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不便だということ |「ということ。」第20回


 いろんなことごとが私の気持ちをかき乱し、ぐちゃぐちゃとした乱暴な感情があふれるとき。ああもう最悪だと思いながら、一方で、心地よさがあるのはどうしてだろう。

 例えば、今。自分勝手な周囲、自分の将来、両親の健康、金銭的な余裕、そんな、考えているだけではどうしようもない不安が立ち込める胸の中で、けれど私は、苦しさこそあるが快適だ。ちょうどいい。こうして夜に書き物をするときはなおさら、すこし気が触れているくらいがいいのだ。

 最近の悩みの一つといえば、「幸せだ」ということだ。とりわけ恋愛において。ふらりふらりと遊んだ時期もあったが、今は本当に落ち着いている。人格者までいうと大げさだが、浅ましさのない自慢の恋人とは、互いに相手を他人だと理解した上で一緒にいる。付き合い直して(復縁した過去がある)半年以上経つが、セックスは一度もしていない。けれども、浮気やマンネリの心配も一切ない。今までの私には考えられないかたちでの幸福なのだ。過不足のない、幸せ。

 こんな環境になると、お世辞でも「幸せそうね」「羨ましい」と言われることがないわけではない。事実、そう思う。私は感謝すべき立場なのだろう、恵まれている。けれど、毒気が抜かれたような、平和ボケのような、大きな空き箱をただ持たされているだけのような、生きている手応えを感じない。例えるなら文化祭で名ばかりの実行委員が感じる、あの所在なさ。

 どうにか満たされたいのに、いざ満たされると人は考えなくなる。元来、欲張りな性格ではない。もっと貪欲に生きられたなら、私の綴る言葉も違っただろうか。

 つまるところ、私の場合、ほんのちょっと不便なくらいがいいのだ。気に入りの洋服がまだ乾いていないとか、買いたい本が店頭に並んでいないだとか。あるいは冷凍した白飯のストックが切れたり、燃えるゴミの日に寝坊してしまったり。そしてときどきは、今日のように感情任せに退社する日があってもいい。これまで甘えるのを避けていた母に電話してとりとめのない愚痴を聞いてもらい、躍起になってコンロの掃除を始めるのも。

 こんなことを書いて、一体何になるのだろう。けれど、一年後、五年後、十年後、そのときの私がこれを読み返して笑い飛ばしてくれたらいい。麦酒片手に「馬鹿ね」と笑い、「これ阿呆みたいじゃない?」なんて恋人にも読ませて。「俺、人格者でしょ。かなり」だなんて真顔で言うのを、また笑って。きっと、そういう日のために不便はある。






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