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怒りの種、憎しみの毒:禍いを呼ぶ源泉~恐怖と被害者意識

 怒りを抱くということは、
 誰かにそれを投げるつもりで
 熱い石炭を持っているのと同じことです。
 火傷をするのはあなたです。            

byゴータマ・シッタルダ

「怒りの葡萄」「12人の怒れる男」「ドラゴン怒りの鉄拳」「怒り」「怒りを胸にふり返れ」「愛と憎しみのロンド」「恐るべき憎悪と侮蔑」「ドッペルゲンガー 憎悪の化身」「憎しみの最果てに」「憎しみ」「愛は憎しみを越えて」「憎しみの銃弾」「パリ、憎しみという名の罠」「あなたがくれた憎しみ」「愛と憎しみ」「ダーク・ストリート/仮面の下の憎しみ」「愛と憎しみのデカン高原」etc…
タイトルに、怒りや憎しみが入る映画や文学だけでも結構多いもの。
それだけ人間にとってはお馴染みで、しごく身近な感情なのでしょう。

君は怒りの中で 子供の頃を生きてきたね
でも時には 誰かを許すことも覚えて欲しい

by浜田省吾「悲しみは雪のように」

高校に入学してすぐ、親しくなった同級生が歌詞の一部を引用したメモと、ハマショーのアルバムをダビングしてくれたカセットテープを私にギフトしてくれたのでした(その後、ライブにも誘ってくれたりなんかしてっっ 今はFCの人でさえ入手しにくいプラチナ・チケットですけど、当時はスカスカのガラガラでした)。

このような言葉を友人から頂くほどには、昔の私はとても怒りっぽくて、ナイフみたいに尖っている、実に刺々しい人間だったんですね。見た目はとってもダサい、ヲタなおイモちゃんでしたけど<見た目も軟弱で顔なんかピンボケだしっっ

クライアントさんも含めて今の私しか知らない人は、私が短気でキレやすい人間だなんて、ピンと来ないでしょうけど… 困ったことに、わりと最近まで攻撃的でヒステリーな性分を変えることが出来ませんでした。
30代過ぎてから徐々に変わっていき、温和な面も出てきましたけれど… 
クレーマーでもあったなあ。言いがかりをつけたりのモンスターまでは行かないけど、相手のミス、失礼な対応とかを赦せないとこがありました。

怒りの沸騰点が低くて、妙な正義感や正論を振りかざして他人を糾弾・追及するところもありましたし、やられたらやり返す的な(ハムラビ法典か!)面もあり、徹底的に相手を叩き潰したる!みたいな…そんな風に相手を敵視してしまうと言った、いつまでも根に持つ性格で「おのれ、孫子の代まで…七代先まで貴様を祟ってやる!」…じゃないですけど、粘着気質と執念深さはピカイチでしたわ。
怒りが憎しみに代わりやすく、人を呪う魔女かっ!ってな位には、復讐心を燃やすようなとこがありましたっっ汗
※あ゛~ やっぱそういうトコが太陽・蠍座だなあって。

一度腹を立てたり、嫌いになったりすると、もうダメで…拒絶反応が酷くて、絶対相手を赦せないわけです。「やだ!」と思った瞬間から、自分の世界からシャットアウトして、それまで関わってきたことすらも汚点と感じ、相手の存在自体を消し去ってしまう。

そうですねぇ…今振り返ると、手負いの狂犬みたいな感じだったかしら。寛容さとか、謙虚さとか…そう言うのとはまったく無縁な人間でしたね。

もし私が男性に生まれていたならば…健康や体力に問題が無ければ野球選手を目指したり、武道や格闘技を習っていたと思うけど…一歩道を外れてしまったなら、ヤクザで暴力的な人生を歩んでいたように思います。その意味では女性で正解でしたw  小柄で病弱かつ非力な女性に生まれてしまったからは、言葉が悪くて口が弾丸のように達者な以外には、他人を傷つける腕力や技を身に着けようが無かったからです。

