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釣りと現世と魂と ④ 黒部の夏 ソロキャンプ編 Ⅱ


AM 7:29
誰もいないテント場の朝


 2日目 

 翌朝、東京での日々と同様、スマホのアラームで目を覚ました。

はるばるこんな山奥へと逃避して来たにも拘らず、

ましてや、何か時間に追われている訳でもなかろうに、無意識に "日常" を持ち込んでしまうとは、我ながら笑うしかない。

しかし、ひと度テントから顔を覗かせると、そこには紛れもない圧倒的な "非日常" があった。

昨夜は余裕が無くて気付かなかったが、
森の中は、都内の雑踏の人混みに代わり、
賑やかな野鳥のさえずりや、目に見えない様々な "野生の気配" に満ちていて、

それらはこちらの様子をじっと伺っているかのようだった。

ただ、そこにある "距離感" からは、何か得体のしれぬ怖さでは無く、

むしろある種の "気遣い" が感じられるようでもあり、

なんとなく受け入れてもらえているような居心地の良さがあった。

 

 目的


 ただ釣をするだけなら、他にも良い場所は沢山ある。

ここに惹かれる魅力とは、手つかずの自然と心身共に一体感を味わえる、
本州では稀有な場所だからだろう。

車の排気ガスの臭いや騒音もない、清浄で純粋無垢な野生。

前回訪れた時、一目で魅了されてしまったのだ。

ハイシーズンにも拘らず、人が非常に少ないことも理由に挙げられる。

そして今回は、
一週間に及ぶソロキャンプ、水や食料の現地調達、ロングトレイルなどに初挑戦することなども目的となった。

真っ青な朝の空に緑が映える

 
 キャンプサイトには水場があるが、
そのまま飲まないようにと注意書きがあった。

昔だったら気にせず使ったかもしれないが、ここで携帯浄水器の出番となる。

昨晩も調理に使ったが、これはホントに素晴らしい。

始めに付属のウォーターバッグ(ペットボトルでも代用可能)に水を入れてから、浄水器の本体と接続する。

あとはウォーターバッグを搾れば、注ぎ口から濾過された水が出てくると言う、とても簡単な仕組みだ。

但し、川の水や雨水には使えても、色々と添加されている水道水には使えないらしい。 
フィルターが機能しなくなるそうだ。

今回は荷を軽くするためサーモスを持って来なかったので、ウォーターバッグをそのまま水筒代わりに使う。

非常にコンパクトながら、浄化能力は5000L、
500mlのペットボトルなら
1万本に相当するらしい
使用期限は3年。


 テントをたたみ、キャンプサイトを離れようとすると、熊除けの鈴の音と共に、一人の年配のハイカーが現れ、話しかけてきた。

色々聞くと、こちらも釣り師で、若い頃から "黒部詣で" をしている常連さんだった。
釣り方はエサとルアーだという。

朝イチの電気バスに乗ってやって来たらしい。

互いに情報交換した後、その先輩はここで少し休憩するようだったので、
自分は挨拶もそこそこに、釣り座にする予定の御山谷の流れ込みを目指して出発した。

とにかく早く、魚を見たかったのだ。


沢に架かる木組みの橋
大雨が降ると、増水で渡れなくなる
人の手の入らぬ源流域の水は
ひたすら美しい

 昨日の夕方に訪れた、流れ込みの上流に架かる木組みの橋を渡り、再び山道を行く。

見た目には涼しげだか、
既に汗だく。

すると、見覚えのある、より大きな沢に出くわした。

流れを横目に藪の中を下って行けば、そこが目的地のはずだ。

 適当な所にリュックを下ろし、はやる気持ちを抑えつつ、そそくさとルアーのタックルの準備をする。

糸くず回収容器
ゴミは必ず持ち帰る

 今回は、釣って食料とするものは別として、
バーブレスフックと言う、"カエシ" の無いハリを使用した。

それがあると、"リリース" する時に外しにくく、不要に魚体に触れたりして、ダメージも大きくなるからだ。

その代わり、掛かった魚と駆け引きしている時に逃げられてしまうことも増えるが、
無駄に多くの魚を傷つける事には抵抗があるし、

"数" にこだわる釣りも好きではない。

普段は "1尾" もしくは "ボウズ" でも満足するよう心がけている…

と、善人ぶった事を言いはしても、ひと度魚が掛かると、そんな綺麗事は "キレイサッパリ" 吹き飛んでしまうのたが。

 

