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『翠』 21

 母の家は道玄坂に面した渋谷の一等地にあり、通りに面したベランダからは、道路を行き交う車の往来がよく見下ろせる。渋谷の中心部でもある立地上、決して眺めが良いわけではないが、私としてはここからの眺めが嫌いではない。目の前にそびえ立つビル群、圧迫感のある都心の喧噪、街に漂う醜悪な雰囲気、欲に塗れた人と人が織りなず人間模様や金に溺れた人間の浅ましさみたいな空気感を、こうして見下ろしていると、一瞬ではあるが、自分の今まで抱えていた劣等感が馬鹿馬鹿しく思えてきて、少しだけではあるが、気が楽になるのだ。

「今日は陽菜の好きな〝からあげ〟作ったから〜!」

 そう声をかけられ、一瞬、我に返り、とっさにふり返る。

 背後には母親が立っており、

「ほら、一緒にご飯食べよ……」と、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 私は、「うん……」と短く返事をし、母のあとに続いた。

 リビングを抜けた先の食卓には、すでに〝からあげ〟の盛られた皿が並べられており、今日のために母が腕を振るってくれたのだろう、二人ではとうてい食べきれないほどの料理が、テーブルいっぱいに敷き詰められているのが見えた。

 そして、翠さんには悪いのかもしれないが、正直、私はとくべつ〝肉じゃが〟が好きなわけではない。いつ頃だったか、最初に彼女が肉じゃがを作ってくれたときに、「どう、美味しい?」と訊かれ、思わず、「うん、すごく美味しいよ!」と、大げさにわたしが答えてしまったせいで、彼女を勘違いさせてしまっており、そのことを言い出せずに、そのままになっている。

 母に促されるまま、食卓のテーブルに着くと、

「それで? 向こうの生活はどうなの?」と、席に着くなり母が訊いてくる。

「どうって?」

 どこか含みのある彼女の質問に、たぶらかすようにそう答え、相手の出方を窺ってみる。

「どうって……、まあ、深い意味はないけど、楽しい?」

「ん〜、べつに楽しくないけど……」

「楽しくないって?」

「そのままの意味だよ……」

「そのままの意味、ね……。ふーん……」

 意味深な彼女の反応に、

「何? なんか、言いた気な反応だね……?」と、突っ込んだ言い方で切り返してみた。

「いや、べつに、そういうつもりで言ったわけじゃないけどさぁ〜……。なんだっけ? 翠さん? その人まだ居るんでしょ?」

 母の質問には答えず〝からあげ〟を一つ頬張ってから、

「うん。居るっていうか、ふつうに居るけど、それがどうしたの?」

 と、口をモゴモゴさせながら答える。

「いや、なんていうか……、上手くやってんのかなって?」

「あー……。まあ一応……?」

「一応ってなによ!」

 私の微妙な反応に、母が笑いながら食ってかかるような言い方をする。

 何かを察したのか、とつぜん真顔になったかと思おうと、

「ほら、あの人って、仕事のこと以外のこと、どうでも良いっていうか、なにも考えてないところがでしょ? なんていうかなぁ〜? 相手の気持ちとか考え? そういうのを全然見えてないっていうか、自分の都合で全部考えてて、それを相手に押しつけようとしてくるっていうの? ん〜、上手く言えないけど、翠さんは、そういうの大丈夫なのかな? って思って……」

 と、詮索でもするように、わたしの顔色を窺ってくる。

 なんと答えていいのか判らず、さっき頬張った〝からあげ〟を飲み込みながら、とりあえず、「うん……」と短く返事をし、黙っていると、自分の顔に、「で?」とでも書いてあったのか、空気を読んで、その先の話をはじめる。

「まあ、べつにね……。それを悪いって言ってるわけじゃないのよ。たださ〜、私には受け入れられなかったっていうか、ほら、私って束縛されるの嫌いなタイプでしょ? だから、なんていうかな? 価値観の違いっていうの? 彼とは根本的に生きてる世界が違うっていうか、この人と一緒に生活をしちゃいけないんだなって、思っちゃったのよね……。あるとき不意にプツッと糸が切れるみたいに……、この人には何を言っても伝わらないし、相手の気持ちを理解しようなんていう考えは、そもそも無いんだろうな〜って……。なんか、そう思ったら、この人と生活してること自体が、急にバカバカしく思えてきて、陽菜には悪いと思ったけど、『あぁ、この家を出よう……』って思っちゃったんだよね〜。もちろん、身勝手なことをしてるって自覚は感じてたし、陽菜を置き去りにすることに対しての罪悪感もあったんだけど、あのときは、それ以上に、自分の気持ちが保てなかった……。まあ、だからって、今さら、何を言っても言い訳にしかならないし、陽菜にはそんな大人の事情とか関係ないことなんだけどね……」

「そんなことないよ……」

「お母さんもよく頑張ったと思うよ……」

「私は大丈夫だから、心配しないで……」。

 どの言葉の安っぽく思えて、何も答えられなかった。そう語る母の顔を見つめていることしかできなかった。相づちを打ってあげればよかったのか、それとも、何かしらの返事をしてあげれば良かったのか、母の作ってくれた〝からあげ〟の味を噛みしめながら、ただ、母の発する言葉に耳を傾けていた。

 ほんのりとニンニクとみりんの効いた〝醤油味のからあげ〟のなかには、まるで「いつでも私のところに来ていいのよ……」とでも言われているような、そんな愛情が微かに感じられ、あえて難しく言葉にしなくても、彼女の言いたいことは、なんとなく伝わってきた。

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