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元シチズン時計デザイナー・(ママ)フリーランスまでの道のりーこの物語はフィクションではございません

こんにちは!元シチズン時計で、現在フリーランスでプロダクトデザイナーをしている横山友美(TOMOMI YOKOYAMA DESIGN)と申します。今年、38歳で一念発起、フリーランスになりました。周りの同世代のデザイナーは10年前くらいに独立して、めっちゃくちゃ活躍してるので、だいぶスロースタート。しかもバリバリの子育て中ママ。男性の多いプロダクト業界で、スロースタート、女性、子育て中という、なかなかな3拍子取り揃えての独立。結論から言ってしまうと、まだフリーランスになって吉とも凶とも出てない状況なんですが、自分の人生振り返りながら、これからどうしたいか意思表明として記事にしようと思います。今までの記事と全然違った方向性なので、バナーも全く違う印象に。(ともかく目立ちたかったので、ウォーホール風にしてみました。パクリじゃないよオマージュだよ、でもある日別のバナーに変わってたら察してね。)

大学までの道のり

さかのぼることウン十年になりますが、小さなころから絵が好きだったので、安易な感じで美術の道を目指したいと思っていました。高校生二年の進路を決める段階で、絵が好きだから絵描きになろう!油絵科に行こうかな~と思ってました。ただ、すでにすばらしい絵はたくさんあるし、そもそも絵がなくても困らないし、社会から必要とされないのではとぼんやり悩んでました。今考えると、絵画や芸術で社会貢献する方法を知らなかっただけなんですけどね、若かったしアホだったから。ともかく、ちゃんと芸術でお金を稼ぎたい!貧乏はいやだというのが本音です。そんな時、たまたま図書館でインゴ・マウラー氏の照明デザインの本を見て、「社会に求められる芸術はデザインだ!マウラー氏のようなプロダクトデザインがしたい」と思い、デザイナーを目指すことに!!
そこから、デザイン科に受かるべく、毎日早朝の美術室で石膏像のデッサンをしました、、実際、デッサンより、色彩構成が苦手だったので、そっちの勉強もっとすればよかった、、結局、私立の美大のインダストリアルデザイン科に補欠合格するも、第一志望には受からず。あきらめきれずに私立の美大で仮面浪人することに。(仮面浪人時代の大学で衝撃を受けた言葉はこちら)半年間の仮面浪人のあと、親からお金がないからとりあえず学校辞めてと言われ、大学中退して正式に浪人に~(なんと!)
浪人時代は茨城から東京の予備校に週2で通い、そのほかの時間は勉強してました。ちなみに、美大とはいえ、東京芸大以外は学科のウェイトが高かったりするので、デッサンが普通でも学科ができたら合格できたりします。美大専門予備校なんかで、めちゃくちゃ絵の絵のうまい浪人生が落ちたりするのは、学科がネックだったりします。(今は少子化で倍率下がっているらしいけど、当時6倍とかざらだった。)
なんとかかんとか、次の年に金沢美術工芸大学に合格することができました!(高校の恩師は落ちると思ってたらしい)ただ、かなり浪人生活がプレッシャーの日々だったのか、その後ことあるごとに受験の夢でうなされるように、、いまだに。

もう少しで取り壊されてしまう金沢美大の校舎
漫画「かくかくしかじか」にも登場(大学のかくかくしかじか知りたい人は漫画を読もう!)

