誰かの居場所であるということ

人との繋がりが、減った。
人と会う機会を8割削減しましょうと言われ始めた時点で、その前からテレワークをして自粛を可能な限り守ろうとしていたから、結構な期間同居している家族以外と顔を合わせていない。
散歩に出かけた先のコンビニで、世の中は本当にビニールをレジにつけているのだと知る。

今、オンラインでならいくらでも話をすることができるけど、なんだかんだ対面で人と会うことも大切だったと気付くことも多い。
顔や人柄がわかっているから、音声のみの会話でもなんとなく間合いを読めるけれど、これが全くの初めての人だったらどうだろう。
関係性を探ったり、空気を読んだりということが、オンラインのやりとりだと著しく難しいように思う。

こういう時、これまで築いてきた居場所が複数ある人はきっと強い。
依存先を増やすということを聞いたことがあるけれど、それがいかに重要かが、今の状況に直面して見えてくる。
コミュニティでも、居場所でも、いくつかあれば使いまわせる。
毎日同じ人と時間を合わせることは現実的でない中、それでもこれまで普段行っていた会話が著しく減った今、誰かと繋がりを持っていたいと思う頻度が以前より増えるのは自然な流れだ。

居場所感を得られることは、安定になる。
安心・安全な状態の基盤があることは、その先に進む前提条件だ。
気が付かない中で注がれているストレスの源流に対処できる要素は、今これが一番強いとさえ思う。
一人で戦ったり、孤独に塞ぎこんだり、しなくていいという安心。

繋がりだとか安易な言葉で包みたくないけど、居場所は一人にとってのものじゃない。
誰かに居場所を求めることは、誰かの居場所であることと紙一重だ。
今連絡をとったりやりとりしている相手は、きっと心から求めあえる居場所なんだろうな。
長い冬が春にかかって、雪解けの初夏がやってきたら、ハグできる距離になった居場所の誰かと、大変だったねと笑い合いたい。

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