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とりあえず自己紹介から。初投稿。

近々参加するnoteのイベントのために、数年前に登録したきり使っていなかったこのnoteのアカウントにアクセスしてみた。何か記事を!と思い立ち、あれこれ考え思い悩むも最初の投稿として、結局、自己紹介することにした。こんな普通な人間の半生、だれが読んでくれるのかと思うのだが、こんなにさらけ出したこともないので、一度吐き出しておこうかと。

わたしは、今、45歳になる。現在は、株式会社エヴォワークスというWEB制作を中心としたプロダクションの代表をしている。と同時に、「SUPER goen゜」というen゜側(goen゜という森本千絵主宰のクリエイティブ集団のちょっと外側)メンバーでもある。その他諸々あるが、ゲーム業界に10年、WEB業界に15年。一夫一妻に息子が一人の3人の家族構成。

さて、どこから自己紹介をしたら良いのか、45年というとそれなりの人生なので、もちろん紆余曲折あり、山あり谷ありの人生でしたが、まだこれから残りの人生、あと、2、30年くらいはあると思うので、ざっくりと語れたらよいかなと思う次第です。

誕生〜幼少期

はっきり言って覚えていないことが多い。記憶から抜け落ちている。写真や映像などもほぼない。比較的裕福な父(父方の家系)とごぐ普通な家庭の母との長男として、「山陽新幹線、岡山・博多間延伸開業で全線開通(3月)」した年、1975年に生をうけた。そう、その岡山で。倉敷で。その当時、親は、東京の小金井というところに住んでいたと聞いているので、3月生まれのわたしは、里帰りを開通したばかりの新幹線で往復していたのではないかと。

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↑まぁ、とにかく小兵力士のようで、白ぷにぷに。羽二重餅のよう。

そこから父親の転勤などにより、大阪の箕面(後に菅田将暉が生まれる)に住んだり、埼玉の所沢(ライオンズファンだったかと)にするんだりと。まぁ、何不自由無い生活が幼稚園くらいまで続きます。たぶん、父方の家族の影響というか、それなりの家柄だったため。

その頃は、こんな感じ。

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足に大火傷おったくらい以外は大きな事件もなく平々凡々に過ごせた幼少期かと。うっすらとした記憶がないのだけど、割とよいお家に住んでいて、革の大きめのソファーとか高級そうなテーブルとか机とか。黒塗りの車とか。はっきりとは覚えていないけど。蛍光灯よりも電球ランプが多かったのは記憶の色味から辿れる。

で、3歳になるころに妹もできてました。兄妹。

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で、あまり記憶のない幼少期(小学校まで)を無事に過ごていましたが、突然の両親の離婚!!!ま、この辺の記憶も何故か抜け落ちている。とにかく、そのタイミングで母と妹とともに岡山の倉敷という場所に移り住みます。岡山に向かう新幹線での母との会話だけは鮮明に覚えている。

今となっては、親の離婚に関して特段なにか思うことも、寂しいとか憎しみとかもないのだが、とにかく父親像というものが皆無にひとしく、自分が父親になった今、参考にできる身近なモデルがいない、且つ体験が無いに等しいため、息子に対しての言動に幾分か苦労しているくらい。たぶん、当時は当時で楽しい時間もあったと思うのだが、こればっかりはなんとも思い出せない。仕方ない。脳は、うまくできているのだ。

幼年から少年に羽ばたくためには、必要な脳処理だったのかと今になって思う。

少年期

倉敷という田舎で過ごしはじめた小学校1年。転向した1学期は、「池田」という姓を名乗っていたのだが、夏休みを挟んで、これまた急に「矢野」と名乗らなければならなく、その頃は、少し苦い思い出がいくつかある。

① 東京弁(標準語)と岡山弁
とにかく言っていることがわからない。「〇〇じゃー」「〇〇じゃけん」いうのはまぁ、語尾につくだけなのでほぼ問題ないのだが、「ぼっけぇ」「でぇれぇ」で完全に???、「いのーやー」でも???状態で、「あんごうやのぉ」なんて、さっぱりでした。子供から自分のこと「わし」というし、おなごは、「うち」が基本。その頃、裏山のオシャレな家(三角屋根の建築家が建てた家のような)に住んでいる「うのくん」という友達に少しずつ教えてもらった。のび太くんみたいな子でとても優しくて物知りだった。救われたな。何してるんだろ?
とにかく、「いねや!」と言われてもさっぱりでポカーン状態。あっち行けと言われてるのだが。たぶん、ハブ(のけもの)にされていたり、まぁ、今だったらイジメだ!って言われるくらいの扱いだったかも。一時だけだけど。ま、おかげでこの時期に相当タフになれました。