大学から就職までの道のり

大学に意気揚々で入学したものの、周りはできる人ばかり、、私より発想力も造形力もあって、へこみっぱなしの日々でした。教授からも同級生からも一目置かれてない感じ。課題は楽しいものの、講評会は毎回憂鬱。今考えると、大学時代は競争ではなく勉強・吸収の時期周りが自分よりできるなら、お手本や参考にして、どんどん吸収して成長できる環境、逆に自分が一番できる環境だったら、なかなか成長できないし抜かれる一方なんだから、この環境はラッキーだったかも。当時はゴミみたいなプライドが邪魔してそうは思えなかったけどね。。トホホ。。
そんな中でもギリ腐らずにいたので、教授は見捨てず親切に指導してくれたし、同級生もいいやつばかりでした。最終的に卒業制作は自分の納得できるものができたので、自分的には終わりよければすべてよしかな~と思ってます。ちなみに、もし学生を教える機会がもらえたら、自分のダメダメなエピソードを披露しつつ、劣等感で悩んでる学生を少しでも励ましたい!と密かに思ってます。教育機関からのオファーお待ちしてます!
いきなり卒制の話まで飛んでしまったのですが、就職活動では奇跡的にシチズン時計に内定いただいたので、教授はめちゃくちゃ驚いてました。ちなみに、入社後、面接官だった方に内定の決めてを聞いたところ、母とのエピソードトークだったので、これまた不安になりました。一応、技術は内定ラインに達してたよとは言われたけどね。。

就職してから産後復帰までの道のり

入社時、デザイナーの同期が2人がいたのですが、例のごとく自分と比べてしまって、なかなかしんどい日々。(大学時代と同じパターン)ともかく自分のデザインが選ばれないと、やることがないので、最初の2年くらいめちゃくちゃ焦りました。若い子向けのブランドを一人で担当させてもらえることになって、ようやく自分のデザイン部でのポジションがわかり、だいぶ楽になりました。だんだんと求められるデザインができるようになってきたのも大きかったです。
一方で、このまま求められるデザインを模範解答のように作り出すことに不安になったりして、同級生とユニットを組んでコンペに挑戦したりもしました。今考えると、思ったようなクリエーションができないストレスの発散で活動してたと思います。なんやかんやで、3年ほど活動しましたが、相方の大阪への引っ越しを機に解散。お互いの熱量や方向性、タイミングが合ってないとなかなかユニットはしんどいなと痛感。かといって自分一人でやる勇気もなくて、もやもやする日々。ある日、飲み会で先輩から「仕事辞めるなら、次何やるか決めてからにしないと後悔する」と言われたことに共感して、フリーランスで何をしたいか決まるまでは、フリーになれないと決心。
実は、会社は仕事のやりがいもあり、人間関係もめちゃくちゃよかったので、やめる理由がなかったんですよね。自分の結婚・引っ越しでお金もなかったので、安定収入は捨てられなかった。
ユニット解散後、妊娠・出産とライフイベントが続き、ますます自分の思い描くデザイナー像や会社での出世から離れていく焦りがましました。同年代のデザイナーがミラノサローネに出展したり、賞をとったり、華やかな一方、自分はただ会社員として働くだけ。しかも、産休で休む間にどんどん同期から差をつけられて行っている。今の状況を何とか逆手にとって、ともかく何かしなければと思いました。思いつくのはやはりコンペ。育児休暇の間に、コンペに挑戦しようと決意。当時、東日本大震災がまだ記憶に新しく、子供にもしものことがあったらという不安な気持ちも抱えていました、そこから、母親でなければなかなか思いつかないデザインがあるはずとアイディア出しを始めました。いろいろ調べる中、PVC(塩化ビニール)アワードが目に留まり出してみることに。会社で使っていた3DCGソフトは高価すぎて、とても購入して自宅で制作できない。そんな制約の中、イラストで何とか内容を表現し、一時審査を通過することができました。しかしながら実物サンプルを製作してくれるメーカーさんが見つからず、自分で製作することに。。子供が昼寝している合間に作業するのはかなり大変でした。苦労のかいがあり、優秀賞をいただくことができたときには放心でした。ちなみにメーカー訪問や、授賞式には抱っこ紐に子供入れて参加。