 レインボートラウト

 
 緊張と期待と共に、実績のある小さな "スプーン" を流れに投じる。

すると、わずか数投もしないうちに、かすかに "触れる" ような気配があった。

 やはり居る、

  更にスプーンを送り込むと、今度は "ククンッ" と明確な "アタリ" が竿先に伝わってきた。
 
すかさず入れた "アワセ" が決まる。

バーブレスフックが外れぬよう、力強い引きを慎重にかわしつつやり取りした後に、美しい魚体が姿を現した。

 久しぶりの対面に心が踊り、素直に嬉びが湧き上がって来る。

スラリと伸びた尾ビレは、まるで矢羽のようで、それは広大な湖を何の制約も無く、元気に泳ぎ回っている証だ。

伸びやかな尾ビレは野生の証

 
 "おしゃれなマスは川の中を、矢よりも速く泳ぎ回る♪"

中学校の音楽の授業で習った、シューベルトの "ます" が、どこからか聴こえてきそうだ。

ただしその "ます" とは、ヨーロッパ原産のバッハフォレレと呼ばれる別の種類、
恐らくブラウントラウトの事で、開高健氏の「フィッシュ・オン」の中で、そう述べられていたと記憶している。

あの曲には含みがあって、どこで見聞きしたか忘れたが、ます=若い女性を暗示していて、釣り師=悪い男に引っ掛からないように、用心しなさいよ、ということらしい。

これまで、そういったことは一度たりともした覚えはないが、
そんな謂れを聞くと、なんだか釣りに対して罪悪感を覚える私は、やはり変わり者なのだろうか?

 マスとは尊い魚と書いて ます である。

冷たい水の、厳しい環境の中で、逞しく生きる高貴な魚だ。

この漢字を与えた先人も、きっとその性質を理解し、魅了された釣人だったのではないだろうか。

川の宝石と呼ばれるにふさわしい
透き通るような美しさ


頬から尾まで伸びる艶やかなレッドバンド
同種でも、見た目に様々な個性がある

 
 本来、ニジマスはこんなにも美しい。

虹鱒は和名で、英名のレインボートラウトが由来だ。

ロシア語でも同じく、

Радужная Форель  

ラドゥジナヤ虹の  ファレリ、と呼ぶ。

 良く観察すると、体表は他の魚種と同様にグアニン色素に覆われ、薄く虹色に光っている。

例えるなら、あの、淡く透明でカラフルなシャボン玉の輝きに近い。

その上に丁寧に敷き詰められたウロコは、それぞれが粒の揃った小さなレンズのようにも見える。

また、それら一枚一枚は、まるで雲母の粒子で出来たパール顔料を用いて施された "ネイルアート" のように美しい煌めきを放っている。

それは精妙な組み合わせの違いによって、各々に個性的な色気をまとわせ、釣人を虜にする。

場所によっては、標高の高い湖の空の色や、深い森の色を反映し、背中が真っ青や緑色の、
"ブルーバック" "グリーンバック" と呼ばれる個体もいる。

これらは外敵から身を守るための迷彩色だと言われているが、その芸術的な美しさの必然性について、だれが明確に説明出来るだろうか?