体育会系一家に育ったのに、生まれつき病弱に生まれたのは幸いでした

まあ、私がそんなになってしまったのは、機能不全家族に育ったアダルトチルドレンだとか、親から虐待を受け続けたからだとか、幼少期の体験からだとかetc…確かに家庭(生育)環境に問題はあったわけで、理由をつけようと思えば、いくらでもそこに見出すことは出来るわけですが…
だからと言って、性格や心の歪みを生まれや他人(親)のせいにしていいわけではありません。人には自由意志があり、その影響下に居続けることも脱出することも、自分で選ぶことが出来るのですから。

親から受けた肉体と言葉の暴力による刷り込み(洗脳)を解くためには、とてつも無いエネルギーと労力、そして時間が掛かります。それは簡単なことではありませんでした。けれど、取り組まないことには、「呪い」を解くことは出来ません。一生涯、死ぬまでこの呪いに支配されたいなら別ですけど、何とかしてこの呪縛を解きたいと思うのなら、なるべく早いうちから取り掛からないといけません。そのためには周囲からの助けが必要ですし、お金も掛かることを覚悟しないといけません。
若いうちなら、周囲の助けや理解も得られるでしょうが、年を重ねてからだと中々理解されないので、専門的かつ特別なサポートをしてくれる第三者を探すべきだからです。私の場合はすべて自力と言うか、自分で自分に必要なものを探して、自ら与えるしかありませんでした。

そして私の場合は30を過ぎてからこの問題に取り組みましたけど、20年間ずっと囁かれ続けてきた「悪魔の囁き」から解放されるのは、本当に簡単なことでは無いなあ、と我がことながら思います。今はもうフラッシュバック(PTSD)のようなものとかは無いですけど…やはり20年近く受けた傷は、同等の時間あるいはそれ以上の期間が必要なようで、ゆっくりゆっくり進めていきながら、一歩進んで立ち止まって、二歩進んで一歩下がって…そんなスローな歩みにはなってしまいますね。

私の場合は、同時に自分の霊的な資質(霊媒体質)の問題も抱えていたから、そうした世界のこと(目に見えない人たちとの交流)が救いでもあり、同時に他人に理解されない面、分かち合えない側面をもう一つ持っているということで、孤独の材料でもあり、苦悩はさらに深いものになりました。

まあ、今回この話はオマケでどうでもいい昔話と言うか、前置きみたいな話なので、横に置いておくことにして…

さて、ここからようやっと本題です。(前置きながっ)
年末にちょっと住居トラブルがありました。昨年にも書いたことですが、そのことに派生した出来事です。下記に書いた記事にて触れていますねっっ

上記の書き物を書いた時点では、「オポノポノで行こう! 愛だぜ、愛!」とか…そのように考えて、マンションとマンション住人へのヒーリングや言霊を実行(ちょっとだけ)していたのですが、やはり心の何処かではお隣さんに対して拒絶反応があり、敵認定もしていて「不快な人たちだな」「イヤだなあ」と…心が付いて行っていず、納得していないところがあったのでしょう。果たして年末の真夜中になって、警察と消防を呼ばれる大騒ぎを「私が」起こすことになってしまったのでした。
いやさ、私からお隣に怒鳴り込んだとか、そんなことはしていませんよ。ただ室内でセージを焚いただけです。詳しいことは割愛しますけど。

その時に他の住人の人には理解してもらえて、かえって警察と消防の方には同情されて慰められましたけど… その日もスプレー攻撃をされて、暴言吐いてきたお隣さんに対しては、私の中で何かスッーと憑き物が落ちたようになって、「怒り」が微塵も湧かなかったんですね。夜中の3時過ぎまで大騒動で現場検証とか謝罪とかで色々大変な目には遭いましたけど…ちっとも不快な気持ちにはならなくて、むしろ清々しいくらいサッパリした静かな感情に包まれていることに、自分が一番びっくりしていたりして。
ただ、多方面への対応には疲れてしまいましたが…。

