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岩崎さんの居る世界

Wi-Fiの調子が悪いのか、パソコンに表示されたZoomの画面が固まってしまった。いつもなら、焦ってしまうのだけれど、その時はあまり焦らなかった。我が家のWi-Fi回線は二つあるので、違う回線に切り替えてZoomに接続し直した。なんとか上手く切り抜けた。

Zoom上に集まったメンバーで、各々が書いた文章を読み合って感想を述べ合うことをした。テーマを決めずに即興で書くのは久しぶりで、どう書けば良いのか戸惑いながら書いた。こういう時は「書く」ことについて書けば、文章をつくることができることを思い出した。

最近の「書く」はnoteの記事で使う文章をタイピングする程度で、A5サイズのノートに手書きで書くこともほとんどなくなった。A6サイズのスケジュール帳にはメモ書き程度に日々の気づきを記していた。そのスケジュール帳の端に記されたメモ書きが最近の一番の文章量だった。

「以前」と比べる必要はないのだろうが、書く量が大幅に減ってきていた。減ったからといって、何か影響があるのかというと、なにもなかった。書けないというより、書かない選択をしていた。

書くことに、特別な何かを求めなくなったのかも知れない。何かを吐き出す場所として、内省したことを書き殴っていた時期があった。吐き出すことがなくなってくると、必然書くことがなくなってきた。

書きたいことを書けば良かった。過日の「書く」のように、内省によって噴出する感情を吐き出したい訳でははなかった。

私が住んでいた戸建ての家の真向かいに、「マンション」という名詞が建物の名に付けられている、実質はアパートのような建物があった。そのアパートのようなマンションは3階建てで、一つの階に3つの居住スペースがあり、計9世帯が住んでいた。

私の家の玄関から正面を向いて見えるその建物の右側には鉄製の階段があり、その階段を使えば1階から2階、3階へと上がることができた。住んでいる人によって差はあるものの、鉄製の階段を上る音は総じて重厚で鈍く、「トントントン」というより、「ドン、ドン、ドン」という感じだった。

「ドン、ドン、ドン」という階段を上る音は、真夜中にも聴こえてくることがあった。アパートの1階から2階までの階段数は15段だったが、その日の音は「ドン、ドン、ドン、ドン、ドン」で一度止まり、数秒してから「ドン、ドン、ドン、ドン、ドン」でまた止まり、「ドン、ドン、ドン、ドン、ドン」で終わった。一気に階段を上り切る体力がなかったのか、途中で夜空に浮かぶ月を見上げていたのか。寝床で半分眠りに落ちながら耳を澄ませていると、「ギィー」というドアを開ける音が聴こえて、「バタン」とドアが閉まる音が聴こえた。真夜中に帰って来たのは、203号室に住んでいた岩崎さんだった。

岩崎さんは、部屋に入ってすぐ左の壁にあるスイッチを押した。「パチパチパチ」と小さな音がして、蛍光灯の青白い光が部屋を明るく照らした。玄関で立ったまま片方ずつ靴を脱いだ岩崎さんは、壁に手を当てながら少しずつ前に向かって歩いた。歩いている途中で、玄関の鍵を閉め忘れたことを思い出したが、引き返す力は残っていなかった。小さなキッチンシンクの前を通って、布団が敷いてある部屋に辿り着いた。手に持っていたジャケットを畳の上に放り投げ、布団の上に両ひざをついた。ネクタイを緩めながら今日一日のことを思い出そうとした。「岩崎、良かったな、これでやっと東京に帰れるな」と平田部長が言ったことを思い出した。「やっと帰れる…」とつぶやいた岩崎さんは布団に突っ伏した。靴下を脱がないと…と思いながら、記憶が薄れて眠りの中に落ちて行った。

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眠れない夜に

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