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【毒親育ち】「興味がない」という罪、の話。

私は昔から興味の幅が狭く、好奇心の対象になる事柄も多くなく、更に実際の行動に繋がる事となると極めて少ない人間である。
そして、その事に対する引け目というか、罪悪感を持っている。

……ということに気が付いたのは、先日の「エコが苦手な話」を書いている最中である。
以前書いた「社会貢献に興味が持てない話」の根本というか、前提というか、コメント欄で色々とツッコミや慰めや励ましを頂いた部分でもある。

振り返れば、私はnoteで「興味がない」ことや、「嫌いな」ことを散々書いてきた。そうして書く事で一つ一つ肩の荷が下りたような気がしていて、実際に気分は上がっているのだが、そもそも私がそうしたことを書くきっかけは、恐らく「言い訳を誰かに聞いて欲しい」「私は悪くないのだと自分に言い聞かせたい、あわよくば誰かに分かって欲しい」という気持ちから来ている。(実際に肯定的なコメントを頂いていて本当に助かっています、ありがとうございます!)

つまり、私は「興味がない/嫌いだということは、悪いことだ」と思っているのである。
どんな話題にも積極的に興味を持つべきだ、そうでなくてはいけない、と自分自身に対して思っている。そうでない自分を少しずつ受容しつつある、という段階にはあるが、何にせよ「興味がないのは自分の欠点だ」という所からスタートしている。

だが、「興味がない」ことは本来、別に悪いことではない。
それこそ思想の自由というか、個性の話のはずである。なのに私は何故、「興味がないこと、新たな興味を持ちにくいことは悪いことであり、自分の欠点だ」と考えているのか。

と、意識を向けるとすぐに思い当たった。
私のこの手の話で必ず出てくる母である。

そう。思えば私は昔から、興味の幅が狭いこと、好奇心がないことを、母にしばしば叱られていた。
正確に言えば、「母の話に興味を持たないこと」「母の期待する事柄に好奇心を向けないこと」を日々責められていた。

私は、毎日何時間も聞かされる母の話のどれにも――スーパーで白菜が高かった話も、近所の人が旅行に行った話も、○○ちゃんのお父さんが××にお勤めだという話も、母の子供時代の話も、親戚の家庭の経済事情も、母が読んで面白かった新聞記事も、殆ど興味が持てなかった。そんな話を聞かされているより断然、本を読んでいたかった。

今にして思えば、10歳にも満たない子供がそれらの話に興味がないのは自然かつ当然である。よほどキャッチーなエピソードを1分以内にまとめでもしない限り、私の息子はそんな話は聞いてくれない。

だが、母は私にそれを許さなかった。
母の今日の行動に興味を持たないのは、母に対して礼を失しているし、他人に興味がないのは思いやりや共感性の欠如である。PTAや親戚の話に興味を持たないのは、他人の生き方から人生を学ぼうとする姿勢に欠けている。新聞記事に興味を持たないのは、知的好奇心に欠け、進歩しない怠惰な人間として、時代に取り残される。
そんな風に叱られ続けたところで、興味など湧いて出るものではないので、私は「興味を持っている振りをする技術」だけが上がっていった。そしてやがて「熱心に見えるように、相槌を打ちながら母の話を聞く」は出来るようになったが、私自身の興味や関心は一向に広がることはなかった。

一方で、興味があろうがなかろうが、毎日何時間も大人の話を聞かされ続けていれば、知識だけは増えていく。母の話の内容が雑多だったこともあって、私は大層な耳年増になった。
小学校の理科でおしべとめしべの授業が行われる頃には、優性遺伝と劣性遺伝について大まかに知っていたし、クラスの男子が黒板に卑猥な落書きをするようになった頃には、エイズの感染状況や治療に関する新聞記事を読まされていた。そんな私が小学校のクラスメイトと話が合う訳もなく、学校の授業などやる前から分かっている事ばかりで、学校生活に興味が持てるはずもない。
当時の私を指して、母はよく「何が面白くて生きているのか分からない子供だった」と評するが、実際にその頃の私は、本と習っていたピアノ以外には、面白いことなど殆どなく生きていた。

