見出し画像

「カミュ:異邦人」を読んで”普通”がもたらす暴力を考える|読書記録

「自分は”普通”だ」と考える人間は、現実にどれくらいいるのだろうか。私たちは何かにつけて”普通”と口にしがちである。しかしながら、その”普通”は明確に定義されていないケースがほとんどだ。

「”普通”と言っておけば良いだろう」「どう言葉にして良いか分からないから”普通”と答えておこう」「ありきたりだから”普通”でしょう」などとぼんやり思いながら、流れのまにまに私たちは”普通”と口にしている。

そしてそのことに何ら違和感を覚えない。だが、その”普通”が世に与える影響は存外に馬鹿にできない。なぜならば、”普通”という言葉によって共有される感覚や空気は、明白に誰かを否定し、その存在を拒むからである。

”普通”がもたらす最悪の結末が淡々と描かれるカミュの「異邦人」

カミュの著作である「異邦人」は、そんな”普通”がもたらす最悪の結末を淡々と描き、鮮烈に心に刻んでくれる。”普通”ではない「異邦人」は、世界に拒まれ消されるという形で、だ。

「異邦人」は、アルジェリアに生まれた著者であるカミュが発表し、類い稀な反響を生み出した、世界的に有名な作品である。本作の解釈それ自体は様々なものがあると思われるが、筆者の印象に残ったのは、前述した点である。

いまいちピンとこない多様性への理解促進の啓発

つまり「”普通”でなければ拒まれる」であり、「”普通”の生み出す残酷な結末」である。昨今、多様性の理解に関する啓発は枚挙に暇がないほどで、SNSに限らず、各種メディアや官公庁による文書など、多様性理解の大切さを語る言葉を目にしない日がないほどである。

そもそも論として、多様な人間が生活している社会において、多様性の理解などという話を改めて言われるまでもなく、私たちは日々多様な人間を理解しようと努めている。

それにもかかわらず、ともすればうんざりさせられるほどに多様性の理解を説かれるのが昨今である。翻せば、改めて啓発しなければならないほど、社会は多様性への理解に欠けていると言える。

とはいえ大半の人々にとって、いまいちピンと来ない話だと思う。何せ多様性への理解促進が目指すところの多くは、差別の抑止である。少しだけ具体的に言えば、障害者や有病者などの社会的弱者、性的マイノリティ、外国人などのマイノリティを差別しないようにしましょうといった話だ。

一方で、差別の抑止がお題目であるならば、私たちの大半は多様性への理解ができていると言って良い。何せ言われるほどに差別などしていないためである。というより、差別意識を持つほどに、誰もがそうしたマイノリティな存在に関心を持っていない。

好きの反対は無関心とよく言ったものだが、嫌いの反対もまた無関心であり、差別的な意識を持つほどに嫌悪感や攻撃的な意志を持つのにもまた関心が必要となる。関心を持っていない人間を差別するのは、存外難しい。何せどうでも良い相手でしかないのだから。

”普通”から外れた異常者として描かれるムルソー

若干ながら話が逸れたように思われるかもしれないが、そうでもないと筆者は考えている。「異邦人」における主人公、ムルソーは他者に対する関心があまり強くない人物だと思われる。

一癖も二癖もある人物とも淡泊に付き合えるのは、そうした無関心が心の中心に存在しているためであったのだろう。母親の死に対する感情の起伏のなさ、冷淡とも見られるあっさりした反応もそれ故でなかろうか。

その一方で欲望には忠実であり、ある意味情欲に支配された生き方をしている。愛は感じずともマリイを求めるのは、まさに欲望故であり、作中において、そうした心の動きが描かれている。それを理解して彼を受け入れるマリイは中々なものだが、話が逸れるので語ろうとは思わない。

そんなムルソーは、まさに”普通”とはかけ離れた人物として糾弾されることとなる。つまり、母親の死に哀しさを感じない異常者であり、また神を信じようとしない不徳者として、裁判で否定され、司祭から不況を買うことになる。結末は広く知られている通りである。

