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【毒親育ち】幸福とは「感情」だと知った、という話。

幸福とは「そういう感情」のことなのだ、と私が理解したのはアラサーを過ぎた頃で、かなり最近の話だ。
それまでに「幸福感」を味わったことが全くなかった訳ではないし、喜びや楽しみを感じる瞬間はちゃんとその前から存在していた。だが、私はそれらを「幸福」と呼ぶべきものだとは思わずに生きてしまっていた。

というのも私はずっと、幸福とは「そういう状況」を指すと思っていたからだ。
例えば金銭的に困っていないとか、健康だとか結婚したとか仕事があるとか子供がいるとか、そういう「他者から見える、その人が不幸でない理由」の集合体が幸福なのだろうと、そういう理解だった。
文章として「幸福を感じる」という表現があることは分かっていたが、それは「自分は幸福なのだと考えること」を意味すると思っていた。「幸福とは何ぞや」という本や文章を読むと、大抵「不幸でない状況についての思考」が書かれていることもあって、疑ったことがなかったのである。

恐らく、自分が楽しい・嬉しいなどとは感じない事柄を指して、「お前は恵まれている」「お前は幸せだ」などと幼少期から言われ続けていたことが原因だろう。
自分の感情と「幸福」が関係あるとは思わなかった――というのが正直なところである。ごく普通に「自分が幸福なのはどういう時か」を習得している人からすれば「そんなバカな」と思われるだろうが、実際にそうだったのだ。

自分の喜びや楽しみといった感情を親から肯定されることなく過ごし、「自分の喜びや楽しみは、あらゆる他者から見て、何の価値もないことだ」という概念で育った子供はこうなるのだと思う。
実際、ある程度は真実だ。私の喜びや楽しみに価値があると考えてくれる人は、私の事を何らかの理由で(例えば人間だからという理由も含めて)肯定し、大切に思ってくれる人しかあり得ない。
私がダンゴムシの喜びに価値があるとは考えないように、私のことをダンゴムシだと認識している人にとっては、私の喜びや楽しみは無価値だ。

だが「幸福」という言葉は、あらゆる人が肯定する。
誰もが幸福になることが善で、他者の幸福を害するのは悪だと社会で定義しているからだ。
たとえ相手がダンゴムシだろうと、死ぬほど嫌いな相手だろうと、誰かが幸せだと聞いたときの公式コメントとしては「良かったね」とするのが大人だし、誰もがそういう概念で社会の中を生きている。

だから、他者から公に称賛され、祝福されるものが幸福である。私の感情とは全く別の概念だ。と、私はそう「幸福」を定義づけていた。
「お前が幸せになることが一番大事だ」と繰り返し話す母によって、ポジティブな感情を否定され続け、「母が幸福と呼ぶ状況」の指導ばかりを受けてきた私は、幼い頃に持ってしまったそういう定義を、30代も半ばまでアップデートし損ねていたのである。

私が幸せであるかどうかをジャッジするのは長年、私ではなく母だった。
だが、私の喜びや楽しみなどの感情を認め、「あなたが嬉しいと私も嬉しい」と共感して、しかもストレートに表現してくれる人の出現により、私は徐々に自分の感情に価値があると認められるようになった。
そして、自分の感情に価値があると信じられるようになると、「幸福とは何か」が見えてくる。

たとえば喜びや楽しみ、ほっこりする、といった「ポジティブな感情を感じている時間の割合が大きい」こと。
今の私はそれを、「幸福」あるいは「幸福な状態」と呼ぶ。

全身が満たされるような、自分はこのために生まれてきたのだと感じられるほどの幸福感は「幸福」の最たるものだろう。
だが、そこまで強烈な感覚でなくとも、例えばアイスが美味いとか、猫や息子が可愛いとか、半額のステーキ肉を買えたとか、ゲームでレアアイテムが手に入ったとか、こうして自分の頭の中身を東プレのリアルフォース(愛用のキーボード、結構高い)で打っている手触りとか、そういう淡くとも心地良い感情を感じられるということ。それを感じていられる時間が、負の感情で痛みを覚えている時間よりも長いこと。
それが今の私の「幸福」であり、その幸福をより強めるために、あるいはより長く味わい続けるために努力することが、「個人の幸福の追求」だ――と、アラフォーの私は定義している。

そして、そういう感情の状態を幸福とするならば、「将来幸福になるために、今は辛くとも我慢する」という考え方はイマイチよろしくない。
多少の我慢は実生活の上で必要だが、例えば「未来に大きな喜びを得るために努力する」は、感情の振れ幅はあるにせよ、本来そこまでの苦痛を伴うものではないはずだからだ。
「今は辛いけれど、いつか幸福になるために我慢する」というのは、幸福を「獲得」しようとしている。感情は本来、目的として「獲得」するものではない。ポジティブな感情をより強く、より長く感じる状態を幸福と呼び、幸福な期間が長いことを幸福な人生として目指すならば、「現在の感情」をないがしろにして良いはずがない――と、最近考えるようになった。

いつか幸福に「なる」ための努力ではなく、まず今の自分がなるべく幸福で「ある」ように、未来においても幸福で「あり続ける」ために努力する。
そういう方向の方が正解に近いような気がする。

結局のところ、幸福は主観だ。主観でなくてはならないし、主観で違うならば違う。
私に石油王クラスの不労所得が出来ても、不老不死の絶世の美女になっても、息子や夫が何やら突然凄い人になっても、だだっぴろいタワマン最上階にノルウェージャンフォレストキャットをわんさか飼えるようになったとしても、私がポジティブな感情を持てないならば、それは幸福ではないのだ。
そして逆に、誰に何と言われようとも、どんな状況であろうとも、私が幸福だと感じるならば、幸福だ。

ただそれだけのこと、ではあるのだろうけれど――それをきちんと理解出来るようになった今の私は、少なくとも分からなかった頃よりずっと幸福だし、この先何があろうとも「幸福が感情だと知っている」この幸福を失うことはないだろうと思う。

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