【映画評】孤独なアウトサイダーの政治 「デッドゾーン」(1983)論

「デッドゾーン」(デヴィッド・クローネンバーグ、1983)☆☆☆☆☆

 言うまでもなく、これはキチガイについての映画である。当人の主観的な体験を一つずつ追ってみれば、なるほど、政治家を勝手な妄想で射殺しようとした犯罪者の言い分にも、いくらかの説得力があるのかもしれない。しかし、あるヴィジョンに囚われ、それを現実と思い込み、犯罪に手を染めていった数多のキチガイたちと主人公を客観的に隔てるものは何もない。キチガイの妄想が、それを必要とする人々に受け入れられた実績があるからと言って――火事から子供を助けたとか、水難事故から子供を助けたとか、そんな実績をいくつ重ねてみたところで、主観的にしか体験できないヴィジョンを拠り所にして反社会的な行動に手を染めた事実は何ら変わらない。テレビや新聞や週刊誌で取り沙汰されては消えていく数多のキチガイたちの自己弁護を、驚くほどストレートなヒーロー物語として構成し直してみせたのが、この「デッドゾーン」という映画である。
 この驚くほどのストレートさはどこから来るのだろう。
 思えば、殺人をほのめかす主人公に対して主人公の主治医が与える助言も、稚拙としか言いようのない代物だ。タイムスリップしてヒトラーを殺すのは、人命を尊重する医師として当然の義務だって?議会でのヒトラー台頭に至るまでには、有象無象の極右や極左が繰り広げた覇権争いがあったのだし、この争いを最終的に制したのがたまたまヒトラーだったからと言って、彼を殺せば万事収まり、大量虐殺も戦争も防げたかといえば怪しいところである。だいたい、「悪い指導者」に少しそそのかされたくらいで嬉々としてユダヤ人迫害や負け戦に加担していく人民が、歴史線を移しただけで「善良」になるはずもない。ヒトラー政権以上に悲惨な結果が生まれていた可能性も大いにあるものを、子供の頃のヒトラー一人殺したくらいでどうにかしようだなんて、虫が良すぎるというものだ。
 とまあ、ひねくれた回答をいくらでも提出できそうな思考実験ではあるが、医師の口から語られる結論は揺るぎなくシンプルだ。悪人は殺すべし。だって、将来悪いことをするんだもの。当たり前じゃん。即答である。精神状態が不安定な患者に投げかける言葉とは思えない。この時すでに主治医は、主人公のシャーマン的な能力に取り込まれ、精神世界の信者と化しているのである。こうしてみるとこの映画、狂信者に背中を押されて後戻りできなくなった超能力者の悲劇を描いた作品のようにも思えてくる。
 そしてまた、主人公が見るヴィジョンというのも噴飯ものである。大統領がやたら説明的な台詞回しで核のボタンを押すよう軍人に迫り、政治家たちがやたら説明的な台詞回しで「何もそこまでしなくても、外交で解決できたのに」とか何とか非難するヴィジョンの中で大統領が大声で説明してくれるところによれば、大統領は神の声を聴き、大量殺戮に手を染めるべしと確信したそうなのである。狂信的キリスト教徒の政治への食い込みを風刺する描写とも受け取れるが、これ、要するに、主人公が体験したのと全く同じことである。客観的には証明できないヴィジョン=神の声によって、客観的には反社会的でしかない行動に手を染めるキチガイ――要するに主人公と何一つ変わるところがない。ということは、主人公にしか見えない「ヴィジョン」がもし真実なのだとすれば、大統領にしか聞こえない「神の声」だって真実かもしれないではないか。ひょっとすると唯一神は、大統領に、素晴らしい結末をもたらす素晴らしい行いを成し遂げるよう働きかけていたのかもしれないではないか。核爆弾が炸裂した瞬間、神に選ばれた善良な民は、どこか素晴らしい場所にワープして、全員助かるのかもしれないではないか。
