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2024年1月31日 正しい人


よくいくジムのマシーンのピンがなくなります。
ジムに行ったことがある人なら、きっと思い浮かべることができるあの、ピンです。
ジムには筋トレをする機械が置いてあるのですが、
多くの場合、機械の重りを使用者の任意で変更することができます。
重りには、穴が開いていて、そこに金属製の棒を差し込んで、
重りを調整するのです。
行っているジムは初心者向けのジムですから、重りは5キロ刻みになっています。
金属製の棒、ピンには金属のキャップのようなものがついており、
そのキャップにコードか紐がついています。

そのピンが頻繁になくなるのです。
ピンが頻繁になくなると言うことは、重りを変更できなくなると言うことです。
真剣に筋肉をつけようとしているわけではなく
健康維持のために通っているので、あまり気にしていませんでしたが
それにしても多すぎます。

あんな金属のピンがどうして頻繁になくなるのだろう、ととても不思議に思います。
直径0、5センチ位、長さ15センチほどの金属の棒です。
他の用途に使えるわけでもなく、ただの棒、特別、価値がありそうなものではありません。
どこかに転がっているのだろうかと、
機械の周囲を見回してみましたが、見つかりませんでした。
ジムに通うとこういう「いったい何がどうしてそうなった?」と思うことがよく起きています。

ロッカーの上に、半分飲んだ水のボトルが置いてあるのはいいとしても
今にもかけるようとする半開きでメガネが2週間置いてあるとか
くしゃくしゃに丸めたカーディガンが3週間くらい置いてあるとか
お菓子のゴミが捨てられているとか
重りとピンを繋ぐコードが、昔の電話本体と受話器を繋ぐクルクルとしたコードから
刺繍糸のようなものに変わって
最終的には、無くなってしまっているとか
大きな事件の跡ではないけれど、
何かが起きたのだろうという痕跡が残されています。

自分がジムで運動をしている間は
いつも静かで、店内放送と機械が動く音くらいしかしないので
いつ、そういう出来事が起こっているのだろうと言うのが気になります。
気づいていないだけで、
自分のいる間にもそう言うことが起きているのだろうかと思い返してみるのですが、
機械のピンが宙を飛んだり、
コードがひきちぎられたり、
お菓子をもりもり食べている人を見かけたりと言うことはないのです。
午前中、午後、夕方と時間を変えて行っていますが、
深夜遅くに行ってみたことはありません。
もしかすると、深夜遅く、もしくは早朝には知っているジムの店内とは違う様子の可能性もあります。

こう言う時、自分が知っている世界はほんの一部で
世界のほとんどのことを全くわかっていないのだということを
身に染みます。
大人になって仕事を始めてしばらく経つため
何となく、ある程度のことはわかっているような気になっていますが、
結局のところ一個人にわかる、知ることができる世界というのは
ほんの一部なのだと思います。
自分の考えの範疇では全く考えもつかないような出来事が
この世界では、毎分、もしかすると、毎秒起こっているのです。
そして自分がそこに出くわさない限り
それがどう言うものかを知りうることはないということも多いでしょう。
また、自分がその出来事に出くわしたところで、
その出来事の意味や経緯が全てわかるわけではないはずです。
子どもの頃、自分が知らない世界の大きさ、広さ、深さに畏怖を覚えて
眠りに落ちられなくなったことがありますが、
別に今だって、それは変わらないのだ、とジムのピンのことを考えて
感じました。
あのピンがどうしてなくなったのか、
その経緯を推理することもできないし、
もし無くなった場に居合わせても、それに気づいてすらいないのかもしれません。

こう言うことを考えていくと
昨今、不祥事が取り沙汰されるひとの数名がやっていたコメンテーターという役割の恐ろしさを感じます。
世界のほとんどのことを知らないかもしれないのに、
もしくは知ってもわからないかもしれないのに、
コメントをするという役割のなんたる無理のあることでしょう。
生身の人間がするのにはあまりに恐れ多い役割である気がします。
例えば自らの専門分野でコメントを出すコメンテーターならまだ機能しそうですが
芸能から事件、世界情勢から政治、経済からスポーツ、ありとあらゆることに対してのコメンテーターというのは存在し得ない気がします。
それでも、「知らない」とか「わからない」「理解できない」とはいえないでしょうから、「正しい」だろうと思う言動をすることになるのでしょう。
「正しい」ということには、特別な魔力があるような気がします。「正しい」振る舞い、「正しい」言葉、「正しい」批判というものは、続けていくうちにその「正しさ」が自分そのものであるような錯覚を起こさせるものだということです。「正しさ」はあまりにも過剰だと、生身の人間を酩酊させるように思います。「正しさ」に酔った人間は、自分がした行為は「正しい」「間違いがない」と思い込みやすくなる気がします。
「正しい」ことを言っている自分がやったことは「正しい」と思うのは、とても簡単だからです。

「少し駄目なところもある」自分が、ちょっといいことを頑張ってやってみるというのがちょうど良い気がします。
先日、友達と出かけた帰り、駅で転んだ、高齢の方に声をかけるということがありました。言動も移動も不安定な様子の中、ご本人が希望の電車に乗ってもらうまで付き添いました。
別れたあと、「あまりうまく声をかけられなかった」とか、「最後までついて行った方が良かったかも」などと反省していたのですが、それくらいでよかったのかもしれません。
「正しいことをした」などと胸を張って言い出すのは危険です。
言い出さないにしても、「正しいことをした」と強く思いすぎるのも、やっぱり結構、危険であるような気がします。
完全無比な「正しい人」になろうとする時、「正しい人」になれたと思う時には気をつけようと思いました。
全てに対して「正しい人」なんか、生きているひとのなかにはきっといないのですから。

ああ、今日で1年の12分の1が終わりました。
2月からはもう少し、落ち着いた年になりますように、と祈らずにはいられません。

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