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ま け い ぬ ─ 負 犬 ─

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養老まにあっくすエッセイ集③
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読書できない現代人の「プチうつ病」

【書評】『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆=著/集英社新書 𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  本を読むために会社を辞めた。そう著者は言う。  よっぽど本が好きなんだな。しかし、何も仕事まで辞めなくたっていいじゃないか。そう思うかもしれない。でも、本がたくさん買いたくて就職したのに、働き始めたら本が読めなくなってしまった。これでは本末転倒である。それで考えた結果、著者は仕事を辞めた。  本書が売れているのは、この「働いていると本が読めない」というのが、どうも他人

人生をあきらめない

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  みなさんの夢は何ですか。やりたいことはありますか。それは実現できそうですか。それともまだ道半ばでしょうか。私はいまデザイナーという仕事をしています。ずっとこの仕事がしたかったし、最初の一歩を踏み出せたときは震えるほど嬉しかったのを覚えています。でも本当は、私にはまったく別の夢がありました。  大学に入った頃の私は、多くの若い人たちと同じように、自分が何をやりたいのか、何が自分に向いているのか、まったくわかっていませんでした。まわりがみんな大学

自由意志は存在するか

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  脳科学の分野ではもはや定説になりつつあるらしいのだが、自由意志というものはどうやらわれわれの幻想のようだ。少なくとも、従来考えられてきたような意味での自由意志は虚構だった。  有名な話としては、「水が飲みたいからコップに手を伸ばす」とわれわれは思っている。ところが脳を調べてみると、「水を飲もう」という決定が発生するよりも一瞬先に、脳の方ではもうコップに手が向かおうとしているという。だったら、自由意志とはなんだ。  歩き始めるときに、どちらの足

タバコ休憩は妥当か

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  このエッセイをお読みの方はもうお気づきかと思うが、私は喫煙者である。ただし、ヘビースモーカーではない。1日に吸うのは7〜8本。出かけるときはタバコを持たない。吸える場所を探すのが面倒だからである。家に帰って吸えばよい。タバコは家でしか吸わない。もっとも、私にそれが言えるのは、家で仕事をするフリーランサーだからである。会社勤めだった頃は、いつも休憩時間にプカプカやっていた。  タバコ休憩は認めるべきか。ときどきそういう議論が起こる。たしかに、1

「作品に罪はない」という山下達郎の態度は、本当にジャニーズへの忖度なのか?

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  どこから書き始めようか。まず、「作品に罪はない」ということについて。最近見た「TÁR」という映画の中に格好の題材があった。こんな場面だ。ターはジュリアード音楽院に講師として招かれている。講義の中で彼女は、マックスという学生の前でバッハの平均律を弾いてみせ、「この曲は知っているわね?」と訊ねる。するとマックスは、「自分はBIPOC(黒人、先住民および有色人種)であり、パンジェンダー(男性でも女性でもない第三の性)なので、20人もの子供を妻に産ま

見えない貧困

【書評】『東京貧困女子。──彼女たちはなぜ躓いたのか』中村淳彦=著/東洋経済新聞社 𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  薄々知ってはいたが、いざ直視するとつらかった。心をえぐられるような話だ。著者はいわゆる「カラダを売る」ことを職業とする女性たちを20年以上にわたって取材してきたライターである。その著者が、2011年ごろからある異変に気づき始めた。それは、学費が払えなかったり、奨学金という名の借金を返済するために、望まぬ形で身売りする女性が目立ってきたことである。  「あなた

進化論は弱肉強食ではない

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  キリンの首はなぜ長いか。それは、高いところの葉に届くように、首が長く進化したからだ。これは、自然選択を説明する例え話として、きわめてよく用いられるエピソードである。しかし、最新の研究は、これとは別の可能性を指摘している。それによると、キリンの祖先には、非常に分厚い頸椎骨と、ヘルメットのようなヘッドギアがあった。これは、求愛やライバル撃退のために、首どうしを強く打ちつけて格闘していたためだと考えられている。じつは、このようにして首の骨が強化され

