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今、振り返る19世紀からの思想の歩み(12) 今から見れば古くて新しい
前回、3.11の集いで披露された詩について、この場を借りて一言申し上げた。友人が、「311への思いは各々あることですが、熱心に批判をしてくれるというのは凄いことです。それだけの存在感があり、無視された存在でないことの証ですね。」と返してくれた。加えて「世間の大半は何も反応しない、なかば無視の対応の中で批判すると言うことは、実は大半は共鳴するものの納得できないところがあるという主張でしょうね。」と
もっとみる今、振り返る19世紀からの思想の歩み(10) 肝心なのは「自由」なのだ
このところ取り上げざるを得ないのは、要するに「暴力革命」の問題である。今日、この日本で暴力革命を改めて論じる興味も関心もないんだけれども、これが意外にも「自由」の概念というか、その思いと切り離しがたい歴史を持ったもので、そう思うと簡単な話にはならない。
前回、「修正主義」の権化として有名で、ある方面では汚名と言って差し支えない「ベルンシュタイン」の書いたものを「うっかり」引用してしまった。し
今、振り返る19世紀からの思想の歩み(9)昭和3年の本…もったいなかった
ぼくの勉強してきたところでは、やはり19世紀後半、そしてロシア革命の思想が、結果として様々な思考錯誤を流産させたと思うのである。その間、帝国主義、資本主義は幾度も危機を生み出し、その度に新たな顔を見せた。そのことを思い、考えてみたい。
「絶体絶命」とか「極限状況」にあった場合、例えば戦場で、どこに連れていかれるか分からない場合を、できる限り想像してみる。身につまされることだが、それでもか
今、振り返る19世紀からの思想の歩み(8) もうこのままではダメだ。
社会主義や議会主義を論じるとき、欠かせないのは、民主主義あるいは自由の問題であるし、法の支配であるだろう。それゆえ、ディスカッションというか、議論の交換を通じてより高い意識、より広く政治への参加を集めていくことが、意欲的に考えられていなければならない。
しかし、20世紀前半に、世界大戦を2度も経るのである。そして、自由や民主主義が人々をとらえ、大きな政治的力として、万国に行きわたったとはお世辞
現代知の挑戦 Challenging of Knowing for Present Epoch
・文化・教養分野において言論活動をしている和久内明(=長野芳明)は、
25年以上にわたって大人の学習サークル「POSS」(ポス)を続けていま
す。POSSは、詩を軸に日本文学、英詩・英語史、哲学を、平日の午前中、
基本的に定員6人で学んでいます。映像は、定員8人です。
T-POSS
内外の映画とドキュメンタリーを教材に、幅広い世界を知ります!
A・B日程の二つあり、原則として以下の日
今、振り返る19世紀からの思想の歩み(5) 「パンとサーカス」の果て?
教育界は社会の縮図、と言われる。そこで、「だから?」と問うてみよう。解説はいずれも、「社会」の一部でその状況を映す、ということに止まりそうだ。しかし実は、そうではない。現代の「社会」は、日本社会に止まらないのだ。だから、国際的な広い歴史的視野を伴ったものでないと話は始まらない。
国力の比較、チカラ関係と前回書いた。教育界もこの伝で行くものかどうか。教育は違いますよ、と誰しも思うだろう。そう思い
今、振り返る19世紀からの思想の歩み(3)
あらためて思う。体制が変わっても、根付いた習慣、慣習はなかなか変わらないものだ。肝心の体制変革すら、表向きとは異なり、そう簡単に変わるものではない。戦後も80年近く経って、こんなふうに思うとは、まさに「思いもよらない」ことだ。
前回述べた松川事件だが、下々は黙ってお上に従え、とか、知識人、文化人は、法律の専門家でないから、あらぬ方向に議論を持っていくとか、戦前を引きずっていることが見え見えに思
今、振り返る19世紀からの思想の歩み(2)
何かに左右される。そこが問題の根だと思われる。ぼくたちは、何かに頼って過ごしているのである。それ自体は、決して責められることではない。むしろ頼るべき人や仲間がいない状況は、極めて不自然で、望ましいことではない。そのことが、人の行動や考え方にも及んでいる。
それだけに、噂レベルの話でも馬鹿にできないものがあって、大いに注意を払う必要があるだろう。特に情報を提供する側になる場合だ。しかし、救いがた
今、振り返る19世紀からの思想の歩み(1)
大人の生活に「理想」から離れるものがあったとしても、少年・少女時代に自分の望みが持てなくては、教育立国はおぼつかない。だからと言っては何だが、愛国教育に熱心な国々があるし、かつての日本にもその時代があった。
上から注入されるのではなく、自らつかもうとする情熱は誰にも与えられている、と考えることができる。実際にはそう簡単な話ではないところが泣き所だが、よーく考えて見なければならないところである。
発言を控えない。「戦争と平和」だが、ぼくらの在り方についてだ。
この1か月間、やられっぱなし。幼児のころはとも角、これで死ぬのかの思いで、ベッドに縛り付けられた。いや、動くに動けないのだ。一気に「最晩年」が襲ってきた。身につまされて人生の最後を思った。
コロナがきっかけとは近所の医者の言。家に来てすぐに救急車だった。合併症を起こし、ひどい肺炎、気管支炎で、唾液が通らない3日3晩、まことに生きた心地がしなかった。それにしても、病室担当者たちの、昼夜を問わずの
大問題は大手中古車の宣伝(何とかモーター)だけではない。
世間の耳目をこれでもかと言わんばかりに集めてしまう、マイナーニュース。楽しい話は、スポーツだろうが、例えばプロテニスでの醜聞、勝利至上主義とかナショナリズムとか、いやになることはやはりある。
大々的な宣伝で有名な何とかモーターなど、いま大問題になっているが、実はぼくも無関係ではない。車人間だったが、昨年暮れに高齢者免許を更新したものの、娘やら妻やらに、もうそろそろ運転しなさんな、と言われて、ま