 神は細部に宿る…

 まあ、こういったウンチクを並べていると、果たしてどちらが釣られているのだろうか?と、解らなくなって来る。


 養魚場の魚たち


 同じ種類でも、人工飼育されている魚たちには同情を禁じ得ない。

大抵はコンクリートの水槽の中で、過密状態で飼育されている。

故に水質は悪化し、"ソーシャルディスタンス" も保てず、
縄張りを主張し合ってお互いのヒレに噛みつき、欠損したりしている。

だから、抗生物質入りの配合飼料で 水カビ などの病気を抑えなければならない。

おまけに、飼育槽は効率を考えて浅く造られているので、絶えず紫外線に曝され、日焼けして黒ずんでしまう。

スーパーでパック詰めされたニジマスを見ると、なんとなくその "不健康さ" がお解り頂けるだろう。

…これは我々現代人を暗に示しているようにも見えるが、如何だろうか。

 

 ロングトレイル


 ここで釣りをしていると、今朝方キャンプサイトで出会った釣り師が現れた。

やはりこの場所は良いポイントなのだろう。
よくよく話を聞くと、御年なんと68歳、若い頃はもっと奥まで釣り歩いたが、
最近は衰えと共に、近場で済ませるようになったとのこと。

 自分も正直しんどいので、ここでキャンプをするつもりだったが、どうやら彼もそのようだ。

しばらく考え倦ねた末、この場所は先輩に譲る事とした。

おかげでもっと奥まで行く決心もついたし、
ゴールは決めてないが、行けるところまで行ってみよう…

こちらの意を察してか、持参して来たコンビニのエビマヨおにぎりとサラミを、餞別代わりにどうぞと手渡してくれた、

有り難い。

初対面にも拘らず、ご親切に心が温まる。     

最初わずかに警戒していた自分が、少しはずかしくもあった。
 

12:17
清らかな流れを見つめていると、
癒やされ過ぎて、離れられなくなる…

 出発前の一休みに、

沢の冷水を浄水器でろ過し、麦茶を作ってみた。

混じり気の無い清浄な水で作ったそれは、一切雑味が無く、非常にまろやかでとても美味しかった。

人生で最高の麦茶

 この流れ込みの上流には、ニジマスよりもイワナがたくさんいそうなので、
フライフィシングをしてみようかと考えたが、
長雨によって押し流されそうなほどに増水していたため断念、

先へ進むことにする。

13:34
この沢の上流は、
天然イワナの宝庫に違いない

 山道は腐葉土に覆われていて柔らかく、重い荷物で足が沈み、歩きにくい。

なだらかな登り坂は、その分ダラダラと長く、初っ端から心が折れそうになる。

 実は去年(2022年)の暮れ、左ふくらはぎに強烈な肉離れをおこし、正月休みの間、ずっとのたうち回っていた。

それから今に至るまで、完治しないままハードな肉体労働をこなしていたが、
ここに来てついに、もう一方のふくらはぎにも痛みが出始めた。

昼過ぎに出発して既に3時間、アップダウンのキツい山道を、休み休みだが歩き詰めなのだ。

崖の上にそびえる巨木
根本にへたり込む
ひたすらしんどい…
苦しい道中にも癒やされる瞬間に
たくさん出会った
昔話に出てきそうな
巨木の根っこのトンネル

 今更引き返すにしても、途中に釣り場となる流れ込みやテントを張れる様な場所などなかった。

スマホでGoogleマップだけは使えるようなので、航空画像で現在地を確認してみる。

すると、もう一踏ん張りで、次の沢の流れ込みまで辿り着けそうな位置にいることが判った。


 そこはテントも張れそうな開けた場所で、いざとなれば、その近くに山小屋もある。

だましだまし、傷めた足を労りながら、とにかく前進するしか無い、

考えるのは、それからだ。

 しかし、少し見晴らしの良い所に出ると、そこには絶望が待っていた。

向かいの崖に、あり得ない傾斜でへばり付くように敷設された木造のはしごが、遥か谷底から上に伸びている。

 一瞬、目を疑う。

ということは、先ずはここから同じ程、下へと降りて行かねばならないのだった。

先ほど、珍しくすれ違った釣人のカップルは、黒部川本流の流れ込みまで行ったと話していたが、山小屋泊だったのか比較的軽装で、それほどキツくはなさそうに見えた。

彼等もここを通過したはずだが、身軽とはいえ平気だったのだろうか?

