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選択的夫婦別姓制度がないなら夫が姓を変えろよ(変えてみろよ)、みたいな話

私たち夫婦は結婚式を二年ほど前に挙げており、そのタイミングで結婚ということになっていたのだけれど、婚姻届だけは提出していなかった。理由はタイトルからお察しの通り、姓を変えたくなかったからである。

私は姓を変えることに何のメリットも感じていない。というか個人の尊重がされていないことに憤っている。入籍という概念は消え失せ(新戸籍の作成が今の婚姻であろう)、婿入り嫁入りという概念ももはや古く、そもそも婚姻制度ってなんのためにあるんだろうくらいの感覚で生きている私(昨今の若者)としては、別姓が選択できない状況などというのは2枚も3枚も下のレイヤの議論である。

選択的夫婦別姓制度が導入されないのには様々な理由がある。こんなことは調べれば(死ぬほど調べたので)知っている。でも、誰のどの主張や説明を熟読して熟考しても、それが「絶対に選択的夫婦別姓制度を導入できない」とするほどの壁ではないように感じた。子供の問題、戸籍制度の問題など、練って対案が出ないような感じは全くしない。むしろ旧時代の形骸化した仕組みから逃れることのできない老人たちが思考停止して、レガシーと呼ぶにはいささか埃だらけの価値観のようにしか思えなかった。


そんな私(たち)が、ではなぜ婚姻届を提出し、法律上の婚姻関係を獲得する必要が生じたのかといえば、妻が妊娠したからである。出産するに際して、法律上の婚姻関係にない夫は、父親を名乗ることができないのだ。遺伝子的には父親だったとしても、である。

今まで騙し騙し乗り越えてきた。

特に住宅ローンを組むにあたって、共働きである我々は収入合算という手法で世帯年収を考慮した住宅を購入するに至ったが、事実婚の夫婦の収入合算を受け入れてくれる銀行は、さっと調べて2行しかなかった。たったの2行である。信じられなかった。ネット銀行だの先進的だのDE&IだのSDGsだの騒いでいる全員、どこの誰に向けて語っているんだと呆れた。

近隣住民への挨拶、夫婦なじみの居酒屋への名乗りの苗字、宅配BOXの設定など、二人で軽口で相談しながら乗り越えてきた。でも子供のことだけはどうしようもなかった。法律上の父親になれないということは、どうしてもクリアできなかった。子供の苗字が私の苗字と異なるというのはどうでもいい(どうでもよくないと解釈する人もいるようだが、とても浅はかな意見にしか出会えなかった)。ただ、法律上の親になれないことは、子供にとってデメリットが大きすぎる。私自身、デメリットとは別の話として、アイデンティティの観点でダメージが大きすぎる。


何より、私たち夫婦はお互いがお互いの名前を尊重していた。これは当然のことであるが、とてもありがたいことでもあった。自分が名前を変えることが苦痛なのはもちろんだが、「相手が名前を変えること」にも同じくらいの苦痛を感じていた。話し合いは拮抗した。お互いが、相手の姓に変えたがるといったねじれの形になりつつあった。


時間をかけて議論を繰り返し、私(夫)が姓を変えることになった。


理由は様々あるが、詳細は割愛したいと思う。私にとって、お互いの名前を尊重する気持ちは全く同じ重さであって、それ以外の理由で決めるしかなかったことを踏まえると、事情は人によってさまざまだと思うからである。それでも、同じようなことで苦しんでいる方が、もしこの記事を読んでくださった誰かが、どうしても話を聞いてみたいということであれば、個別にご連絡いただければお話したい。

特に悲しいといった感情はない。ただ自分の名前が変わってしまうことに対するどうしようもない寂しさと、強い憤りだけがある。なぜ私が(もしくは妻が)姓を変えることを強いられなければいけないのか。世の中の選択的夫婦別姓制度の導入に反対している自分の姓を変えずに婚姻関係にある人たちは、どの面下げてそのような価値観に至ってしまったのか。他人のアイデンティティを捻じ曲げて生活していることについて、どんなつもりなのか。

