけ足してくる。
「あー、いえ!」
そう会釈を返すと、矢代さんは満足したような表情を浮かべ、そのまま扉を潜っていく。
彼女の転がす品出し用のカートの音だけが、やけの大きくバックヤードに響いていた。
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