そうですね。ストンと腑に落ちて「ああ、そうか…」と言う気分でした。

お隣さんは、もう一人の私…と言うか「過去の私」なんだな、と妙に納得したのです。そして、私の中に許せないと思っている人、とある人達に対する「怒りと憎しみの炎」があって、それを燃え上がらせて、ずっと抱えているから、私は「私に対して憎しみを抱く人」を引き寄せたんだなあ…って、気づいたんです。しかも、私の抱いている「怒り」と「憎しみ」も、相手側からしたら理由の解らないものです。私側にはちゃんと理由があるのですが、向こうはそれを知らない。なぜ私がそこまで執拗に彼らに対して執着するかのように怒りをぶつけるのか、さっぱり見当もつかないことです。

そして、今回私も一度も話したことのない、顔もロクに合わせたことの無いお隣さんが面識の無い、彼らよりも先に住んでいる私に対して、どうしてここまで悪意と憎悪を向けるのか…解らないわけです(見当は付いているけど、現実では聞いていないと言う意味で)。

これはまあ、読む人に解りやすい事例で言えば「引き寄せ」以外の何ものでもないんですけど。私がネガティブ・エレメンタルを創り、育ててしまった結果ですね。栄養を与え続けて、大きく育ててしまったから、現実化したと言う以外のナニモノでも無く…。

また、誰もが「幸せになりたいと思っていて、自分の幸せや生活、自分にとっての快適で理想的な日常を邪魔してくる人を、敵認定してしまいやすいものなのだ」そうも思ったんです。

お隣さんも、自分たちにとって心地よい暮らし、日常を送りたいと思っている人たちなんですよ。もちろん私も、他の人たちも。たぶん、誰もが同じ。
だから、その快適さを阻害する人のことをどうしても悪意で見てしまう。自分の幸福と生活を邪魔する敵と見なし、排除しようとして、つい攻撃的かつ排他的な行動をしてしまったりもする。ここには「恐怖」がある。自分の安全を脅かしてくる、心の平穏を乱す存在への先入観と未知なる恐れが…
そこが誤解とか、トラブルの元凶なんですよね。
これと同様の反応から、周囲に対して攻撃的に抗議するなど…それは過去の私もしていたことなわけです。

なんかそう思ったら、お隣さんが理解出来たというか、気の毒な人だと思いました。同時に自分がそのような反応をしてしまって迷惑かけた人たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいにもなりました。「あ゛ーごめんなさい」って。

隣人に関しては、おそらく不器用な人で、ここに越してくるまで人付き合いの下手さで色々と上手くいかないことも多々あったでしょうし、トラブルにもたくさん見舞われて、嫌な想いもたくさんしてきたことが容易に想像できます。病んでいると言うか、生き辛さを抱えている人なんでしょう。
仲良くはなれないけれど、可哀そうな人たちだなって…はい。
それまで感じていた、イヤだなあって気持ち、不快な感情とかが無くなって、消えちゃいました。怒りもまったく感じなくて。

でもって、今回の出来事のお陰で素晴らしい気づきと学びを得られました。様々なことに気づかせてありがとう、気づきを与えてくれてありがとう!!
…って、感謝の気持ちが出てきましたのよ。

かつての私も、お隣さんみたいに防衛本能を剥き出しにして、他人を攻撃すことがありました。自分の生活、静かな暮らしを脅かしてくる人のことを嫌悪したり、敵認定して攻撃するように怒りをぶつけること、してました。

「反面教師として、このことを教えるために現れた人たちだー!」と思ったら、もうありがたくって、ありがたくって…このまま気づけないでいたなら、エライことでしたもん。いやさ今まで気づかない私もどうよ?…ってなもんですが。そんなわけで感謝するしかありません。

ありがたや、ありがたや、ありがたや。

これまでの私の姿だ! 自分もこうだったんだ!って、本当に。恥ずかしい限りだし、醜悪でみっともなかったなあ…と。もっと別のやり方があったろうに…と…とにかく反省するのみ。そして、自分の立場からだけでモノを見てはいけない、とも改めて思いました。

みんな幸せになりたいのは一緒です。
敵と思うからいけないのだ。相手には相手の言い分がある。
攻撃では無くて、和解と思いやりが必要だ。譲歩し合う事、話し合うこと、伝えること…それをしないでどうする? 最初から悪意を向けるから、相手も悪意で反応してしまうのだ…と。

