これから10年で生き方を考えよう。

大切な人が大きな病気にかかり、生死をさまよっているとする。痛みに苦しむ表情はとても辛そうだけど、それでも死なないでほしい。延命治療をして少しでも長く生きていてほしい。それが唯一の正解だと思っていた。

でも違っていたみたい。

少しでも長く生きることが唯一の正解だと信じて疑わなかったのは、自分が患者側になることを想像していなかったからだ。誰にでも死は訪れる。そう頭では分かっていても、どこかまだ先のことだと思っている。患者目線ではなく、家族目線でのみ考えたとき、答えは一択、「延命」になる。

でももし自分が患者だったら。息ができなくて苦しいのに、言葉では表せないほどの痛みでどうにかなりそうなのに、死なせてもらえない。解放されたいのに、それを許してもらえない。そうなったら、家族の「死なないでほしい。がんばって。まだ生きて」は、うれしいどころか苦しめられているように感じることだってあるかもしれない。


祖母が危篤になったとき、私は離れた場所に住んでいた。早朝、母の電話で起きた。「おばあちゃんが危篤だって。もういいよね」悲しみと慈悲が混ざったような声で母にそう言われたとき、咄嗟にいやだ、と思った。もういいよねってどういうこと?よくないよ。まだ別れたくないし、別れるにしても、せめてあと一度だけ言葉をかけてから。

声に出して母親に伝えたかは覚えていない。心の中で思っていただけかもしれない。

おばあちゃんは早朝の病院で、ひとりで天国にいった。三連休の初日だった。延命治療をしたのかしてないのか実は知らない。でも少なくとも、私が離れた場所に住んでいたことはよかったのかもしれない。祖母が望んでいるかいないかも分からない延命治療を、医者にお願いしなくてすんだのだから。そう思ったりする。

「少しでも長く生きる」ことが絶対解ではない。今それを知ることができてよかった。

“死に方を考えることは、生き方を考えることと一緒なんだ。これから10年で生き方を考えよう。”
「死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。」より

余命を宣告されたとき、誰もが死にたいわけじゃない。でもどうにもできない状況で苦しみ続けることだってしたくない。そんなとき、安楽死という死ぬ権利があると、生きやすくなるという。

私は安楽死についてほとんど知識がないから見当違いかもしれないけど。安楽死を選べるようになれば、「自分はどうするか」と考えるだろう。自ずと患者目線で考えることができるようになる。

生きる権利と同様に死ぬ権利も持てたとき、私たちはもう少し死を自分ごととして受け止められるようになるのではないか。

“どこかまだ先のこと”ではなくて。

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