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「合理的配慮をしてもらう」 とは

こんにちは。あすぺるがーるです。


今日は、配慮する側から見た 「合理的配慮」 の話をしたいと思います。



発達障害・精神疾患を持った方が働くにあたって、合理的配慮の有無や質は、仕事のパフォーマンスのみならずQOLにも大きく関係します。

そのため、合理的配慮の必要性が声高に叫ばれるのは、もっともだと思います。



しかし、そのような姿勢を、配慮をする立場の方々がどのように見ているか、考えたことはありますか?



これから私は、1つのたとえ話をします。

ここからの話はあくまでも私見ですが、「合理的配慮」 という言葉が少しでも引っかかっている方々は、参考にしていただけると幸いです。


3つめの梅干し

今日は、とある会社の新人研修。

研修を行うにあたって、新人たちは5人から6人の班に振り分けられます。


その班は、女子の6人グループ。

班内ディスカッションなどで会話を交わすうち、6人は、初対面のときよりは少し仲良くなりました。



待ちに待った、お昼ごはんの時間。

新人全員に、お弁当とお茶が配られました。


そのお弁当のご飯の上には、梅干しが乗っていました。



「私…梅干し苦手なのですが…誰か食べれる人、いませんか…?」

キヨコが、おそるおそる声を挙げました。


「私、梅干し大丈夫だよ。もらおうか?」

そう応えたのは、隣の席のアカリでした。


どうやら、アカリの他に梅干しを2こ以上食べられそうな人は、班内にはいないようです。


「ありがとう!」

キヨコはそういって、アカリに梅干しを渡しました。



それを見た向かいの席のユキエは、戸惑っていました。


実はユキエも、梅干しが苦手なのです。

正直に言うと、梅干しの周りの、梅干しの液の染みついたご飯すら食べたくないほどには、梅干しが大嫌いです。


とはいえ、ご飯を残したら、同じ班の子にどう思われるか分かったものではありません。



班のメンバーは、話した感じでは、みな優しい人のようです。

それでも、変な食べ方をすればさすがに下品だと思われるかもしれないし、ご飯ごと残したら、体調の心配をされてしまうかもしれません。



ユキエには、他の班の人に話しかける勇気とコミュ力はありませんでした。



「アカリちゃん…私も梅干し苦手で…食べて…もらいたいんだけど…」


アカリは一瞬、たじろいだ後、

「…いいよ」

と応えました。



「ありがとう…本当ごめんね…」

「ううん、全然大丈夫」


ユキエは、アカリのお弁当の上に3つ並んだ梅干しを見て、申し訳なさとともに改めて感謝の念を噛みしめていました。


梅干しと合理的配慮の関係

ユキエが託した 「3つめの梅干し」 。

これが、「配慮する側から見た合理的配慮」 の象徴だと思うのです。


合理的配慮そのものは、さほど相手に負担にならないものが大半でしょう。

事実、アカリも梅干しそのものが嫌いなわけではありません。


しかし、アカリが食べなくてはいけない梅干しは、ユキエの梅干しだけではありません。


キヨコから引き受けた梅干し。

そして、自分の梅干し。


1つだけなら平気な梅干しも、3つに増えると、酸っぱさで口が痛みそうになるでしょう。


合理的配慮も同じだと、私は思います。

配慮する側には、私たちへの合理的配慮に限らず、引き受けなくていけないことや、引き受けたいことをいくつも抱えています。


仮に梅干しの一つ一つがそんなに酸っぱくなかったとしても、それがたくさんになると、配慮する側には過大な負担になり得るのです。


合理的配慮は 「タダ」 ではない

「合理的配慮はあって当たり前」

「合理的配慮しないアイツはダメな奴」


そんな態度を取る一部の発達障害当事者に向けた諫めや戒めの言葉が、私のTLに流れてくることがあります。


私も、そのような姿勢は改められるべきだと思います。



相手の梅干しは、3つだけではなく、6つも7つもあるかもしれません。


3つの梅干しのうちのどれかが、おそろしく酸っぱいかもしれません。



相手の梅干しの数や味に全く思いを馳せることなく、相手に配慮を求めるのは、とても乱暴なことです。


合理的配慮には 「対価」 が必要

相手に合理的配慮を求めるには、それなりの 「対価」 を払わなくてはいけないと思います。


その 「対価」 は、お金に限りません。


相手の苦手分野を引き受けること。

自分にできることは、自分でやること。

注意されたことは、改める姿勢を見せること。

最低限のルールやマナーを守ること。


それらの 「対価」 が受けた配慮の量に見合うものでなかったとしても、「対価」 を払い続けることを放棄してはいけないのです。


「対価」 の量は、さほど問題ではありません。

「しているかどうか」 が問題なのです。


私たちが差し出した / 差し出そうとしている 「対価」 にケチを付ける相手は論外ですが、「対価」 を全く払おうとせずに合理的配慮を求めるのも、考えものだと思います。


合理的配慮を求めること自体はOK

とはいえ、相手に合理的配慮を求めることそのものがいけないわけではありません。


梅干し1つはさほど酸っぱくないように、自分がとても苦手なことでも、相手にとってはそこまで苦手ではないことが大半です。


そして、合理的配慮によって自分のパフォーマンスが上がることは、組織全体のパフォーマンスの向上にも繋がるのです。


「対価」 を払っている、払う意思があるなら、合理的配慮を受ける権利は十分にある、保証されなくてはならないものであるということも、併せて伝えておきたいと思います。


さいごに

障害者差別解消法の施行により、企業に対し、発達障害や精神疾患の当事者への合理的配慮や、不当な差別の解消が義務づけられるようになりました。


しかしそれでも、支援を受けるのに「支援する相手」の存在が必要不可欠であることには変わりありません。

とりわけ、その相手が障害者を支援することを生業としていない場合、「支援する相手の都合を考えること」は、合理的配慮を受けるにあたっての必要条件といっても過言ではないでしょう。


もちろん、現に「支援する相手」が障害者側をずさんに取り扱うこともありますし、そこまでいかなくても支援や理解が不十分なケースは、まだたくさんあるでしょう。

(あと、目的が教育という「生徒への投資行為」である学校においては、この話はあまりあてはまらないかもしれません)


しかし、チームが一定の成果を挙げることを求められる組織では、自分の都合ばかりを押し通すようではやってられません。

組織に所属して何かしらの利益を得たいなら、そして障害者ではないメンバーと対等に扱われたいのならば、可能な限り相手の都合に配慮して行動する必要があります。


組織も、社会も、私たち障害者だけではなく、そこにいる全ての人によって成り立っていることを、常に忘れないで行動したいものです。

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