さてさて…
これまでの私は、仕事と自分自身の私生活を切り離していました。いやさ、もちろん人として、自らの課題に取り組んではいて、霊的成長及び修養(精進)を優先順位に考えてはいましたが、何処かで自分はまだ未熟なのだから、まだ道の途中で成人君子には程遠いし俗物だから…と自らの人としての至らなさにイイワケをしつつ、仕事をしている時には「個人」としての私ではないところでやってるのだから…と開き直っていたのかも知れません。

霊的真理の探究者としてはそれではいけないのに…スピリチュアリストかつヒーラー、すなわち白いローブを着る「真理の探究者」は「怒り」を完全に手放さないといけないと言うのに、その課題からは逃げていたようです。

「怒り」と「憎しみ」「恨み」この感情を自分の中から追い出すこと…
それはとても難しく、出来ないことのように思っていました。
誰よりも私を支配し、苦しめている感情(想い)だと言うのに。
そして私自身を一番不幸にして、望まない人生や行動に導いている禍の種だと言うのに…なかなか手放せず、随分と長く離れられず、心の中から消すことも追い出すことも出来ない感情的反応でした。まるで自分自身の大事な一部であるかのような…けれど、それは思い込みなんですけどね。

それが消えた、まったく「感じなかった」あの瞬間は、私には奇跡と言うか新鮮な驚きでした。

ただ…
優しさと理解と慈しみの感情だけが沸き上がり、自分からあふれた瞬間。
ああいうのをインナーピース、心からの平穏と呼ぶんでしょうね。
ほんのちょっと、仏心に近づけたのかな。

ですが…年が明けて、しばらく心が静寂さと平穏で満たされていたものの…
ふと、一年半前から私を患わせていた、とある人たちへの怒りが再燃し始めました。彼らへの罵りの言葉、彼らに対して「言ってやりたい」ぶつけてやりたい言葉の数々が、頭の中で何度も反芻して離れないのです。

「あなたたち全員で、合わせて何人の人たちを殺戮したと思ってるの? 3.11の被災者たちへのチャリティとかやってたけど、あなたたち全員が殺した人々の総数は、3.11の被災者の数よりずっと多いんだよ? 
過去生でどれほどたくさんの人たちの命を奪ってきた? 何万の女性を凌辱してきたと思ってる? ええ、覚えてないでしょう。あなたたちは綺麗さっぱり忘れているから。けどね。イジメをした方は簡単に忘れてしまうけど、イジメられた人がイジメられたことを忘れないように、被害者はいつまでも忘れないし、死んだ後も、生まれ変わっても、その傷で苦しみ続けているんだよ。恨みや怒りは消えないもんだ。忘れたくても忘れられないんだよ。
弓を引き、剣を取り、近代に至っては銃で…その血塗られた手で奪ってきた命や他人の身体を傷つけた罪は、あなたたちが何万回、慰霊のための曲を奏でたとしても足りないんだよ? あなたたちが今生で引く曲の回数は、歌う歌の数は…今生で何万回ライブやったって、集客出来ている人数にしたって、あなたたちが殺した命の数には全然足りないんだよ?」

「感染症禍の打撃を受けた楽器店に募金して救済するって? ナニ言ってんの? それで良いコトしているって、欺瞞と偽善から鼻高々になってないでよね? あなたたちは旅芸人の一座をリンチして、足を折り、手を折り、指を折り、彼らが二度と楽器を弾けなくしたくせに! 彼らの芝居小屋も、馬車も、楽器も衣装も道具も何もかも壊して、焼き払ったくせに!! あなたたちが今この感染症下で感じている不自由さや損失なんて、あなたたちが彼らにした仕打ちに比べれば何てことないわよ」

「そうした過去の罪を因果応報で、魂があなたたち自身に知らしめるために、被害者的な人生を生きたことで、その悲劇に酔いなさんな! あまたの女性を凌辱して、娼婦を蔑んで…貧乏人を差別して口汚く罵って! 自分のライバルを拷問した罪を知るために、逆の立場になった人生を「私って可哀そう」と陶酔したり、その立場をさも知るような顔して、歌にして金にしなさんな! そこで反省して学んだかと思いきや…あの人たちがこんなにも変わったのかと喜んだのも束の間で、それはぬか喜びで偽りの感動で、結局あなたたちは何も変わってない! 昔からまったく! ファンを裏切って排除して馬鹿にするようなことをして誤りもしない! 相変わらず、なんて非道い人たちだろう!」