PVCアワード優秀賞の作品
災害時に空気を入れて防災頭巾になるレインコート

復帰から渡米までの道のり

そうこうしている間に、保育園が決まり職場復帰しましたが、そこからはかなり怒涛の日々で、正直最初の一年はあまり覚えてないです(笑)。ともかく仕事と保育園と家の三角形を自転車こぎまくってた記憶だけ。復帰後新しいデザインチームに配属され、一から人間関係も構築しつつ、中国に出張したり、大きなプロジェクトに参加したり、なかなか自分的に踏ん張ってました。ちょうどプロジェクトが一山超えたところで、夫のアメリカ駐在にともない、アメリカに引っ越すことに
周りからは羨ましがられるも、アメリカでは仕事ができなかったため、めちゃくちゃ頑張ってたキャリアが強制ストップ。気持ちの糸が切れてしまい、充電期間とわりきってゆっくり過ごすことに。ただ遊んでるのも何なので、地元のカレッジ(単科大学)の無料で受けられる英語の口座を週5で履修。あとは、学生が無料で使えるパソコン部屋のPCで3DCGソフトの自主トレしたり、趣味のバレエの現地スクールにいったり、自由気ままに過ごしてました。渡米中に第2子も生まれ、充実しつつ、平和な約3年はあっという間に過ぎました。(後半はコロナであまり外出できませんでしたが)

サンフランシスコに旅行中の写真(私はうつってないけど)
ラ・ラ・ランドで有名な小さな電車

渡米中、心に残ってるのは、意外にも日本放送局で放送していた、中村哲氏の追悼ドキュメンタリー番組。中村氏は医者としてアフガニスタンに渡り2019年現地で亡くなりました。医師として現地の病気に向き合うなか、病気の一因は貧困であり、貧困の原因は水がなく農業ができないからだ、という事にたどり着きました。それから、一人一人病気を見てあげることには限界がある、病気の大本を改善しなければいけないと、医師でありながら水路の建設に従事しました。大変な苦労の末、砂漠だった土地が、緑の農地になったのを見て、「人の力で景色を変えることができるんだ」と感動しました。それから、私も何か景色を変えるような仕事がしたい!と強く思うように。方法はわからないけど、プロダクトデザインなら何かそんなことができるような気がしたのです。アメリカにいる最中は、デザインから遠ざかっていたものの、デザインで人のために何かやりたいという気持ちが、モクモクわいてきました。こんどこそ、帰国後はフリーランスとして一からやろう!と思ったのですが、子供の保育園問題が立ちはだかります。(実績のないフリーランスが激戦区で保育園に入れるのは、ほぼ不可能だった)ともかく、子供が幼稚園に行ける年齢までは、企業で働きつつ、日本の現状を把握してから独立でも遅くはない(すでに十分遅いし)と思い、結局、シチズン時代にお世話になったITベンチャー企業に再就職することに。

再就職からフリーランスまでの道のり

再就職先は10名程度の会社だったので、スマートウォッチのデザインやウェブサイトのディレクション、PR業務など、自分の関われる範囲が広がり、やりがいを感じました。会社やの仕組みやカスタマーサービスなど大きい企業では分業で見られない部分が見られて、独立のための知識にもなりました。務めている中で不満もなく、このまま会社員でもいいかなとも思ったりしました。しかしながら、常に新商品を出し続けて、目新しいデザインを提供して、顧客に興味を引いて買ってもらう感覚がどうしても違和感が、、このころには、買ってくれた顧客だけでなく、もっと作り手や環境も幸せにできるような製品にかかわりたいという気持ちを、はっきり持てるようになっていました。
ちょうどそのころ、たまたま寄った青山ブックセンターで「勝てるデザイン」という本と出会い、著書の前田高志さんが38歳でフリーランスになったことを知りました。フリーになるなら38歳はラストチャンスと勝手に思いこみ、38歳の間に独立することを決めました。とはいえ、フリーランスの友人も少なく、何から取り掛かればいいのか、ちんぷんかんぷん。ともかく、フリーランスやクリエーターの友達を増やしたいと、前田高志さんの運営するオンラインサロン「前田デザイン室」に入ることに。最初は何やったらいいのかわからなかったのですが、24時間メンバー同士が交流できるオープンズーム(通称アトリエ)があったので、そこでメンバーと仲良くなりました。友達よりも仲間と思える人たちと出会えたのは、私にとってとても大きかったです。
年始くらいにはフリーになろうかなと思っていたので、会社員の間にできる準備はなるべくしようと、育児の合間に必死こいていろんなことを吸収しようとしました。独立する直前は忙しくてあまりプロジェクトに参加できませんでしたが、プロジェクトにも積極的に参加しました。それから、仲良くなったメンバーと「ポートフォリオを作る会」を開催し、励ましあいながらおのおのポートフォリオ&ホームページを作成したり、名刺のデザインのアドバイスをもらったり。仲間のおかげで準備を整えてから独立することができたと思います。ちょうど会社の事業編成があり、自分のしたい仕事と会社の方向性が違ってきたので、2021年の年末で会社を退社

