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いつかのおはなし-潟ケ谷あつ子-

 すらすらすぎる、とあっちゃんは思っていた。国語の授業における、かなたくんの音読のことだ。

皆は、わからない漢字がでてくると声が小さくなるか、ごにょごにょと聞き取れないような読み方でやり過ごそうとする。あっちゃんにいたっては読むのがとまってしまう。だって漢字が読めないことによって、リズムは崩れ、リズムが崩れることによって、文の切れ目がよくわからなくなり、それまできちんと読み進めてきた文章が全てぱあになってしまうから。

顎のラインで切りそろえられた細く黒い髪を震わせて、唇を噛み締めて、読めない漢字を見つめて固まっている小さな女の子に、国語担当の春野先生は優しく読み方を教えてくれる。漢字の部分だけ読み上げると、そこだけ浮かび上がっているようでおかしな感覚になる。

でも、でもかなたくんは、初夏のさざなみのようなその声で、すらすらと、それはもうほんとうにすらすらと音読する。かなたくんのその読み方の理由を、あっちゃんは知っている。かなたくんは、わからない漢字でも気にせず読むのだ!

間違った読みをしている人がいるとき、先生は一旦とめて正しい読みを指摘するが、あまりにもかなたくんがすらすらと読むから、先生も気づいていないようだ。かなたくんのその読み方を知っている人は、あっちゃんの他にもいるかもしれない。けれど、誰も指摘しない。あっちゃんは周りをそおっと見渡す。かなたくんが、「宇宙の果て」を「うちゅうのかて」と読んだ。だが、誰も顔を教科書からあげない。

先日の理科の授業で、黒板に書かれた「ほ乳類」を「ほちちるい」と読んだえいじくんのことを、お調子者のけいくんたちはそれから2週間ほど「ほちち、ほちち」と呼び回していた。ちらりとけいくんを見たが、ぼうっとした顔をして、教室に漂う午後の微睡みをつくるのに加担している。またかなたくんが違う読み方をした。「失踪」を「しっけい」。泥棒が盗んだ豪華な品をたんまり袋につめながら、面目なさそうに手刀を切って人混みを逃げていく様子が浮かんで、あっちゃんはふふっと笑ってしまった。読み終えて席に着くかなたくんが、ちらりとあっちゃんのほうを振り返ったような気がして、慌てて教科書に視線を戻す。


「せんせいー、鼻血ー」


けいくんが手を上げて立ち上がっている。その隣の席のなみちゃんが両手で鼻を抑えている。指の間から赤い液体がぼとぼとと滴り落ちていて、皆身を乗り出してその様子を見ようとしている。「あらあら」と春野先生は特に驚きもせずてきぱきとティッシュペーパーをなみちゃんに渡して、机を拭きだした。けいくんが興奮した顔でなにか騒いでいる。


「おれ、人の鼻の穴から鼻血がでてくる瞬間、はじめて見ちゃった。いきものがでてくるみたい」


**


「5位だね」


かなたくんはこのクラスで5番目にかっこいいと言われているらしい。あっちゃんの前の席のとおるくんは、1位だ。さきちゃんが話の輪の中心で、もっと集まって、と手でジェスチャーをして、とおるくんが1位なそのわけを小声で語った。


「だってごういんな匂いがする、とおるくんって。」


皆、「そう私もそれが言いたかった」とでもいいたげな顔で感嘆のため息をついた。あっちゃんはごういんな匂いがわからなかったが、かなたくんが5番目、というのを聞いたときに、5、とはいい数字だなと思った。いち、から声に出して数えたとき、ご、のときだけ、口の中に隠れていた壁のようなものに空気があたる。ご、しかその壁はあらわれない。壁はいつも世界を区切るために存在するはずだが、口の中のその壁だけは、ご、というとき、はじけたがっている空気をそっと押し出してやるかのように、優しく機能する。扉、ではないとあっちゃんは思う。あんなにお人好しですぐ開く類のものではないのだ。決して嬉しそうにではなく、ぶっきらぼうに、この次はないぞ、と念を押すように、ちょっと強めに、空気を押し出すその壁が放つご、が、5が、いちばんかっこいいと思う。


「ご」と口に出したら、かなたくんと目が合った。慌てて目をそらそうと思ったが、体がいうことを聞かない。かなたくんは少し目を細めて、あっちゃんをみつめたままだ。あんまりずっと見つめるものだから、あっちゃんもやけになってかなたくんの目を見つめ返し続けた。そうしているうちに、かなたくんがあっちゃんのもっと奥のほうをみているような気がしてきた。あっちゃんもみたことのない、この体の皮をひっくりかえしたところにあるようななにかを、じっとみつめているような、そんな目。