「これだけの罪を背負っているから、それを償わなきゃいけないから、あなたたちは途中まで幸運の波に乗り花道に辿りつくことが出来た。けれども、これだけの罪を背負っているからこそ、途中から壁に阻まれて上手くいかなくなったのだ。そしてあなたたちが本当の意味で過去を反省し、自らの生き方を変えないことには、あなたたちが目指すところには行けず、世界進出なんて夢のまた夢だろう。何故なら、被害者たちは今もあなたたちを赦してはいないからだ。今もあなたたちに怒っているからだ。真の意味で償いの人生を生きられない限り、あなたたちの船は泥船となり、何処にも行けないだろう」

「自分に目障りなライバルを蹴落とすためにあなたが何をしたのか? 自分よりも綺麗な彼女たちを妬んで、引きずり落とすために散々汚い手を使って、罠を仕掛け、その嫉妬深さから…あまたの女性たちを輪姦させて手足をもいで豚小屋に貶めて、恥辱と糞尿まみれにしたあげく酷い殺し方をして! 彼女たちの顔も身体も引き裂いて、綺麗な衣装をその身から引きはがして貶めた癖に! なんであなたは、今生の整形顔を「私キレイでしょう?」なんて能面みたいな顔を晒してるの? きらびやかな衣装に身を包んで、不遜な態度を取ってるの? 偉そうに伝統芸能の良さを語る口なんてもってないくせにっっ 顔や容姿を化粧やコスプレ衣装で取り繕っても、あなたの心はあの頃の醜い心のままじゃない! 自分が目立ちたくて、神輿に担がれたいだけの目立ちたがり屋なままじゃない? 様々な人生でたくさんの人を嬲り殺しにしてきたあなたが、スポットライトを浴びて悦に浸るような仕事をする資格があるとでも信じてるの? 私の顔を焼いて、目を潰して、たくさんの人の手足を奪って、かたわや障碍者にして、人としての機能を奪ったくせに! その反省も後悔も罪悪感も無いままに、今生でも障碍者を差別するのね?」

「何が日本の良さ、伝統を世界に伝える、だ! たくさんの人から、その伝統を奪って、炎で焼いて、その足で命を踏みつけて、人の想いや尊厳史、生活や歴史を踏みにじってきた癖に! 芸を売る人々を蔑んで、下に見て、彼らから生きる糧も技術もその腕も、奪ってきたくせに! そんな大層なことを言ったり、する資格があるとでも? 無論、罪滅ぼし、贖い、贖罪のためにその道を選んだろうが…そのことも忘れて、なに舞い上がって天狗になってんの?」

そんな呪いみたいな言葉がもう…延々と語られてくると言うか…とにかくたくさん降ってきて、想いとして届き、湧いても来る。この思念、言葉を吐き出したくて吐き出したくて仕方なくなる。でも、それは不毛な行為。
行動に移すことは、単なる難癖付ける行為で嫌がらせでしかないですもん。

被害者の一人としての私の言葉、そして多くの血を流し、彼らに怨恨と憤怒を持つ大量の人々の…被害者同盟としての悲鳴のような叫び、嗚咽と嘆き、血を吐くような慟哭。

けれど、一つだけ、これまでとは違って、今まではもう怒りと憎しみと恨みでいっぱいいっぱいで、感情の嵐と言うか波と渦に飲まれて翻弄されてしまっていたところ…今回に関しては、少し客観的と言うか、俯瞰的にこの感情の塊…この言葉を外から眺めていたところがあったんですね。まるで、誰かが耳に囁いているような。はい、他人の言葉を聞いている感覚。
その時に自分がこの負の感情…グループ・エレメンタルから離れつつあることを自覚出来ました。まあ、自分の中に「在る」ものだけれど、支配されることが無くなった…という感じでしょうか。