魔女裁判がまかり通る時代において大きな力を持つ”普通”

本作を読んだ経験を持つ人々ならば分かると思うが、ムルソーのかけられた裁判の様子は酷いものである。正直なところ、この裁判は一体全体何を目的とした裁判なのか? と思わせられるような描写が大半である。

カミュが念頭に置いていたのかは定かでないが、ムルソーがかけられた裁判は、まさに魔女裁判のようなものだった。少なくとも現代の私たちの価値観で読めば、魔女裁判にしか感じられないような、無意味な質問が繰り返される裁判である。

要するに本裁判で行われたことは、ムルソーという人物が、いかに”普通”から外れた人物かを陪審員に見せつけ、陪審員が異常者であるムルソーは死罪にすべき人物だと考えるように仕向けるための質疑である。

現実にこのような裁判が行われたとしたら、間違いなく検事に対する非難が集まるだろう。何せ検事がやったことと言えば、印象操作であり事件に関する何かしらの立証ではない。ムルソーは魔女であり、世界から消し去るべき存在であると認識させるだけの行為である。

さりとて、過去には本作で描かれている様子に近い裁判はいくらでもあったのだろうし、それが何某かの立証として機能を持っていたのだと考える。そう考えれば考えるほどにゾッとする話だが、現代のように科学技術が発展していない時代であれば、心証以上に力を持つものがなかったのだと思う。

そして心証が大きな力を持つ時代にあっては、”普通”であることが大きな価値を持つ。何せ”普通”でなければ魔女として世界から消されるのである。本作は、ある一面においてこのような薄ら寒い現実を突きつける。哀しいかな、それを否定する言葉を私たちは持たない。

”普通”を極々当たり前のように用いて、”普通”であることに何らかの価値を持たせている私たちもまた、”普通”から外れることをあまり良しとしないためである。

”普通”を強権としないために多様性を理解する社会が必要となる

”普通”という名の同調圧力。”普通”を神格化した結果として行われる魔女裁判。第二第三のムルソーを生み出すそうした狂気、あるいは熱狂を生じさせないために必要となるのが、まさに多様性への理解である。

つまり、『母親の死に深い悲しみを覚えない人間もいる』『他者に対して関心が薄い人間もいる』そうした、多くの人々とは異なるとされる感性に対して、『そういう人もいるよね』と思えるような理解ことが必要である。

多様性への理解というと、何かにつけてマイノリティとして障害者や有病者、性的マイノリティ、外国人などが挙げられる昨今であるが、マイノリティそれ自体は、様々なところに存在する。

たとえば結婚一つとっても、一般的とされる同棲婚ではない、別居婚や契約婚、事実婚といったものはマイノリティに違いない。昨今増えつつあるにしても、移住者にしたところで移り住んだ地域においてはマイノリティだろう。

そんなマイノリティに対する理解がないと、様々な場面で第二第三のムルソーが誕生してしまうのである。尤も、ムルソーが殺人を犯したのは事実であるので、この一点においては裁かれて然るべきであるし、その意味において世の中の多くのマイノリティは、ムルソーにはならない。

『多様性への理解を深めましょう』と言われたところで、なぜそれが大切なのか、何よりなぜそれが必要なのかなどピンと来ないケースの方が多い。しかしながら「異邦人」に見られるような魔女裁判の例を見れば、誰もが多様性への理解の大切さを感じるはずである。

「異邦人」もまた、本の厚さが薄いからといった理由で手に取り読んだ一冊であるが、名作と呼ばれるだけあって、非常に考えさせられる素晴らしい一冊だっと感じる。

※リンクは広告です。興味が湧いたら購入して読んでみてください

この記事が参加している募集

読書感想文

多様性を考える

皆様のサポートのお陰で運営を続けられております。今後もぜひサポートをいただけますようお願い申し上げます。