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『翠』 22

 もっと話をしていれば良かったのか。

 さっき義娘に言われた一言が妙に気になり、何をしていても、ついぼんやりとしてしまう。テレビは点いているはずなのに、そこから流れてくる音が、まるで水のなかにでもいるかのように、なぜか籠もった音で聞こえてくる。

 酔い潰れた旦那を背に流れるテレビ画面には、女性のニュースキャスターが無機質なトーンで、ウクライナの紛争を伝えていた。死者が何名だとか、重傷者がどれくらいだとか、爆撃された地域はどこどこだとか、倒壊した建物の映像をバックに、聞きなじみのない都市の名前や紛争地域の現状を、まるで他人事のように語っている。それがある意味、彼らにとっての、プロ意識から来るものなのだろうが、その必要以上に事務的な伝えられる、平然とした語り口のせいで、どうしても現実味というものが失われてしまい、同じ世界で起こっていることのように思えてこない。

 結局、あのあと義娘はすぐには降りて来なかった。旦那と二人で夕食を済ませ、とくに話すこともなかったので、淡々と目の前にあるものを口のなかに掻き込んだ。何かしら味の感想くらい言われるのかと、べつに期待していたわけではないにしても、話題作りのきっかけくらいにはなるのではないかと思っていたが、あの人にそんなことを、少しでも期待したのが、そもそもの間違いだったようで、いい大人が二人して、無言のまま食事をしただけだった。最早、あれは食事ではなく、ただ、カロリーを摂取しただけの、空腹を満たすための行為に過ぎない。気の合わない人と一緒に食事をすることほど、この世に無価値で愚かな行いはない。ただの拷問であり、お互いに得をしない、もっとも低俗な共同作業。そう、まさに〝修羅場〟。

 ソファーで鼾を掻いて寝ている旦那に、そっと毛布をかけ、部屋の明かりを消す。寝ているときは間接照明を点けたまま寝る彼のために、念のためにキッチンの照明だけは点けておくことにした。いや〝ために〟と言ったが、防衛本能から、そうしただけで、べつに旦那のためになど、微塵も思ってない。

 毛布をかけてあげたことに関しても、なにも優しさからかけてあげたわけではないし、間接照明を点けておいたのも、もちろん親切心からしたことではない。ただの自己防衛本能で、怒られないためにやっただけのこと。朝になって、「なんで起こさなかったんだ!」とか、「毛布くらい掛けろよ! 俺が風邪ひいて仕事行けなくなったら、だれが責任とるんだよ! 君が稼いで来るのか?」など、そんな罵声を浴びせられないために、そうしただけのことで、べつに優しさや親切心からしたわけではない。

 ただ、わざわざ起こしてまで、「なんで、気持ちよく寝てたのに起こしたんだよ! 頼んでもないのに、勝手に起こすなよ!」と、文句を言われる可能性もあるので、どちらにしても相手の逆鱗に触れてまで、こちらとしても起こしたくもないし、同じ怒られるなら、起こさないで怒られるほうがずっとマシだ。わざわざ怒られるために何かをするなんて、ナンセンスなことはしたくもない。

 旦那を起こさずに二階に上がると、陽菜の部屋のドアの隙間から、明かりが漏れていることに気づいた。旦那が寝静まってから、食事に降りてきたのが三〇分くらい前のことで、ふだん夜型の生活をしていることもあり、まだ寝ているわけではないとは思うが、聞き耳を立ててはみたが、とくに部屋のなかから物音はしなかった。いつもならネットの友だちとチャットでもしているのか、パソコンのキーボードを打つ打鍵音が、ドア越しに聞こえてくるのだが、今日はそれもなかった。さっきの一言が妙に気になり、声をかけてみたい気持ちはあったが、その勇気がなくて、その前を素通りして寝室へと向かった。

 あらかじめリビングのエアコンの温度は調整しているので、酔い潰れてソファーで寝ている旦那が風邪をひくことはないだろう。一昨日のことのように理不尽な理由で、旦那から下手にとばっちりも受けたくもない。

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