心当たりを探して、はっとした。昨日の給食で、ミニトマトを食べずにポケットにいれて持って帰ったこと、知っているのだろうか。あっちゃんはミニトマトが苦手だ。せーのと意気込んで一気に潰さなくてはならないのが嫌だ、と思う。口の中に入れて、優しく噛めばかたちを変えていくたべものとも、固くて噛めそうにもないたべものとも、ぜんぜんちがう。


ようするに、あっちゃんはそこだけ口にした。先日あっちゃんが「戦争はどうして起こるの?」と訊いたとき、お父さんが口をもごもごさせて、黒目をいったりきたりさせて、動揺を隠そうとするために髭を右手で触りながら、しばし間が空いてから言った言葉がそれだった。「あの頃-」とか「政府が-」とか色々言いかけて、全部やめて放 そのあとお父さんはいつもより少し低い声で言った。 


「未来のことは誰にもわからないんだ。」


あっちゃんはへんなの、と思った。社会の小田木先生は、


「戦争なんてもう二度と起こしてはいけない、とてもむごいあの過去を忘れずに語り継がなくてはいけない」


と唾を飛ばしながら、曇ったメガネの奥の目を見開いて言っていた。今とはちがう過去のことだと小田木先生は言ったのに、父さんは「未来はわからない」と言った。その矛盾に噛みつきたかった。未来がわからないとどうして戦争が起こるのか説明してほしかった。けれど、「ようするに」という言葉のあとには、なにも言い返せなかった。細かいことをすっ飛ばして、ひとつ、これだけは言葉にしたいということについて語るときに使うことばが、それなのかもしれない。だって、いつものようにうまいこと言いくるめられた気はしなかったから。時計の音がより大きく聞こえた。たぶんお父さんが言ったこと、大人になるまで忘れないんだろな、と思った。大人という表現を思いついたことがなんだか悔しくて、お父さんの横顔をみながら、右足のかかとで自分の左足のすねを蹴った。痛くはなかったが重い音がした。


 ようするに、ミニトマトは噛み潰されることを予想していないかたちをしているから苦手なんだ、とあっちゃんは思った。いざ潰すとびっくりして口の中の四方八方に甘いような苦いような液が飛び散り、どろりとしたもので満ちる。ミニトマトが苦手な理由は、本当はもっと単純で、それでいてうまく言葉にできるようなものではなかったけど、かなたくんに見つめられているような気がする今、どうにかこうにかミニトマトを苦手な理由を言葉にしなくては、と思った。そうすることが重要に思えたのだ。話そうとした瞬間、かなたくんの声が重なる。

「雨だ。」


皆一斉に外をみる。


「勘違いかと思ってずっとみてたけど、やっぱり雨だ」


「えー傘ないよ」


「とおるくんはね、」


「帰りまでに止むかなあ」


「はーい席についてー」


あっちゃんは下を向いてあの日持って帰ったミニトマトのことを考えた。帰宅途中にポケットから出したミニトマトを、側溝を流れる水のなかに落とすと、申し訳なさそうな水の音とともに沈んでいった。あ、浮かばないんだ、まだ流れていってくれるほうがよかったな、そう思いながら水の影に染まってゆらゆら揺れるミニトマトに手を合わせた。


「未来のことはだれにもわからないんだ」


あのときの父さんの顔。かなたくんはもう前を向いて座っていた。


**


4年1組の靴箱だけ妙に混雑している。あっちゃんはみなちゃんとかなこちゃんと三人でくっつきながら、男の子たちが靴を履いて出ていくのを待っている。誰かがボールを弾ませて砂埃が舞う。


「校舎を出るまでボールは使っちゃだめだろう!」


体育の岡地先生の叱責がどこからか飛んだ。


「もう外でましたー!」


けらけらと笑いながら転がるように男の子たちがグラウンドに向かって駆けていく。
 お昼休みにクラスのみんなでドッジボールをしましょう、と決めたのはクラス担任の神田先生だ。先生はことあるごとに「クラスの和」と口にした。黒板の横の掲示物にも、「和」という筆でかかれた紙とみんなが手を繋ぐ絵が飾ってある。それまで男の子たちが中心で遊んでいたドッジボールに、クラスの全員が参加してお昼休みは過ごすというのを日課にしましょうと、神田先生はある日の帰りのホームルームで宣言した。もしここで誰かが反対の意をもつ言葉を言えば、神田先生は顔を真っ赤にして「和を乱すという行為のおそろしさ」について語り出すであろうことは皆わかっていたし、まあ別にやってみてもいいかとも思ったから、肯定とも似つかぬ曖昧な返事をした。

