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血と砂

 噂には聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
 千葉県八街市の妻の実家に帰省中、洋は砂嵐に巻き込まれた。外国の砂漠ではなく、間違いなくここが日本である証拠に、車の外には砂で霞む日本家屋が見える。
 車を道端に止めやり過ごすしかない、と妻が忠告する。砂塵で立ち往生。そんな滅多にない経験が出来たのは、街中いたるところにある落花生畑のお蔭だ、と妻が教えてくれた。畑の土が乾燥し、砂になり、春先の強風で砂嵐となる。原理は実にわかりやすいが、対策の立てようがない。街としても、落花生という名産品を捨てるわけにもいかない。つまり、住民には多少の不便は我慢してもらうしかないというわけだ。
 洋はハンドルに手を置き、空を見上げた。茶色い膜に遮られ太陽が月のように白かった。砂の隙間から青空が見え隠れしている。砂が作り出す膜にはむらがあるため、遮る陽の光に濃淡を作り出し、まだら模様の陰を車内にうねらす。洋たちがいる場所は、一本道で、その両側には畑が広がっていた。道の脇には徘徊する野良犬の陰がぼんやりと見え、規則正しく立つ電柱が見える。風は電線を揺らし、車も揺らす。砂粒が車体に当たって弾ける音が車内に響くと、助手席の妻が震え始めた。最近は少しでも動揺すると後は惰性で精神が不安定の縁まで行ってしまうが、洋は妻をそのまま放置した。妻の狼狽ぶりを見ると、不快な砂粒の音が洋には心地よく聞こえ始めた。情けない話だが、洋は妻とその実家には常に主導権を握られ、踏みつけにされてきた。そのため、強気な妻が取り乱す姿を見るのは気分が良かった。が、同時に憐れみも感じた。そして、最近の憐れで不安定な彼女のほうが愛しかった。考えてみれば妻はまだ二十五歳。我の強ささえ無ければ、五歳年上の洋にとってはまだ幼い存在だ。
 この砂嵐は、何分ぐらいで収まる? と洋が妻に聞く。
 たぶん、だいぶ長い、とだけ妻は答えた。
 だいぶ、か。と洋は返す。
 砂が茶色い膜を作り出し、うねる。洋はシートにもたれかかり、砂粒が鉄をなぶる音だけを聞く。
妻の精神状態はあまり良くないし、これから何がどうなってしまうのか以前は不安だったが、最近はだいぶ楽になった。もうただ目を開けて、この状態を続けるしかない。そう覚悟を決めると、心が楽になった。洋はもう三十代になった。道は徐々に狭まり多くはなくなる。それが、むしろ楽だった。ただ進めば良いだけだ。
 お天道様が真上だ、と妻がぼんやり呟く。時計を見ると、確かに正午だった。風で車が振動すると、ダッシュボードの上に固定されたマスコット人形の首が小さく揺れる。砂嵐が激しくなるにつれ、砂の膜が厚みを増し、陽の光を弱くする。期せず訪れた天候の変化は、洋を妙に高揚させた。洋が妻を抱き寄せると、妻は身体を強張らせたが、すぐに脱力した。妻の従順ぶりが心地よかった。洋は妻に対して引け目を感じていた。根拠のない自信に満ちている妻を前にすると、自分には人間的に劣った部分がある、という気分にさせられていた。だから、妻を抱くと何か自分が尊いものになった気がした。妻は子供のように洋にしがみつく。最初はすがるような目に満足していたが、妻が突然笑い始めると、心が乱された。笑う妻が、あんたはどこにも行かないはず、と言っている気がして、洋は急に恐ろしくなる。砂嵐がさらに激しくなり、陽の光がさらに弱まると、まるで日蝕だ、と洋は呟いた。不穏な空気のせいか、急に昂ぶりが醒めたので、洋は妻を引き離す。妻はたがが外れたように笑い続けていたが、車内に濃い陰が差した瞬間、笑いを止め、ささやく。
 あんたには私を満足させられない。
 妻は人差し指で洋の首筋を弄る。風が弱まり、陰が少し薄くなった。妻の指先には独特の湿度があった。人差し指にまだら模様の陰が這う。まるで水底にいるようだった。洋は無意識に妻の鼻のあたりを殴った。鼻が折れたらしく大量の鼻血が出た。妻は悲鳴を上げた。血に咽かえりながらドアを開け、砂の中へと消える。
 洋は妻を追って、車の外に出る。一瞬で砂に呑まれ、砂粒が皮膚に食い込んだ。粘膜にも入り込むので、目が開けられない。洋は車の中に戻る。妻はどこにも行かないだろう、と思った。抱きつかれた時に分かった。こちらから離れらないのと同様に、妻も洋から離れらないだろう。
 どれくらい時間が経ったのかわからない。周囲が静まり返ったので、洋が外を見ると、妻が畑の上に呆けたように座り込んでいた。もうすでに砂嵐は止んでいたが、大気は薄茶色に染まっていた。妻はぼんやりと宙を見つめている。鼻は曲がり血がまだ流れ続け、砂と混じり合い泥のようになって服に付着していた。何かがおかしかった。妻は以前の妻ではない。精神的に不安定になり、弱くなっている。だから、洋は妻を心理的に支配できると思っていたが、むしろ逆だった。
 砂嵐は去った。思い通りにならないもどかしさとともに、洋には妙に満ち足りた気分があった。血と砂に塗れた妻の姿が美しく、愛おしいと思った。とにかく、妻とともに生きていくしかない。この状態を継続していくしかない。そこに何があるのかは分からないが、生きていくしかない。その言葉を洋は祈りのように繰り返す。道は多くない。ただ道を進むしかない。
 洋は車の外に出た。猛烈な砂の匂いを嗅ぐと、妻を迎えに歩き出した。

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