AIは人間の脅威なのか

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  AIは人間の能力を超えることができるだろうか。ゲームのようにルールが厳密な分野では、それは時間の問題であろう。だが、私がここで問題にするのは、そういう話ではない。二〇一五年の第三回星新一賞では、AIによって書かれた小説の応募が公認され、結果一次審査を通過した。もし賞を取るのが無理だとしても、AIが書いたことを見破れない小説が現れたら、それはAIが人間の能力に並んだことにはならないだろうか。  新井紀子氏は、ベストセラーとなった著書『AI vs

資本主義の黄昏

【書評】『人新世の「資本論」』斎藤幸平=著/集英社新書 𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  これは、ハンス=クリストフ・ビンスヴァンガーという経済学者が書いた本の中で紹介されているエピソードを、私がアレンジしたものである。このアレゴリーは、まさに現在世界で起こっている問題の縮図そのものである。  なぜこの寓話を紹介したかといえば、「人新世」という、人によっては聞き慣れない用語を説明するのに、ちょうどいいと思ったからである。これは、ヒトの経済活動が地球に与える影響があまりに大き

多様性

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  わが家では、家事はもっぱら私の仕事である。妻の仕事はテレワークというわけにはいかない職種なので、私が毎晩夕食を作る。日中も家事の合間に仕事をしている、という感じである。だから最近は冗談で「職業は主夫です」と言っている。ところが、先日あるアンケートに答えようとしたら、職業欄に「専業主婦」しかない。そしてそれは、既婚の女性以外は選択できませんと書かれている。これは男女差別ではないのかしら?  雇用機会均等、女性の社会進出といった言葉は、近頃あまり

成長は続くよどこまでも?

𝑡𝑒𝑥𝑡: 養老まにあっくす  全日空が五千億の赤字だという。私自身は航空業界とは何のかかわりもないのだが、父と生前の祖父が航空会社に勤めていた(※全日空ではない)。祖父の若い頃については詳しく知らないが、父は文字通りのヒコーキおたくである。米国は軍事費におびただしい税金を注ぎ込んでいるので、その還元なのか、各州に航空関係の博物館が一般公開されている。私も幼いころ連れて行かれたことがあるのだが、まぁあのときばかりは父親の方が子供であった。  しかし何の因果か、祖父から父へと

トロッコ問題の罠

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  トロッコのレールが行手で二つに分かれている。一方にポイントを切り替えれば五人が犠牲になり、もう一方に切り替えれば犠牲者は一人になる。五人の命を救うために、一人の命を犠牲にしてもよいか。いわゆる「トロッコ問題」である。かつてマイケル・ザンデル氏の「白熱教室」で取り上げられ、ご存知の方も多いと思う。  ポイントは、選択肢が二つしかないという点にある。たとえば、大声を出してレールの先にいる人にどいてもらうとか、トロッコ自体を破壊してしまうという答え

加害者

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  安楽死の問題を考えるとき、しばしば見過ごされがちな論点があると思う。それは、誰がその役割を担うのかということである。露骨な言い方をすれば、誰に殺させるのかということである。  海外では安楽死が合法的に認められている国もある。しかし、そこに関わる医師の少なくない人数が、数年と経たずに辞めていくと、ものの本で読んだことがある。正しいという信念を持って携わる人間が耐えられない。あるいは、ドクター・キリコのように平気な人間がいたら、その人にそんなこと

神の名において

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす  Twitterを眺めていたら、「科学的に証明された最強のBGM」というツイートが流れてきた。いわゆる「作業中」にかけるためのBGM。緊張度が何%、心拍数が何%低下……云々と書いてある。一瞬これは広告かと目を疑ったが、どうやら書いた人物は医者(少なくとも自称では)のようだ。「科学的根拠を大切にして」いるらしい。  「科学的に証明された最強の」なんて大袈裟な修飾語をつけられると、かえって胡散臭さがプンプンしてくる。少なくとも、私はそんな音楽は聴き