今にして思えば、学校から帰った私に「何か面白いことあった?」と毎日聞いていた母は、例えば授業でこれを習ったとか、給食がどうだったとか、誰かが先生に叱られていたとか、教室で何が流行っているとか、そういった些細なニュースを期待していたのだろう。実際に私の息子はそういった事から、今日見たyoutubeの動画の内容に至るまで、延々と私に話してくる。
だが、当時の私に「面白い」出来事は現実世界にはなかったし、母に話したいこともなかった。私の「別に面白いことはなかった」という報告を、母は好奇心が足りない、積極性がない、興味の幅が狭すぎると叱り続けたが、模範解答が分からない私はひたすら沈黙しているしかなかった。

多分だが母の本音は、私に構って欲しかっただけだろう。
きっと母は、「母がどんな話をしても興味を持って熱心に聞き、自分からも毎日楽しそうに、母が興味を持てるような色んな話をする娘」が欲しかったのだ。そのためには、当時既に離人症の症状が出ており、無気力で受け身な人形のようだった私では不足で、積極性や興味が必要だ――と、そういう理屈だったのだと思う。

だが、恐らくはそれを母自身も自覚できないまま自己正当化した結果、「ワタリの興味の幅が狭いという欠点を、直さねばならない」という思考となった。
そして、そのために叱り続けた結果が「様々な事に好奇心や興味を持つことができないのは、悪いことだ」という、現在の私の概念になったのだと思う。

と、ここまで考えられれば、私の興味の幅が広かろうが浅かろうが、本来誰に引け目を感じるべき事でもない、と感情的にも腑に落ちる。
興味の幅が広い方が良い、それは一般論としてあるだろう。だが、世間でそう言われているという事は、興味の幅が広くない人もまた世の中には溢れているという事を指すし、そもそも、色んな事に興味を持つと人生が楽しくなるよ!という種類の話であって、出来なければマズいという話ではないはずである。

私の生来の興味の幅が、果たしてどのぐらいあったのか。それが母の影響でどのぐらい狭まったのか。それはパッとは分からない。
エコが苦手だった話のように、一つ一つ「これは苦手だ」と思うものをほぐしていけば、いつか素の状態の「興味の範囲」が分かるようになるかもしれないけれど。

だがどうあれ、昔から今に至るまで、私の興味の幅は狭いが深い傾向にある。狭く、深く、長期間持続するタイプの興味が持てるのだから、それはそれでアリだろう。
特に、「自分は何故こうなのか」への関心は非常に高い自覚がある。もしかしてある種のナルシストなのではないかと思うほどだが、それが高じてこうしたnoteを書けているのだし、最近は実際に自分の生きづらさが大分取れてきたようにも思うので、私にとっては実用性も高い。

自分の内面にしか興味ありません!と言ってしまうと客観的には少々アレだが、note以外で言わなければ良いだけの話である。ゲームはやっぱり欠かさずやっているし、書くのも読むのも好きだし、音楽も好きだし、2日前にはローストビーフも作ったし、育児も一応しているし、猫も好きだからまぁまぁ良しとしておこう。それこそ週末には水中ドローンのイベントに行ってくるし。年末にはカービィカフェも行くし。
お。こうして並べると(最後の二つは息子トリガーだが)十分色んな事に興味がある人なような気がしてきた。いや、だから別に興味が狭くても構わないという話をしていたはずだけれど。

どうあれ余計な罪悪感は、一つでも減らせた方が良いのは確かだ。こうしてまた一個下ろせて良かった良かった。
興味なんて人それぞれだし、ましてその対象の数を他人と比べて、多い方が偉い、少ないから劣っているなんてナンセンスである。そうだそうだ。
これで良いのだー!とバカボンのパパ的な結論で、この記事を終わりにしようと思う。

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