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犬のフンに埋められた英貨と、トー横の話

ようやく卒論を出し終わり、しばらくゆっくりブライトンで過ごしているバッハです。先日日本にいる大学時代の友人たちと電話で話をしたときに、一人の友人がこんなことを言いました。「この前トー横に行ってきたんだけどさ、いわゆるトー横キッズはおそらく検挙でほとんどいなくなっていて。でもその代わり、大人たちがいたんだよ。何をしているのかもわからない、というか何をするでもなく、ふらふらその場に浮遊して、小汚い格好でさ」。「それってホームレスの人たちってことじゃないの?」と聞くと、「それが違うんだよね。何なんだろうなあの人たち。怖かったよ。家族でいたりして。『何者かわからざる者たち』っていうの?」。

みなさんをこれを聞いて、へぇ〜そうなんだ、と思いますか?私は、なんて冷たいことを言うのだろう……とショックでした。ほんの少しだけでも想像力を働かせようと思わなかったのかな。その人たちが社会のメイン街道からマージナライズ(周縁に追いやられること)されて、職を失っているのかもしれない、ギャンブルやアルコール中毒なのかもしれない。とにかく貧しくて、明日の食事にも困って、要は身寄りが定まらない人たちだっていうことに。彼らがそうなってしまった背景や社会を、少しでも考えようとしなかったんだろうか。そもそも「何者かわからないから怖い」という弾き出し方は典型的な差別の形だし、「自分は彼らの背景なんて知りたくも知る気もない」という選民思想に基づく宣言でもある。でもその友人は映画監督を目指していたんですよ。映画に携わりたいと思っているのに、「何者かわからざる者たち」と切り捨てる。そういう声なき人々の声を掬い取ったり、人々の背景を想像したりして、物語として提示するのが映画の役割ではないのでしょうか。でも一緒に聞いていた友人はそれに対して特に何も思っていないようだし、私が過敏なだけなのかもしれないな。それでも彼のことは人間として好きなので、もやもやしたまま終わらせたくなくて、少し反論はしてみたのですが。

さてそのトー横周辺の話があった次の日に、ブライトンの家の周りを友人と散歩していたんです。そうしたら道端に犬のフンが落ちていたんですね。すると友人がそれを見て怒り出したんです。私は通り過ぎようとしたところ、「バッハ!ちょっとこれを見てよ!」と。「何?」と引き返すと、そのフンに英ポンドが3枚埋め込まれていたんです。1ポンドは¥180です。結構な額ですよね。「What's wrong with these people!?」と怒り心頭です。最初は意味がわからなくて、「なんでそんなに怒ってるの?」と彼に聞くと、こういうことでした。「これはつまりイカゲームなんだよ。このコインを埋め込んだ人物は安全な立場から、ホームレスの人々にゲームを課してる。この金が欲しいなら、取ってみろよ、と。明日の食事のために、お前はどれだけDehumanised(非人間化)になれるかって」。なるほど……正直、思いもよりませんでした。

これにはイギリス社会を知ることが理解の助けになります。まずこちらでは、電車や路上で物乞いの人たちからお金をめぐむよう話しかけられる機会は日常で、でもほとんどの人は無視せず「ごめんなさい今小銭がないの」と丁重に断ったり、ときにはいくらか渡したりと対応します。次に、イギリスは日本以上にくっきりとした階級分断があるということ。最後に過去に旧首相のボリス・ジョンソン(アッパークラス出身)がオックスフォード在学中に友人たちと、ホームレスの人々の目の前でお札を燃やすという遊びに従事していたという話が出回ったこと(本人はその後否定)。その背景を知った上で犬のフンに埋められたコインを見れば、それは誰かが故意に、「金のためにどこまで堕ちぶれるか」という挑発的なゲームを自分より階級が低い人に対して課したという想像ができるわけです。その友人はあまりの非人道的なその行為に、怒りでわなわなと震えていました。メタファーではなく文字通りの震え。私もじわじわと、そんなことをする人が近所に住んでいることが悲しく恐ろしくなり、体にドロドロとした感情の塊がしばらく宿って消えませんでした。

そのトー横話の次の日にこの事件が起きたものだから、その二人の友人の想像力のギャップがあまりにも大きく。けれど自分がもしブライトンに来てさまざまな背景の人と交流し、マイノリティになる経験(恵まれた立場といはいえ)をし、貧困についての社会問題を学ばなければ、前者の友人の意見に疑問を持つことができただろうか?ただなんとなく終わりにしていたのではないだろうか、としばらく反芻。ただでさえ恥ずかしながら後者の友人の想像には及ばなかったのです。この経験から私がしなければいけないことは明らかで、「もうあなたとは意見が合わないのでさようなら」ではなくて、じゃあなぜ友人はそういう発想に至ったのか、と想像してみることなのでしょう。他者を「知る」こと「想像する」ことはこうやって共感の幅を広げていくことだから、痛みはどんどん増していく。それでもこの想像力を失ってはならないと思うのです。

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