幼さとかしこさをうまく両立させる子どもたちは、なんだかんだ毎日のドッジボールにはまり、なんとなく全員が集まって、お昼休みのドッジボールは恒例化したのだ。


 グラウンドに集まった皆は、ドッジボールが始まるまでの時間少しそわそわしている。得意げな顔で男の子たちは片足をひきづりながらコートを描く。女の子たちは肩を寄せ合ってかたまりながらどちらのチームに入れられるのかそわそわしている。さきちゃんはとおるくん率いる主導権強めなチームのほうをちらちらとみている。全員が余ることなく中央の線によって分けられ、外野決めに移ると、


「僕いくよ」


そう言ってかなたくんは外野に回った。


「おーうありがと!」


応えるだれかと、それに手をあげてひらひらと振るかなたくん。いざゲームがはじまると、ボールは線の上をいったりきたりするけど、ほんとうは決まった人たちの間を動いているだけ。それでもみんなは自分が当てられると思って奇声を上げて逃げ回っている。力強いボールを両手で受け止めたとおるくんに歓声が送られる。とおるくんは目に入りそうな前髪をうざったそうにそのままさらさらと流したままボールを投げる。とおるくんって、ボール投げるときへんな顔してるなとあっちゃんは思った。あれだ、この前動物園行ったときに見たオランウータンみたいだ。オランウータンが、檻の前に集まってきた子どもたちにはぐき見せて、


「はぐき見てるわこの子ら」


と愉快そうに笑っているかのような顔をしていたのとそっくりだ、と思った。

オランウータンを思い浮かべたコートの先にかなたくんがみえる。かなたくんはボールの動きを先読みして、コートの線より少し下がって右に左に動いている。ゆったりと、焦らずに、サイドステップを踏むようにしてコートの中にボールを目で追っている。かなたくんには、皆の姿が見えていないようだ。ボールがひとりでに動いているかのように、コートのなかで手足をばたばたする皆の存在を気にせずに、ただただボールの影を追っている。あっちゃんも逃げまどっていたのをやめて、ボールだけに焦点を合わせてみた。地面に着くことなく、ボールが宙を舞う。刺すように素早く動いたり、ふにゃふにゃとUFOのようにやるきなく舞ったりする。あっちゃんの横をボールがすりぬけたなあと思った矢先、振り返る前にボールは向きを変えてあっちゃんの右肘に当たっていた。相手チームからハイタッチをする音と歓声が聞こえる。あっちゃんは先ほどのボールようにふらふらとコートの外にでると、外野に向かった。

そこにはかなたくんがいて、あいかわらずボールを目で追っていて、飛んできたボールを仲間に上手にパスしている。だれかの足で書いたコートの線はもうほとんど消えてしまっていて、あっちゃんはうつむいてその線をなぞった。左隅のほうに立っていると、とおるくんにボールが当たったか当たっていないかで小競り合いが起こったらしく、試合が一度中断した。さきちゃんがとおるくんの横で、きいきいした声で今のは当たってないと喚いている。かなたくんがふとあっちゃんのほうを振り返った。今度ははっきりとあっちゃんをみていた。あっちゃんというものを外側からみる、れっきとした「見る」行為によってあっちゃんの目をとらえた。


「次に僕がだれか当てたら、あつこさん代わりにコート戻っていいよ。」


「え?」


「僕内野にいるのあんまり好きじゃないんだ。」


あっちゃんは初めてかなたくんが話しかけてくれたことへの驚きと、自分の名前を呼んでくれたことへのうかがうようなうれしさと、なんだよくわからないかなしさとで、言葉を返すことができなかった。なんで少しかなしいんだろ。そうしているうちに、かなたくんの言葉どおり、かなたくんの投げたボールが敵陣のだれかに当たってコート内が盛り上がる。あっちゃんはありがとうともごめんとも言えず困った顔のままコートの中に戻った。なんだか、コートのなかに戻ったら急に時間というものが近くに寄ってきたような気がした。外野にいたさっきまでは午後の日差しと風を感じる余裕さえあったのに。汗の匂いも声も強く大きく聞こえる。かなたくんの姿が、ひどく遠くにみえた。