ふとこれが出てくる時、「うー」とは思うけど… 
前ほど、怒りと憎悪と恨みに取り憑かれた亡霊、モンスターにはならないってところですかね。彼らを裁くのは私では無い。彼らがいつか…思い出した時に罪悪感に苦しむことだから。

そうですね。今までは、サイコセラピストかつスピリチュアリスト、ヒーラーたる霊的真理の探究者としての私を含む職業人としての私と、個人としての私自身の人格と言うのは、ものすごく乖離していたように思います。
けれども、少しずつその距離が近づいて行ってる。そんな気がします。勘違いかも知れないのですが…。
もっと頑張って、色々なものを捨てて、完全に一致させないといけないわけですけどもねっっ 完全に排除出来ているわけでは、まだまだ無いと思いますので。

まぁ、プライベートで出会う人に対しても、クライアントさんに対する目線と同じに見れるようにはなってきたのかな…お隣さんに対しても、クライアントさんでは無いけど、クライアントさんとして、その存在を考え、理解する視点を持てたし。
そうするってーと、イヤな人がいなくなり、イヤだなあ…と思う事が無くなりました(たぶんw)。憎しみとか怒りとか、恨みとか、嫉妬や羨望とか、そのようなものを通して人を見ることも無くなり…誰のことも許せるようになったと言うか、心の許容範囲が増えて、過去の様々な出来事やまだ抵抗があって拒否ってた人たちのことも赦せるようにもなりました。

不思議なものです。そして私にとっては大きな内面の変化で、徐々に段階的に起きた意識改革の一つでした。

さて…一か月だけ、ネットフリックスを契約することにしたと言うのを、以前に書きましたが。先日「300〈スリーハンドレッド〉」と「300 〈スリーハンドレッド〉 〜帝国の進撃〜」を見まして… 
と言いつつ、この映画の内容のことでは無いんですけども。

困ったことに、と言いますか、私の特質として…それが仕事にもなっているわけですが…私は他人の過去生の情報を読み取るのが得意だったりします。するってーと、他人の過去の悪さ…すなわち悪行三昧とか解っちゃうこともあるわけです。
仕事の場においては、私と言う個人の感情や思考を脇に置いているというか、個人的視点の枠組みを完全に外して、淡々とロボットみたいに対応しているわけなので、その方が犯した罪とかに「私個人」として反応することは無く、完全に「明け渡した」状態の別人格として、セラピーもワークもアプローチもすべて行えるわけですけども… やはり一個人の私に戻ってしまったときには(仕事の場以外のプライベートで接する人に対しては)、どうしても個人的感情が反応してしまって、前述した「とある人々」に対して被害者としての感情を爆発させたように、反発心や嫌悪感を抱くことも困ったことに多々あったのですね。

そうすると、日常生活には支障があるわけです。相手からしたら、理由なき憎悪や嫌悪感を向けられるわけですから、たまったもんでは無かったでしょう。なので、そのようなものが視えてしまって、フラットに付き合えないなと思ったからには、私から離れることしか出来ませんでした。
今にして思えば、そのような方たちと出逢ったことも意味のあることで、私にとって必要な学びではあったのですが。当時の私は、相手にとっても良くないことだからと、付き合いを断つしか無かったのです。まったく意味不明で失礼なことをしたものですが。

そうですね。下記の内容のようなことを書いていますが、私自身が随分と長い間、他人を「赦せない」人でしたね。被害者意識も相当強かった。

でも、恨みや憎しみを手放せないってことは、本当に辛いものです。それが解るのも苦しいことです。恨みや憎しみは…怒りもそうですが、やはりそれを抱えている人自身を深く傷つけます。誰でもない自分を害することになるし、私に起きた出来事のように、自らに災厄やトラブルを引き寄せる元になります。

で、話戻りまして、「300〈スリーハンドレッド〉」やその手の映画を何本か見た時に、「こうやって、この時代にしても、これ以前の時代にしても、こんな風に憎しみの連鎖が繰り返されているんだなあ」と改めて。
このようなことは、昔から今も延々と繰り返されていて、負のパターンは終わりがないなあ…憎しみは憎しみしか生まないなあ…と…つくづく。
たくさんの人の手が血塗られていて、その罪を贖うためにまた傷つけられて、仕返しされて逆恨みしてまた復讐して復讐されて、なんだなあって。