最初にかかわったプロジェクト「Desig-win」で担当したカードデザイン

これからの道のりー始まりの冒険を楽しむ

現在ー2022年からフリーランスになったものの、右も左もわからない状態。ともかく周りのフリーランスの友達にDMしまくっていろいろ聞いてます。みんなが思っている以上に、細かいとこまでいちいち聞いてるので、あきれられてそうですが、みんな優しいから教えてくれる。ありがたい!
上には書かれてないのですが、コンペでさんざん落選してるんで、プライドのプの字も残ってない、だからできる当たって砕けろ系の営業とかもやってます。あとは、知り合いのオフィスに行かせてもらったり、オフラインのセミナーにも参加して、人脈作ったり経験値積んでます。(FFでいったら、まだ最初の村から出たあたり)もちろん、私の知識がお役に立つ場面があれば、よろこんで質問とかには答えています。今は周りからてtakeしてばかりなんで、自分がgiveできるタイミングには惜しげなくgiveしてこうと思ってます。気になる金銭面も、夫に頼ってる感じなんで、早くgiveできるようにならねば。。いよいよやばくなったら、バイトするか、、(こうして振り返ると、周りの人に助けられてばかりなんで、私ってほんとラッキーなんだなと思います。)
あと、独立したてで時間のある今だからできることとか、やっていかないとと思ってます。よく言う「ライフワーク」というものを考えています。せっかくフリーになったのにクライアントワークだけで終わるのはもったいない。(もちろん、依頼いただいたお仕事は全力でやってます!)今、ぼんやり考えてるのは、ソラーパネルのリサイクルや防災グッズなど、何かいい切り口がありそうと思っています!

終わりに意思表明!

まだ、フリーランス一年生、これから先どうなるかわかりませんが、始まりにしか味わえない手探りの冒険を楽しみたいと思っています!
稼げるようになってきたら、駆け出しフリーランス奮闘記を記事にしたい!ミラノサローネにもチャレンジしたい!今が一番若い、がんばるぞ!

追記:メッセージ

この記事が公開されて、noteのコメント欄以外にTwitterやInstagram、フェイスブックなどでたくさんのメッセージいただきました!ほとんどがママさんからで「励まされた!自分も頑張らないと!」といったものです。「本当に書いてよかった!」と思った反面、「メッセージくれた人たち、みんなすでに頑張ってるな、無理しないで!」と感じました。
みんな、さまざまな事情をかかえていると思います。育児や介護、病気などで、今全力で頑張れなくてもいいと思います。ただ、いつかここぞというタイミングが来た時、全力が出せるように、心の火を絶やさず、常に準備段階にいてほしいです。(1日3分、自分が何をやりたいか考えるだけでもいいと思います)人生80年!だからこそ、変に焦らないでほしい。大切なのはいつがアクセルの踏み時で、どこが休憩ポイントか見極めることだと思っています。自分がつぶれてしまったら、元も子もないので、自分を守ってほしい。(偉そうにすみません、)

長々とお読みいただき、本当にありがとうございました。このブログではプロダクトデザインやフリーランスのことなど発信しております。フォロー・コメント・スキいただけると、励みになります。

TOMOMI YOKOYAMA DESIGN:TOMOMI YOKOYAMA DESIGN – Product design & Graphic design
お仕事のご相談・お問い合わせ:contact – TOMOMI YOKOYAMA DESIGN

こちらの元の写真やプロフィール写真は前田デザイン室の惣島さんに撮っていただきました


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