**


ぼうっとしていたら、


「あつこさん」


と春野先生の声がして、


「教科書をちゃんと読んでいないとだめじゃない。はい、じゃあその次の段落ね。」


と言われてしまった。慌てて立ち上がり、つばを飲み込む。あっちゃんの椅子の脚はひとつだけ先端のゴムが取れてしまっていて、立ち上がるとき同時に床を爪でひっかくような鋭い音がした。けいくんが珍しく親切に読むべき箇所を指でさして教えてくれた。しかし、それまで当てられた人がどのように読んでいたか聞いていなかったため、音読しはじめたものの途方に暮れてしまった。音読は、日によって全然違うのだ。

はるとくんとたいちくんが喧嘩した日は、みんな少し小さな声で、静かに、かぎかっこも木の枝から葉が落ちないよう優しく触るようにそおっと読んでいたし、ねねちゃんが転校してきたとき(ねねちゃんがあまりにも整った顔立ちをしていたため、この日以来さきちゃんが独占していた女の子の頂点の座、いわゆる羨望の眼差しを向けられる対象は、ねねちゃんにもあてはまるようになった!)は、はきはきとだれが一番上手に読めるか競うように皆読んだため、春野先生がうんと褒めてくれた。雨の日はなんだかむずむずするような読み方をする人が多いし、台風が来るっていわれていた日の男の子たちの読み方は勇ましかった。


 でも今日はわからない。あっちゃんはうっかりしていたことを後悔した。学校とはなんて恐ろしいのだろうと思う。指名されたら、逃げ出すことはできないのだ。まるで命がけレース。「ほちち」とばかにされていたえいじくんが目をらんらんとさせてあっちゃんの方を見ている。読み間違えるのを待ってるんだな、と気づいてますます気が焦った。あっちゃんは、一番後ろの人にはもしかしたら聞こえていないかもというような小さな声で読み進めた。


「ヨークじいさんの育てた小鳥はうんと丈夫に育ち、元気に鳴いていました。」


一度息を入れ替えるように呼吸をして次の文章に目を移す。


「ある日、小鳥は窓までとことこ歩いていくと、羽をひろげ、飛び立ちました。そしてあっというまに」


あっというまにの「ま」の後ろで構える「空」という文字があっちゃんを見上げるようにして待っている。その次に印刷された「かなた」という言葉が目に飛び込んできた。あっちゃんの席がある列より2列右、5つ前の席に座っているかなたくんの姿が目の右端に入り込む。教科書を半分ほどしか広げず、肘をついて持っているかなたくん。強く読んだらかなたくんのこと、意識したってばれてしまうかもしれない。


 おとといねねちゃんはとおるくんのことがすきだと言って、クラスの女の子たち、特にさきちゃんに睨まれていた。


「なんで」


さきちゃんが詰め寄るようにねねちゃんに問いた。


「とおるくんかっこいいもんねえ」


するりとその睨みをさけるように笑って答えたねねちゃんに、面食らったさきちゃんはうつむきそうになる顔を前に向けたまま言った。


「とおるくん、さきもすき」


取り巻いていた女の子たちがどよめいた。さきちゃんがとおるくんを好きなのは周りは重々承知だったが、本人は決してそうとは言っていなかったのだ。


「すき同士だねえ」


「ね」


うふふと笑い合う二人は、お互いに想いを馳せる人物を共有したことにより、友情とは異なる絆によって結ばれた。これから先、恋人をとるとられるの世界で僻みあい、傷つけあうことも知らず、二人はそれがすごく素敵なことであるかのように、手をとりあっていた。あっちゃんは遠巻きに見つめながら、すきということを言語化および音声化した、二人の女の子の顔をみたことへの衝撃を受けていた。


 かなたくんのことを好きな女の子がいるのかどうかはわからないけど、もしいたとして、あっちゃんが意識して読んだことがばれたら、その子に睨まれてしまうかもしれない。でも小さく読んだらもっと変かもしれない。もしつっかかったりでもしたら!えいじくんのさっきの顔が脳裏に浮かぶ。それにかなたくんがいやなきもちになってしまったらどうしよう。頭のなかのことはおかまいなく、あっちゃんの口は「空の」というところまで読み終え、そのまま「かなたへ飛んでいきました」もなんでもないかのように過ぎ去ってしまった。段落が終わって、他の子が先生に指名され続きを読み始めた。あっちゃんはぶるっと身震いをして席についた。ほんとうになんでもなかった。なにもないほどにすっと読み終えてしまった。椅子の背もたれにもたれかかると、先ほどより少し控えめに、キッと椅子が鳴った。