いつまでも終わらない、ウロボロスの蛇のよう。

"私の信じるところ"
つまるところ、人生とは辛く危険なものである
幸福を求むる者は得られず、弱いものは苦しまねばならない
愛を求める者は失望し、貪欲な者は与えられず
平和を求める者は争いを見出す
真実は勇気ある者にのみ与えられ、喜びは孤独を恐れぬ者にのみ与えられる
そして、生は死を恐れぬ者にのみ与えられる

by ジョイス・ケアリー

で…一昨年位から、人に手伝ってもらって、今更ながら手つかずだった私自身のまだ掘り起こしていない過去生の癒しに取り組んでいたのですが…

それはそれ、過去生でのこと。

ふと…今生の私がおざなりになっていることに気づきました。

医者の不養生では無いですけれど、意外と自分のことは見えないと言うか、見えていないものです。

過去の悲しみ、その原因は解りました。
けれども、それにしても私の中にある、この「怒りの種」「憎しみの源流」はなんだろう? 
昨年末に私が諸般の出来事に対して「怒り」を感じなくなったのは、たぶん過去の問題に取り組んで、長いこと私自身を呪縛していた感情を解放したからなのでしょうけど(それをして下さったMさんに感謝です)…
それでもまだ、何か取り組むべきことを忘れてないだろうか?

と言ったとき、過去の人生では無く、今生にて植え付けられたもの、消えてないものがまだ何かあるなって。
そんなんで、あれこれとトライしてみました。こればかりは人の手を借りず、私自身で取り組まないといけないことのようにも思いました。

すると色んなものが出てきましたよ。父方と母方、両方の、それぞれのご先祖様が創った集合体無意識(グループ・エレメンタル)、父親のもの、母親のもの、あれこれと… 私のエーテル・ダブルにしっかりと食い込んで(深く沁み込んでいた)りなんかして、気持ち悪かったです。

例えるなら、こんな感じでキショかったっっ

これだけの「怒り」の集合体が私の中で眠ってたんだなあ…と気絶したくなるくらいには、ものすごかったです。
たぶん、今だから離反出来たというか、自分から切り離すことも出来たんでしょう。これまでの私は自分と一体化したこれらを、自分とは別のモノとして判別することは出来ませんでしたから。けれど、自分では無い…と、ようやく、自分の一部では無い異質のものだと…自分から取り除くべきものであると言うところに辿りつけたので、ここに「在る」ことを認識することが出来た。捨てる準備が、時期が来たということです。

もちろん、それだけではありません。
今まで私が毒ガスのように放ってしまったもの…自分で創って、他人に放ってしまった悪意とか、怒りや恨みの想念…ナイフや剣、矢のように相手を傷つけた言葉、爆弾や炎のような攻撃的なエレメンタル。これらを改めて始末しないといけません。それと根深い被害者意識も。
そしてそれを送ってしまった相手へのヒーリング。送ってしまったネガティブなエレメンタルを祝福のエネルギー、善きものに代えて返礼すること。それをしないといけない。

怒りの種を愛の種に、恨みの源泉を豊かさの源泉に、憎悪の毒を悦びの香りに、恐怖の根を悦びの花に…幸せと笑顔に満ちた未来の土壌へと…

まだしばらくは掛かりそうですが…まぁ、簡単では無いですね。自業自得な面もありますし、撒いた種は刈り取る。それに尽きます。時間かけて取り組まないといけない課題でもあります。外に求めるなら、まず自分の内面に理想郷は創らないといけません。

ホント、これまでは言葉ばかりで、行動が伴っていませんでしたねw  自分のことは棚上げにして、よくもまあ、自分が出来ていないのに、他人にエラソーなことを賜っていたものです。とにかく実践あるのみ。頑張ります。

そんなわけで、改めてこの大きな気づきに至らせてくれた人々に、出逢いに、出来事に感謝です。お隣さんの心にも平穏が訪れますように。

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