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『発酵』×『ジェンダー』 農村における主婦の誕生と味噌の製法の関わりと伝統

コロナ禍は非常に厳しい状態で、なかなか普通の発酵コンテンツを書くタイミングを逸していましたが、今日は発酵です。『発酵』×『ジェンダー』で組み合わせるお話。

と言っても、今日は本の感想と紹介です。ご紹介するのは、矢野敬一著「家庭の味」の戦後民俗誌―主婦と団欒の時代 (越境する近代)という本、

『主婦』『家庭』の誕生を書いた本ですが、その流れの説明として、味噌の製法の変遷が載っていました。

元々、この本を手に取ったのはnoteに、個別の発酵食品の歴史でも書こうと思ってたところだったのですが、思いもかけず、ジェンダーとも関わりを持ちました。発酵って本当に間口の広い学問。

農村部における変遷なので、都市部には当てはまらないところもあるとおもいます。戦前までは農村では味噌の製法は、いわゆる『味噌玉』式であることを紹介しています。

味噌玉での味噌製造は発酵の泰斗、小泉武夫先生のサイトの記事に詳しいです。

そして、味噌玉というのは年数がたってくると、どんどん色が濃くなります。そうすると、黒い味噌玉を吊している家ほど、備蓄能力=財力があるとみなされるようになります。ちなみに味の方は、非常に塩辛く、現代の感覚では美味しくないものです。また、現代の感覚で見ると、衛生面からも劣るものではありました。

この味噌玉づくりを含めて、戦前までの農家では『家事』の概念が成立していませんでした。種付けから収穫、精米、貯蔵、調理までが一貫した流れで、農作業と調理が概念として未分化。

また、味噌造りなどにおいては、近隣で1つの釜で作業しており、昭和に入るまでは各家庭で釜を持って作ると言うことは無かったようです。そのため、扱う大豆の量なども当然大きくなるので、非常に重労働であり、そこでは、男女の別なく労働力だったようです。また、食事自体も『美味しさ』を求めるレベルで無く、「黙ってさっさと食え」という作業でしかありませんでした。

ところが、戦後、栄養学などの観点が移入され、現在のような、麹と大豆を混ぜて入れ物に入れて発酵させるタイプの味噌造りが、『味』『栄養』『衛生』の面から称揚されるようになります。『栄養』面からは、味噌造りの過程で、カルシウムの添加なども推薦されたようです。

『作業としてさっさと食べる食事』から、『家庭で楽しい会話を弾んで美味しい食事』へ転換し、『家族の衛生健康、栄養に配慮する役割』が求められ、『家事』そして『主婦』の概念が誕生します。食事においては『農作業』から『家内領域』が明瞭に分離し、一家の食事を司る役割としての『主婦』の誕生です。

もちろん、その『主婦』の誕生は性別役割を固定するものではありました。しかし、一方では役割が与えられたことにより、『嫁』という立場が『姑』から逃れ社会参加する切っ掛けになりました。そのベースになったのが、生活改善グループでの講習会、ここで同じ立場のコミュニティが出来、そこでは、調理家電の販売なども行われたようです。ここに、これまでは考えられなかった『嫁が姑を家において現金を持ち出してお出かけ』という現象が発生します。

現代の私たちからすると、ジェンダー役割の押しつけや規範化にも思えますが、これは、当時は『牛馬労働からの女性の解放』、すなわち、重たい農作業から女性を解放するものとして受け止められ、また、女性の社会進出の契機として与えられたようです。

続く章では、実際に個別事例に沿って、生活改善グループでの講習会を通じて、料理のレパートリーを増やし、新しい家電に触れ、都会の情報を手に入れていく、女性の社会進出の様子が「おかず帳」の充実を通じて描かれています。

さて、私たちが、今、手作り味噌として作っているやり方は、戦後に大きく普及したものでした。大体80年ぐらいの歴史がありますね。

私自身、今大学院で学んでいることの一つに、『文化』はいつ『伝統文化』になるか、ということがあります。茶の湯も創始者の千利休自身は伝統文化のつもりでやっていないという話を聞きました。(よく考えたら当たり前のことなんですが)

元々農村部では軒先に吊す味噌玉で作っていた味噌、それが、麹と混ぜて入れ物に貯蔵するやり方になったことは、伝統的な製法と評価するかどうか、さらに言えば、『家事は女性の役割』『主婦』という立場の誕生は、日本の伝統的な家族のあり方と評価するか。戦後80年の経過は『伝統』と言って良い時間なのか。

結論は、もうちょっと学んでからにしたいと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683