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泣きながらご飯を食べた事があるひとは生きていけます

生きることは食べること。
食べることは生きること。



こないだの未遂騒動からしばらく、わたしは何も口にできなかった。何を食べても戻してしまうし、食べることに全然前向きになれなかった。だって、食べたら生きてしまうもの。

3日ぶりに口にしたのは、あたたかいうどんだった。わたしは讃岐のにんげんで、うどん県と呼ばれる地で生まれた生粋のうどん好きだ。そんなわたしがうどんですら食べられなかった3日、まるで天変地異の前触れだったと思う。スーパーの茹でうどんなんてうどんじゃない!!!コシのないうどんは死んでくれ!!!という、うどん過激派のわたしだけど、久しぶりに口にしたのはスーパーの茹でうどんだった。

凝ったスープを作る気力もなく、ほんだしと味の素、めんつゆを適当にまぜて沸騰させただけのつゆ。うどんをぶち込んでもやしだけ入れた、まるで大学時代の一人暮らし。そんなうどんを鍋のままテーブルに置く。湯気で曇るメガネ、肌寒くなった季節をあたためる温度。スープは黄金色に光って、美味しく香ばしい匂い。お腹がぐうっと鳴って、こんな時でもどうやらお腹は正直者だ。

ちゅる、と一口。戻してしまうかも、食べられないかも、と思った。でも、コシのなさが喉にやさしく通って、つゆはあたたかくお腹に溜まった。「ふふ」とひと息、笑ってしまった。だって、美味しかったから。茹でうどんごめん、お前、意外とやるじゃん。

そのあとは息をつく暇もなく食べた、食べた。いつのまにか両の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていて。

「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます」

ドラマ・カルテットのセリフが頭の中でリフレイン。わたしはまだ、生きていけるのだな、と思った。



instagramでも文字を綴っているわたしを、好きだと言ってくれるフォロワーさんたちがいくらかいる。彼らはわたしのことを心配してくれ、なにかと世話を焼いてくれるやさしいひとたちだ。

そんなフォロワーさんたちから、最近、モノが届くことが増えた。といっても、わたしがほしい物リストなどを公開してるわけではない。フォロワーさんが作った食べ物や、もらった果物などを送ってくださるのだ。みんな一様に言う、「食べて。」と。最初は怖かった。知らないひとからもらうものが怖かったのではない、"食べる"ことが怖かった。

食べることは生きること、そう知っているから、愛のある食べ物をもらってしまうのが怖かった。愛を無駄にしてしまわないか、愛をきちんと栄養にできるのか。考えすきだと夫には笑われたけれど、わたしはそれくらい、真剣に向き合っていた。

だから、怖かった。

初めて届いたのは、カレーのスパイスだった。ヨガの先生から送られてきた、お手製のスパイスはなんともいえないいい香りで、エビを粉末状にしたものや調合したスパイスなんかがあって、ほんとうに素敵だった。スパイスカレーを作りたい夏なのだ!と呟いていたわたしに送ってくださった、愛のあるスパイスは、わたしのこころを暖めてくれる魔法のスパイスだ。

最近送られてきたのは、徳島のメガネ屋さんから、地のもののすだち。たくさん入った袋いっぱいのすだちは、フレッシュな香りを部屋に届けてくれた。切ってみると瑞々しく、したたる滴がきらめいて、夏の終わりを色づけてくれる。舌に乗せると嬉しくなるほど酸っぱくて、香り高い。

まずはうどんにのせて、すだちうどん。うどんを囲むようにのせた、インスタで見たようなすだちうどんは美しくて、なんだか料理上手になった気分。切ってのせただけなんだけど。茹でた豚しゃぶものせて、お店気分だ。「まだたべないでー!」と夫に叫びながら、パシャパシャと珍しく何枚も撮る。

そして一口。すだちの香りが広がって、味わい深いつゆになる。美味しい!と思わず夫と口を揃えて呟いて、それがおかしくて笑い合う。ふたりでただ、「美味しいね」「美味しいね」というだけの、それだけの晩ごはん。なによりも格別な時間だ。

それからも、まいたけの天ぷらにかけたり、豆腐やもずくにかけたり。たくさんすだちを味わった。わたしを想って送ってくれた、その気持ちとともに、わたしのからだに吸収される。愛という栄養は、しっかりわたしのつま先まで行き渡った。



わたしは今日もソファで寝込んでは、こうして文字を綴っている。少しずつ食べられるようになってはきたものの、なかなか食べたいものが浮かばない毎日。ともすれば、同じものしか食べないわたしの色づかない食事。夫はさぞ、困り果ててることだろう。

そんなことを考えながら、紅茶を淹れた。あたたかいダージリン。そういえば、これも義妹からいただいたのだったな、と思い出して微笑む。こうして家を見渡してみると、ひとからもらったものがたくさんあることに気づく。出汁パックは親友からもらったもの、インスタントのスープは父親から、お米はおじいちゃんのお手製。

ああ、気づけばわたしのからだは、愛でできていたんだな。

そう気づいたら、また涙が少しこぼれ落ちる。涙腺が緩くなって駄目だね、歳をとると。なんて大人の風を吹かしてみても、やっぱりこの愛の大きさに、心は震える。みんなが、わたしに生きて欲しい、と言っているみたいで。それが食べることなのだとしたら、わたしはもう、ずっと前から世界に愛されていたのだ。

おにぎりを食べながら泣く千尋、カツ丼を食べながら泣く満島ひかり、煮物を食べながら泣くサマーウォーズ。

みんな、みんな。食べることは、愛を知ること、感じることだと知ったから、きっと泣いていたのだと、そう思った。



最近読んで、感動した言葉がある。味噌汁だけでおかずはええんです、と微笑むので有名な土井善晴さんの言葉だ。

「作ることは愛しているということ。食べることは愛されているということ。」

食べることに罪悪感を感じていた日々に、愛されているとただ感じることを許された気がして、わたしはほんとうに嬉しかった。まだご飯を作ることはできないけれど、愛しい誰かにご飯を作りたいと、素直に思った。

いつか、わたしとご飯を食べてください。わたしが作ってもいいし、あなたが作ってもいい。宅配のピザでもいいよ、ただ一緒にご飯を食べよう。そして、美味しいね、と笑い合おう。それだけで、わたしたちは生きていけるよ、きっと。

辛い毎日に、喉も通らない毎日に。わたしはあなたを想って、あなたに愛されてると知るために食べるから。あなたもわたしからの愛を感じて、食べてほしい。

食べることは生きること。
生きることは食べること。

生きていこうね、ご飯の約束をしようね。

わたしは紅茶に、転がっていたすだちを少し絞っていれてみたよ。フルーツティーみたいですごく美味しくて、そんな発見で心が躍ったよ。

あなたの心にもひとしずく、わたしの愛をたらすから。あなたが今日も、なにか食べられますように。

祈るように、ただ今日も言う。

いただきます、と。

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