 もしそうだとすれば、主人公の行動は、一般常識のみならず「本当の神」の「本当の意思」にすら背いた、あらゆる面で擁護不能な悪魔の行いでしかなかったことになる。
 もちろん、ここで更に、SF的と言うよりは神学的な厄介な思考実験を持ち込むこともできる。神が万能ならば、なぜ主人公に自分の計画を邪魔させるような真似をしたのだろう。誰にも計り知ることのできない深い意図があり、主人公を試したのか。あるいは、神は唯一の存在ではなく何体(柱?)もおり、そのうちの別の2体が、それぞれ別のキチガイに働きかけたのかもしれない。しかしいずれにせよ、キチガイの主観的な「ヴィジョン」によってしか推し知る事のできないこの世ならざる存在は、「絶対的な存在」としての座を容易に引きずり降ろされることとなる。自分は「絶対的な存在」の声に従っているつもりでも、「絶対的な存在」に従っていると称する自分以外の誰かが登場するや、後は、「絶対」の座を巡る果てしない戦いが繰り広げられるのみである。皮肉にも、「戦い」と言うやつほど「相対的」な営みはない。
 大統領候補の射殺に失敗した瀕死の主人公が、自分が殺そうとした政治家に「誰に雇われた?」と問われるのは示唆的だ。誰かが誰かを雇い、政敵を排除する俗世間の政治ゲームなどとは関係のないところでヴィジョンを得たはずの主人公の行動も、現実化してみれば、所詮、ごくごく卑俗な政治ゲームへと回収されるより他にないものだった。もしも主人公の背後関係が洗われ、ただのキチガイであることが証明されたところで事情は変わらない。このゲームで意味を持つのは結果だけであり、当人の意思は重要ではないからだ。
 どれだけ「他の意図」に殉じているつもりでも、行動はその意図ごと「政治」という座標の中に組み込まれ、「政治的な行動」として意味づけされ直すまでである。この座標たるや現実に起こるあらゆる事柄に新しい「意味」を与えていく恐ろしいフィールドで、政治に関係ない理由で政治家が襲撃されることであれ、自然災害で政治家が事故死することであれ、犬に噛まれて怪我することであれ、全てに何か政治的な意味があるとみなされ、政治的力関係に影響を与える要因として再編されていくのである。
 これはまるで、全てに神のメッセージを見出そうとするキチガイの妄想のようなフィールドだ。
 つまり、逆に言えばキチガイというのは、社会のあり方を支える巨大なメカニズムをたった一人で抱え込み、自らの力でメカニズムを再編していこうとする異分子なのである。キチガイのヴィジョンによって社会常識は相対化され、後には、キチガイと社会の間には、「世界観」を巡る泥仕合のような戦いが待ち構えているだけである。もちろん、キチガイは負ける。99%、負ける。個人の力で社会を変えようだなんて虫のいい話はない。しかし、何かのエラーによって、ちょっとした歪みによって、世界のあり方を揺さぶる強大な力が個人に与えられることがある。それは例えるなら、何かの間違いでキチガイが大統領に選ばれるようなものである。ある日突然大統領が発狂して、政治的利害とかけ離れた理由で核のボタンに手を掛けるようなものである。
 ちなみに「博士の異常な愛情」はそうした「エラー」を描いた映画だった。意味不明な妄想にとりつかれた軍人が、たった一人で最終戦争を引き起こす。事態の収拾を試みる会議の席を占めるのは、無能な平和主義者、好戦的なキリスト教原理主義者、そしてナチ崩れ。ほんのちょっとした歪みによって、妄想に力が与えられることがある。ヒトラー殺しの妄想にとりつかれた在野のキチガイから、ナチ崩れのマッド・サイエンティストに至るまで、キチガイたちがナチに魅了される理由も同じところにあるだろう。ヒトラーが引き起こしたのは、政治的合理性では推し量れそうにない、あまりにも残虐な、文字通り悪夢としか思えない大量殺戮だ。独裁者がまるで芸術家のように自らの悪夢を実現していくのを止めたければ、自分自身が、独裁者の座を、別の「独裁」的な力によって奪い取らなければならない。キチガイたちは独裁者を志望する。