② 姓の問題(池田→矢野へ)
とにかく小学校1年には酷でした。ほんとオススメしません。学期をまたいでの姓の変更は。からかわれる。ネタにされる。無邪気という名の言葉の暴力というか、田舎ということもあり、とてもダイレクト。3組に1組は離婚なんて言われている今では、さほど驚かれもしないかもですが、田舎町に東京から出戻り(母もそれなりに辛かったでしょうが)で、その当時は、姓の変更なんて皆無。だれも共有できる人がいない。だからよくバカにされました。ただし、自分の性格があまり動じない、ま、鈍感な部類なのと、低学年ということもあり、いつの間にかにというか、2年にあがるころには、「池田」が忘れ去られました。よかったよかった。

小学校は、低学年はまぁ大変でしたが、最終的には、児童会長になったりと、それなりに順調にすくすくと大きくなっていきました。身体の大きさに比例して、徐々にいじられることも、ハブにされることも、異国人扱いされることも、からかわれることもなくなり、野山をかけまわり、虫を取り、焼いて食べたり、今で言う「昆虫食」などが日常でした。岡山名産の「白桃」や「ぶどう(マスカット、巨峰)」がその辺の畑にたんまりと美味しそうに実をつけていたので、農家さんのお断りも得ず、拝借しまして食していたり、基地を作っては、家から色々持ち込んだりして、よくばぁちゃんに叱られていました。いわゆる田舎のガキンチョまっしぐら。この当時は、カメラを撮影する、撮られるということがほぼなかったので、ほんとに写真がない。写真がでてくるのは、ちょっと色気付いてから。

青年期(中学〜高校)

無事に小学校を卒業し、中学に入る。当時は、ヤンキー全盛期。みんなの愛読書はビーバップか湘爆。中森明菜にミポリンに後に工藤静香。とくに田舎のヤンキーにとっては憧れのアイドル。だいたい部屋には、ヤンキーねぇちゃん風のアイドルポスターが天井に貼ってあった。わたしは、公称では、中森明菜派でしたが、実は、ミポリンからの南野陽子。ま、これは小学5年〜6年かな。中学にはいると近場の女の子にしか目に映らなくなる。もちろん私立小中高一貫教育みたいなところは皆無で、公立小中は学区制で大体先輩後輩のご縁がずーっと続く。なので、中学でちゃんとポジショニングしておくと、後から入ってくる妹も自然といいポジションが確約されるという。よくある話。なので、精一杯いきがりましたよ。それなりの反抗期とともに。

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↑法的にクリアしている写真なはず。ソフトなはず。

当時は、いったい、なにがしたかったのでしょう。でもすごく楽しかった。間違いない。それなりに喧嘩もしたし(ド付き合いから抗争と呼ばれるものまで)、木刀持って何故か電車乗って岡山の某中学に向かって〇〇したり、先輩にもらった短ランが嬉しくてずっと洗濯せずに着続けたり、ブルーハーツ(甲本ヒロトは、岡山出身!)やユニコーン(主にMaybe Blue)聴いたり、1980年代ヤンキー文化を謳歌してました。いわゆる不良グループに属してましたが、麻雀のうまいちょっと頭のよい真面目な奴とも徹マン(徹夜で麻雀)して過ごすこともありました。時効にはなりますが、バイクにもしっかりと毎夜、乗らせていただきました。原チャですが。先輩のやかましいバイク(CBX400だったかな。直管で三段シートのまぁよくあるやつ)に乗せてもらったり。ま、迷惑かけ放題の極み。彼女もいた。どヤンキーではないけど、やっぱり長いスカートにスリッポンというか基本履きつぶし。まぁ、ヤンキーネェちゃんですね。一般には。そんなこんなで高校に行けるのか心配でしたが、やる時はやる方なので、ちょいと勉強して、普通にやれば、ほぼ100%受かる公立の高校に行き、ヤンキーも無事卒業となりました。ボンタン、スリータック、カバンも持たなけりゃいいのに、妙に薄くして(教科書なんて入らない)スチールが入っているカスタマイズ。絶対パチもんのセリーヌの細ベルト&デカバックルなんて、、、。学ランの裏地の刺繍も高いのなんの。オシャレまっしぐら。まぁ、今思うと狂気でしたね。

高校に入ると、基本、賭け事三昧。こっそり友人のお好み焼き屋でバイトしていたお金も全部、麻雀、競馬、競艇。これは、友人の協力あってこそ。正確には、友人の親の協力。色々いたのです。わたしが住んでいた地域には。
学校は、まぁ、真面目に行く方。気の合う友達がやっぱりいたから。自転車通学なので、朝マックして、コーヒー持ち込んで登校が日課。遅刻しようが街中でたまに絡まれようが、なんとか学校には通っていた。成績もなんだか、友人の協力もあり、中の下くらいをキープ。とはいえ、大学進学は、正直厳しいレベル。何をするわけでもなく、たまにバスケしたりカラオケ(倉敷のカラオケボックスは、ほんとのボックス。貨物列車の荷台を改造したものが街中にあったのよ。ほんまに。)したり、地元ではよくある一般の高校生。だったと思う。賭け事以外は。ひとなみに恋愛もしたし。