(姓を変えたくて変えた人を、変えることに特段の意見が無かった人を、夫婦同意のもと特に考えずに片方の姓に寄せた人を、責めているわけではないということだけ、念のため補足させていただく。ただ私が(私の妻が)名前を変えさせられた(変えさせられそうだった)この仕組みに憤っているのみであり、また私と同じ理由で憤っている人が世の中にたくさんいるというだけのことである。このフォローが前提になければ、妻が加害者で私が被害者になってしまう。そうではなく、私も妻も被害者である)


婚姻届を出すしかないと決断した時点から、私はこの記事を書くことを心に決めていた。私自身、せっかく姓を変えるのだから、存分に憤ってやろうと思った。

また、姓を変えるとなって想像するだけで男尊女卑を感じられてしまうあたりも気色が悪いなと思った。男性が姓を変えることの決断は「すごいこと」で、女性が姓を変えるのは「普通のこと」であろう。そう思われていることにものすごく気分の悪さを抱く。(「いろいろと聞かれたり面倒なことが想定できる中、よく決断したな」という観点で、夫婦二人に「すごいこと」だと言ってくれる友人には助けられる)

私も、妻も、同じくらいに名前を変えることに絶望していたのだ。二人で悩んで、二人とも変えたくない/変えさせたくない。でもどちらかが変えるしかなかった。選択的夫婦別姓制度が不要だと論ずるのであれば、なぜ男性が姓を変えるパターンが50%近くにならず、たったの4.7%しか無いのか。4.7%側になった私だからこそ説得力が増すのではないかとは考えた。考えたが、妻が姓を変えることになったとしても私は同じ記事を書いた。それくらい、人の名前というものは重いものだ。


戸籍制度(知らんけどまあ)結構。子供の人権尊重も大いに結構である。
でも私の(妻の)人権はどうした?私の(妻の)名前とアイデンティティはどうでもいいのか?制度と同じか、否、それ以上に守られるべきは個人の尊重ではないのか?

核家族なんて影も形も残っちゃいないこの時代に、個人の名前を変えさせる仕組みが残っているなんていう事実それ自体が受け入れ難い。「そんなことよりも検討すべきことがある」から「導入すべきことがある」から制度として進歩がないのだ等とほざく人たちがいるが、「その程度のこと」とは先に書いたとおりである。

入籍という概念は消え失せ(新戸籍の作成が今の婚姻であろう)、婿入り嫁入りという概念ももはや古く、そもそも婚姻制度ってなんのためにあるんだろうくらいの感覚で生きている私(昨今の若者)としては、別姓が選択できない状況などというのは2枚も3枚も下のレイヤの議論である。

上記

「その程度のこと」すら議論が進まない程度の価値観で、思考サイクルの遅さで、大企業病で、レガシーを通り越した化石だから、他の「検討すべきこと」が儘ならないのだろう。

政治家各位へ、いいマイルストーンだと思って見ています。「その程度のこと」の議論に、いったいどれだけの時間をかけるおつもりでしょう。


===追記

実際に姓を変えて、いまだ実感はない。日本国民には通称使用は認められていないため、公的機関での名前の使用機会がある都度、ダメージを受けていくことになるんだろうと思う。

一度、まさに姓を変えた直後にマイナンバーカードの姓を変えるべく自身のフルネームを書いたが、違和感しかなかった。ちゃんと心にダメージを受けた。ああ、私の名前は変わっているのだな、と締め付けられる気持ちがあった。本文に書いておきながら、本当に変わったときに晴れやかな気持ちになったりするのだろうかとか思っていたけれど、全くそんなことはなかった。シンプルに、自分の本名だと認めていない感覚がある。

免許証、銀行口座、航空会社に登録している氏名、どれは変えないといけない、どれは変えなくてもいい、等、確認するコストが手間な割に変更しなかったペナルティは自身が被らないといけない。ふざけてんのか。どんなシステムだ。無理やり変えさせられた挙句のこの扱い。意味が分からない。

本当に不可思議で不愉快なルールだ。当事者性を獲得してなおしっかり不愉快である。不愉快極まりない。「選べない」というところがとにかく絶望的である。


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