 皮肉なことに、妄想を容赦なくはねのけ、現実の厳しさを突きつける「政治」というフィールドにおいて、キチガイは、客観的な現実に拒絶されながらも、同時に、現実へとコミットする契機を与えられる。「俺は神の声を聴いた。あの候補者を殺さなければ!」などという戯言は、誰にも聞いてもらえないかもしれない。しかし、重視されるのは当事者の意識ではなく、結果なのだ。その候補者を殺してでも追い落としたい政敵はいくらでもいるのだから、「その候補者に反対する」という一つの政治的な立場の中に、キチガイは居場所を獲得することとなる。流石に殺人というのは極端なやり方かもしれないが、相手はどうせ右派ポピュリストだ。あんなやつに核のボタンを握らせてはいけない、という至極真っ当な意思を持っていたのだとして、周囲が勝手に誤解してくれるだろう。たとえその本心が、「神の声に従うこと」を再優先課題とする、他の者には理解不能なものであったとしても、あらゆる振る舞いを意味づけし直していく政治というフィールドでは、ある派閥に反対し、ある派閥に従う者として、キチガイはその立ち位置を定義されていくのである。
 他人とは絶対に共有できない「ヴィジョン」もまた、別の意味を獲得する。本当はキチガイは「ヴィジョン」ありきで政治的行動に駆り立てられたのに、その結果だけを見た他人は、「政治的意図」ありきで行動に駆り立てられ、その理由付けをするために「ヴィジョン」なるものを語っているのだと好意的に受け止めてくれるかもしれない。少なくとも、そんな可能性はあるのである。恐ろしく孤独で、他人とは絶対に「足場」を共有できないキチガイが、「政治」のおかげで、「少なくとも気持ちは理解できる」とか「義憤に駆られたのだろう」とか、そんな誤解をしてもらえる可能性を得るのである。たとえ誤解であっても、たとえ「可能性」止まりであっても、他人が全く存在し得ない世界に閉じ込められるのとでは雲泥の差があるだろう。
 そして、そんな「足場」を踏み台にすることで、政治的野心は極限まで肥大するかもしれない。それは、キチガイ自らが独裁者となることだ。「政治」そのものを転覆しようとする妄想が「政治」へと回収され、そのことによって逆に、妄想のメカニズムにチャンスが与えられるのだ。「神の声」を実現する下心を隠して選挙で票を伸ばすようなものであり、絶滅収容所のような悪夢を実現する下心を隠して独裁者となるようなものである。
 独裁者となって世界を変える野望と、独裁者を倒して世界を救う野望は表裏一体だ。独裁者を討つこと自体、ある意味で、自分自身が(少なくとも射殺する一瞬だけ)独裁者になるようなものである。全権を委任されたある一人を倒す自分は、一瞬だけ、そいつが委任されていた全権を背負い込むのである――まあ、その直後には自分も射殺されるかもしれないが。三日天下ならぬ三秒天下だ。政治の複雑でややこしいメカニズムをバッサリと切り捨てて、「善人」個人が「悪人」個人を討てば解決するのだから、こんな簡単な話はない。