**


「きをつけー、れい」


授業が終わって皆が思い思いに喋り出すそのときだった。かなたくんが、立ち上がってあっちゃんの席までずんずんと歩いてきた。


「これ、今日あつこさんが読んでたところ、僕の名前あった」


かなたくんは教科書を広げて、「かなた」の文字の部分を指でさすと、嬉しそうにあっちゃんに向かって笑いかけた。


「あ、ほんとだ」


あっちゃんが振り絞った言葉は、それだけだった。知ってたのにね、どう読めばいいのかわからなくて困ってたのにね。それ以上なにも言えなかった。


 かなたくんは、あっちゃんの席をすぐに離れると、男の子たちと一緒に明日発売されるマンガの最新刊のことで盛り上がっていた。かなたくんがあっちゃんの席まできたのは、「かなた」の部分を読んだのがあっちゃんだと知っていたからだ。いつもあっちゃんが、かなたくんの音読を注目してきいていることを思い出して恥ずかしくなった。かなたくんは、あっちゃんの音読をどう思ったのだろう。やっぱり声が小さすぎたかな、そんなことを考えている間に、次の授業も、帰りのホームルームもあっという間に終わってしまった。


**


帰り道、みなちゃんとかなこちゃんとお別れした後、信号が青になるとあっちゃんはいつもと進行方向を変えて進み出した。まっすぐ、まっすぐ進む。そのまま歩いていくと、歩道橋にたどり着いた。階段を駆け上がり、あっちゃんは、橙色のランドセル、あっちゃんが初めて自分の意志でこれがいいと口にしたランドセルをあけ、こくご4と書かれた教科書を取り出した。表紙に描かれたゾウと小さいネズミとそれから桃色のフラミンゴが興味深そうにあっちゃんをみあげる。おかまいなしに教科書を開き、あのページで指を止める。強く握っていたから探さずとも自然とそのページは開いた。大きくそして細く息を吸い込むと、そのまま一気に読み上げた。鳥は羽を広げ飛び立つ姿勢をしてあっちゃんの次の言葉を待っている。


「そしてあっというまに」


なんだか鼻の奥がツンとする。


「空のかなたに飛んでいきました!」


鳥はひゅっと音を立て、歩道橋から飛び立った。小さな鳥だった。水色と黄緑のまざった羽をもつ、きれいな鳥だった。振り返りもしないで飛んでいった。またたくまに影が小さくなる。どんどん小さくなる影は、丸になり、点になり、そして次の瞬間ぱっと消えた。


「かなたへいったんだ」


あっちゃんは教科書を閉じることもせず立ち尽くしていた。歩道橋の下をものすごいスポードで軽自動車が、トラックが、ひなとくんがノートに描いていたものに似たかっこいい車が、走っていく。ごうごうと音がする道路のことは気にも留めず、時間も音も追いやって、あっちゃんは今歩道橋の上の立っている。そらのかなたをみつめようとした。焦点を合わせようとすればするほど恥ずかしそうに、振り払うように、ぼやける。けれど、目をそらす気にはなれない。あっちゃんは小さくつぶやいた。


「かなたくん」


音となって耳をするりと辿ると、もういちど体のなかに流れ込んだ。少し息が詰まって、ほ、とため息をついた。目を閉じたくなって、なぜだか代わりに唇を噛んだ。明日が早くくればいいのにと思った。国語の授業で、あまり上手に音読はできないけれど、明日なら春野先生に褒めてもらえるような気がして、あっちゃんのことを指名してくれればいいな、と思った。給食の時間にミニトマトがでたなら、思いっきり噛み潰して、食べてあげようと思った。お昼のドッジボールができるように晴れてくれればいいな、と思った。もし内野に戻っていいよと言われたら、いやだと言ってやろうと思った。明日のことを思うと心が弾んだ。けれど、今この瞬間が終わるのがもったいないような気もした。もう少しこのままでいたいし、忘れたくないや、と思った。言葉にすることが、音声として口にだすことが重要なことのように思えた。


 今のきもちがなんなのかうまく言えないけど、逃げ出そうとする心も否定したくなくて、泣きそうで、笑い出してしまいそうで、迫り上がるなにかに耐えられなくてうつむきそうになる顔を必死に前に向けて、そうしてあっちゃんは息を吐いてからつぶやいた。


「ようするにー」


おわり

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やったー!