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↑こうして写真見ると、、、なぜかセンターに居がち。目立ちたがりやではないと思っていたし、今もそうだと思うのだが、なんなんだろう。気を遣ってくれた撮影者にありがとうと申したい。まじめな格好になったものだ。

あっという間に高校3年間が過ぎ、いざ大学へ!といいたいところですが、世の中そんなにうまくはいきません。挫折です。挫折とも思っていなかったですが。

浪人から大学へ

わたしは、現役の時、記念受験しました。そうです。無駄でした。東京ひとり観光と関西ひとり観光しました。数十の大学受けましたが、もちろんさっぱりです。そりゃそうです。真面目に必死に勉強して受験している人に勝てるわけありません。気合もなけりゃ、なんとかなるだろ?的な感じで受けちゃってました。わかっていました。すみません。

ですが、その時の東京が楽しすぎて、結果、浪人(東京の予備校に通う)することにしました。親のすねかじりです。自分では勉強の仕方も面白さもわかりません。偏差値30台だったので、合格圏の大学なんてほぼないです。それでも駿台予備学校という学校が快く引き受け入れてくれました。んな僕でも。お金を払ったので。親が。ありがとう。

で、何がきっかけで火がついたかわからないのですが、予備校に通い始め、そこから365日、ほぼ毎日朝5時に起床して、朝勉強、通学勉強(暗記)、予備校でも勉強、終わってマックで勉強、家(親戚の家)でも勉強というルーティンができあがってしまい、遊びもまったくせず、ひたすら勉強の毎日。ガリ勉。そんなこんなで偏差値が、半年で30台から70台半ばまであがり、都内有名大学も射程圏内に。予備校の先生に話がある!と呼ばれて、成績アップの理由を聞かれるくらい。ビリギャルというのがありましたが、わたしも負けず劣らずだったかと。ま、現役ではないので、逸話にもなりません。全国模試で10位以内となると、それなりに周囲の期待も高まります。その勢いに乗って、有名私大を受けまくり、結果、全制覇の偉業達成!!!とよくある話とも思うのですが、東大だけは、違うなぁと。問題のレベルが違うというか。1年じゃ無理だなと思い知りました。そんなこんなで受験戦争を勝ち抜き、無事大学生へ!わーい。

やりたいことだけやってた大学生活

自分の通った大学は、慶應義塾湘南藤沢キャンパス(SFC)の環境情報学部でした。当時、早稲田の政経という第2志望(合格済)と迷った末、なんか面白いことがありそうという理由でSFCを選択。そう、あこがれのキャンパスライフ。思い描いていた海の側(湘南だしね)にあるオシャレな建物に通うオシャレな学生(国際色豊か)たち。いやー、勘違いしてました。

まずは、この大学のこのキャンパス。遠いです。湘南の匂いが全然しません。馬糞なのか牛糞なのか入学した当時、とにかく田舎で嗅ぐ匂いにゲンナリです。なんだろ?受験会場は、三田という都心のど真ん中。パンフレットにもコンクリートうちっぱなしのなんか近未来的な建物ばかり。諭吉先生を中心とした建学精神にも惚れ込み、新しい未来を感じていたのに。ほんまに想像と違う。いや、違わないのだけど、なんだか隔離されている施設感が半端なくて。思い描いていたキャンパスライフと違いました。田舎に逆戻りです。一人暮らししたのは、「長後」という全く聞いたこともないところ。最寄りの駅名は、「湘南台」というちょっとオシャレな感じなのに、何もない(当時はほんとなにもなかった)ところ。もう拗ねるよね。一応、サークルなんぞに入ってみて、他大学とも交流して彼女とかも作ってみるが、なんか違う(笑)置いてきぼり感ハンバない。なので、速攻でバイクの買いました。5年ローンで100万近いバイクを。なんか走りたくなったのよー。

そんなこんなで、1年終わり頃には、長後とは分かれを告げ、わざわざ都内の下北の方に引っ越しすることに。バイクで毎日、神奈川のハズレの湘南台まで通学。まぁ、帰りたくなくなるよね。。。なので、友達の家に泊まったり、学校に泊まったりと。わりの良かった家庭教師をして日銭を稼いで暮らしていました。

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↑思い立ったら吉日。なりゆき東北一周ツーリング(どこかの原っぱで野宿)

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↑卒業式後の謝恩会かな?たぶん、横浜ロイヤルパークホテルかな。ホストだな。


そうこうしているうちにあっという間に大学生活も終わりを迎える。いや、この4年間は、今の自分の基礎、土台を作ってくれたので、ここでは語りきれないので、また機会があれば、思い出整理しながらまとめてみたい。たぶん。

ということで、駆け足で自分の半生を振り返ってみたが、やっぱり記事にしてよんでもらえるほどの波乱万丈で面白いものではないが、、、とにかくわたしは、縁に恵まれている、人に恵まれているのは、確か。その辺をもう少し今後掘り下げていきたい。もうすぐ始まるnoteのイベントのための記事を準備しながら考えていくことにする。

ということで、明日は、2020年12月1日。

今年もあと1ヶ月。

よろしくです。


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