 下心を隠して独裁者になる悪人であれ、妄想にかられて独裁者を殺す善人であれ、あるキチガイの力が政治的力関係を塗り替えていくプロセスは、政治的なしがらみがもたらす閉塞感のはけ口として使い勝手の良い物語である。「間違った社会」が何かのきっかけであっさりひっくり返るかもしれない希望――それは個人に与えられたチャンスであり、同時に、大衆に与えられた救済だ。皮肉なことだ。普段はキチガイのことなど気にも留めず、キチガイの主張に耳も傾けず、場合によっては石を投げつけ、キチガイを孤独へと追いやる者たちが、ある分かりやすい物語を必要とする段になるや、途端に手のひらを返して、キチガイの個人的な葛藤の理解者づらをし始めるのだ。独裁者を目指すキチガイの野望と独裁者を倒すキチガイの野望が表裏一体であるように、独裁者に救ってほしい大衆の願望と、独裁者を倒してほしい大衆の願望も表裏一体だ。要するにそれらは、面倒な政治的手続きを一足飛びにしたいという願いである。民主的議論なんぞクソ喰らえ、誰だって手っ取り早く悪人を懲らしめたいと思っているし、自分たちの社会に寄生するクズどもを一掃したいと思っているし、平和を脅かす敵を容赦なく殲滅したいと思っているのである。ほとんどの場合、物事はそう単純には運ばれないが、何かふとしたきっかけで、心に思い抱いていたヴィジョンを実現してくれる力が現れる。……それも、自分たちが社会の片隅に追いやっていた、異端者の群れから。キチガイとして迫害される側と迫害する大衆の側、両者の利害が、何かの拍子で一致する瞬間が訪れ、現実を支配するメカニズムを鮮やかに転覆してみせるのだ。
 しかし、「鮮やかな転覆」とは具体的にはどのようなものなのだろう。
 自分自身では「ヴィジョン」を掴み取る力のない大衆のために、ここで、映画が有効に機能する。映画は、キチガイに強大な力が与えられる異常な瞬間を、鮮やかに、美しく、そしてわかりやすく描き出してくれるだろう。このような瞬間についてどのように想像すればよいか、道を指し示してくれるだろう。それはある意味では、想像力を型に当てはめ、固定化することである。「キチガイ」とはどういう連中で、普段何を考えていて、どういう思考をたどってどういう行動に至るのか――固定観念を植え付け、それ以外の方法で「キチガイ」について想像させなくすることである。映画にはいつでもキチガイが溢れかえっており、会おうと思えばいつでもキチガイに会えるのだから、ある意味でキチガイほど凡庸で陳腐な存在もない。こうした状況では、どれだけ「本物」のキチガイの想像力をフィルムに焼き付けてみせたところで、固定観念を一つ増やし、パターンの固定化を強めることにしかならない。「本物」を求めれば求めるほど「偽物」であふれかえる閉塞感こそ、「本物」を求める原動力となるものにほかならないのだが、皮肉なことに、観客は、よくできた「偽物」として――つまりあるステレオタイプに沿って――自らをプロデュースする能力に長けたものでなければ、「本物」と認めることができないのである。
 では、観客にとって、「本物」のキチガイが現実を変えていくプロットとして認めやすいのはどういうものだろう。独裁者や革命軍のサクセスストーリー?いや、人々が社会に抱く違和感をすくい上げるものは時代とともに変化する。「デッドゾーン」が公開された時、「本物」の受け皿になる余地が有りそうだったのは、政治的革命の夢よりもむしろ、個人の肉体、個人の精神、個人の主観的体験の変容だ。まさに客観的に見れば空白地帯、デッドゾーン。政治で世界を変えるのは難しいので、まずは自分が変わりましょう――革命の夢が占めていた場所に、今度はオカルティズムがやってくる。
 ――とまあ、これは流石に文化史の変遷を単純化しすぎているかもしれない。が、個人の力で政治に影響を及ぼす物語として「デッドゾーン」を見た時、その極めてストレートな物語が、政治にコミットしようとするオカルト的世界観の典型的なあり方を示していることは確かだろう。あるいは、そうした世界観の限界を示している、と言ってもいい。