こちらは重装備、ただただ不安が募るばかりだ。

16:18
遥か下の谷底を眺める、
絶句…

 実際、はしごはジェットコースター並みの急角度で、細い丸太を組んで作られており、
水気を含んでいて非常に滑りやすく、所々腐食して折れそうになっていた。

この荷物を背負ったまま滑ったら、タダでは済まない、間違いなく骨折だ。

 それにしても、ここの管理者のご苦労には頭が下がる。

こんな山奥での作業、どれほど大変だったことか、想像に難くはない。

手ぶらでも危険な斜度、
いったいどこまで下るのか…

 
 痛むふくらはぎに力が入らぬよう、一段一段、恐る恐る慎重に降りて行く。

ようやっとの事で底まで降りると、今度はハードな藪漕ぎが待っていた。

メガネに汗が滴り、何度も拭う。
 
 中程に小沢があり、浄水器で水分補給をしながら一休みする。

とにかく無理はしない、とは云うものの、既に十分過ぎる程に体を酷使している。

次の登りを思うと気が沈む。

実際、上に登るまで何度立ち止まったか判らないし、あまりのしんどさに、

いったい自分は何がしたかったのか?

と、ネガティブな感情が去来する。

そして遂にはそんな余裕も無くなって、

もはや思考は停止状態に陥るのみだった。

これもある意味 "瞑想" と言えるのではなかろうか?

 

 女神とダンス


 目的地の中丿谷に到着したのは、17時を回ったところだった。

足の痛みを堪えつつ4時間半、まさにデスマーチ、地獄の行軍とはこのことだ。

話し相手もおらず、ひたすら自分と向き合うだけの時間は、気が遠くなるほど長く感じた。

 しかし、辿り着いたそこは、大量の砂が堆積した見晴らしの良い高台となっており、テントを張るにはうってつけの素晴らしい場所だった。
鉄砲水は判らないが、これなら大雨が降っても流される心配はなさそうだ。


 「もう動けない、」

と、何度も泣き言を言いそうになった筈なのに、目の前に広がるロケーションと、
いかにも釣れそうな予感のする水面を見ると、体はボロボロなのに、ほぼ無意識に釣りの支度を始めている。
 
もはや中毒だ。

今朝はルアーだったので、今度はウエットフライ(沈めて使う毛鉤)でやってみよう。

疲労で体が震え、ロッドを操る動作もぎこちない。


 しばらくの沈黙の後、
 
湖は、答えてくれた。

澄んだ冷水の流れと、ダムの濁りの狭間、
小さなステージ、

何かが起こりそうなトワイライトゾーン。


 細い糸と柔らかい竿で、繊細なアプローチを心がける。

すると、誰かがそれを、そっと受け取った。

 だが、水面の反射に姿は覆い隠されている。

優雅なダンスの後、やっと素顔を見せてくれた彼女は、伏し目がちにこちらを見ている。

それは、まるで神が遣わした美の化身のように魅惑的だった。

手放したくない、そんな執着に駆られる。

いつまでも見つめていたかった。

 だが、それもエゴだと解っている。

出会えた事に感謝して、

別れを惜しみつつ、

そっと手を離す。

 少し踊り疲れた彼女は、しばらくそこに留まっていたが、やがて流れの中へと消えて行った。

 今は氷に閉ざされた、冷たく厳しい北アルプスの湖で、じっと遅い春を待ちわびていることだろう。


 そして、夏を迎える頃には再び、
優雅に美しく、ダンスを踊ってくれるに違いない。

 

鮮やかなグリーンに
クリアブルーのアイシャドウ
これまでに出会った中で
最も美しいニジマスだった

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