 オカルト的な力に取り憑かれるような者は、世間一般から見ればキチガイじみている。しかし同時に、オカルト的な力への需要そのものは、極めて世間にありふれたものである。未来を見て、事故を防いでほしい。過去を読んで、殺人犯を捕まえてほしい。などなど。ここでもキチガイ的な領域への想像力は、とことん合目的的で、実用的なものへと狭められている。「ヴィジョン」に無縁の衆生にはその程度が限界ということだろう。しかしクローネンバーグは、そんな大衆の視野の狭さを断罪したりはしない。逆である。映画はとことん、主人公の超能力の便利さを描いていく。そして「便利さ」の行き着く果てに、未来の核戦争は予防されるのだ。
 「未来予知」という便利な個人的体験の次のページが、いきなり「世界の救済」。「世界の救済」の次のページが、「政治家暗殺」。超能力で火事の家に子供が取り残されていることを知るのと同じレヴェルで世界の果ての問題を抱え込み、子供を助けるのと同じレヴェルでいきなり「大統領候補射殺」という直接行動に打って出るシンプルさ。中間にあって然るべき、政治行動の取捨選択はバッサリとカットされている。キチガイたるゆえんである。
 そしてキチガイ的論理に形を与えやすいのは、政治思想よりもオカルト的世界観だ。日本では、「徹底的にハードな修行」という内向的な体験の果てに世界の救済を夢見た者たちが、選挙で一度負けただけで、大量殺戮へと突っ走り自滅していった。客観的には正気の沙汰とは思えないが、彼らの主観ではそれなりに筋の通った行動だったに違いない。いわば、政治とオカルティズムの温度差によって、社会とキチガイの温度差が再現されるかのようである。
 そして、コリン・ウィルソンのアウトサイダー論は、この映画の世界観を理解するのに非常に有用だ――その限界も含めて。「世界の救済」という崇高な絶対的使命を、「子供を助けるのに役立つ」とか「犯罪捜査に役立つ」とかというのと同じ次元でしか想像できないいびつさは、ウィルソンのアウトサイダー論とオカルト論の関係がそのまま抱え込んだいびつさにほかならない。例えば「賢者の石」でウィルソンは壮大な世界改造のヴィジョンを提示してみせるが、彼の著書全般で言及される各論は、驚くほど直接的で、卑近で、個人的なものばかりである。脳の機能を全開にすれば、エクスタシーをいつでも味わえるぞ!しかも超能力も身につく!でも悪いことには使うな!やり過ぎちゃダメだ!自制が大切だ!個人的体験の次のページ、即、人類の進化である。この与太話感こそウィルソンの魅力であり、理屈っぽいくせに肝心なところで論理展開が破綻する「ダメ」っぷりこそ、ウィルソンの「本物」たる所以である。常識的に考えれば「ダメ」でしか無い、冗談としか思えないほど稚拙なオカルト的世界を、本気で信じて、追求しようとしている人々が存在するという事実――これこそ、「偽物」ばかりがあふれる世界に突如として出現し、「本物」の感動を与えるものに他ならない。
 「デッドゾーン」が観客に与える感動も、それと同じようなものだろう。あまりにも単純化され、ストレートな悲劇へと落とし込まれたキチガイ=アウトサイダーの物語。アウトサイダーが主観的に獲得したヴィジョンを、「便利な超能力」というようなイメージで何とか説明し、その果てに、個人が世界に対して行使する「強大な力」を何とか想像させようとする涙ぐましい努力。ここまでわかりやすくしてでも、クローネンバーグは、現実を変えうるアウトサイダーの力に形を与えたかったのだ。この映画はエンターテインメント作品としても傑作だが、なによりも観客の心を打ち震わせるのは、クローネンバーグの、「現実を超えた領域」に取り組む態度の誠実さにほかならない。そしてまた観客は、主人公と同じように「現実」を超えようとして現実に倒れていった、キチガイ、犯罪者、テロリスト、オカルティストたちの、うず高く積み上げられた死体にすら思いを馳せることとなるだろう。
 (2021年執筆)

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