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「質」より「量」、圧倒的に

2月12日(月)

 結葵(ゆうき)と申します。

自分のが「質」が良いだなんて、ウソに決まってる。



ここ最近、記事を書くペースが上がっている。普段の生活のなかで、キーワードがポンっと頭に浮かび上がるか(ん?ストンっと降りてくるか?)で、タイトルらしきものが仮にではあるけれど決まる。そこから、連鎖的に書いていきたい言葉が次々と出てくるようになると、1回の作業では最後まで書き切ることはできなくても、少し別のことをして時間を空けて、もう一度戻ってきたら、すっと出来上がる、ということがある。

いや、僕がnoteで書いている記事なんて、たかが、1000文字〜2000文字で、しかもたいていの記事には、少々長い引用も含まれているから、実質、自分の言葉で本文を綴っているのは、もっと少ない量にすぎない。

それでも、なぜか一丁前に、きれいな文章で、構成も美しく、全体の雰囲気も丁寧になどと、「質」にこだわっているから、短いスパンで何度も手が止まって、ああ、これはこういう書き方をしたほうがいいな、とか、こういう言い回しのほうがより伝わるかな、とか、見えない何かと常に闘いながら、たぶんものを自由に書くということを怖がっているのだと思う。

『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』という本を読んでいて、千葉雅也さんなんてのは、他のところ、例えば『勉強の哲学』や『書くための名前のない技術 case 3』なんかで、自分の執筆方法について、あれこれたくさん語ってくれるから、ものすごく参考にしてるんだけども、僕はまだ学生の身分で、いろいろあるから、少し大きな買い物をするのにも、やっぱり何度も躊躇する。だから、例えばworkflowyをグレードアップして、アウトラインを作ってみたり、フリーライティングというものをそこで実践したりしてみたいけれども、こっちにも事情があるから、そう簡単に決断はできないわけで。

自分なりに執筆してみたいことはある。英語を教えるから、自分で英文法や、英文読解、英作文のテキストをつくってみたり、大学入試の過去問を解いて、自分で解説をまとめたり、大学で政治哲学をやっていて、ロールズとか、サンデルとかの政治哲学を読んでいるのも、原書が英語だから、ネタになる文とか、味わい深い文とか、J.S.ミルの『自由論』とか、ラッセルの『幸福論』とか読んでいるとたくさん出てくる。

自分の授業内で、自分で勝手に使うものだから、誰かに見てもらう機会も滅多にない。だから、好き勝手テキトーに作ればそれでも一応は作品ということにもなるんだろうけれど、どうしても自分の真面目な部分を取り払うことができなくて、「質」を追求してしまう。

大学受験でも、(高校受験だろうが、中学受験だろうが何でもそうだが)あるいはnoteの記事を書くことでも、圧倒的に大切なのは「質」の追求よりも、とにかく「量」をこなすことだ。よく受験勉強において言われるのが、夏まではとにかく勉強の時間「量」が大切だ。けれど、夏を過ぎると今度は「質」が大切になってくる、と。これは、夏が過ぎたら「量」よりも「質」が大事だと言っているわけでは決してなくて、まず大前提として常に「量」が大切であって、受験が近づくにつれて、その「量」をこなしつつ、ある程度の「質」も追求しなさいよ、という話なのである。

ところが、僕のような人間は、やれ「大事なところはノートにまとめよう」だ、やれ「多色ペンやらマーカーやら色々使い分けよう」だの細かいことにこだわるし、教養系のビジネス書や自己啓発本も、やれ「1ページにキッチリ収まるノート術」だとか、「無駄のない効率的な勉強法」だとか言って、売りつける。

「無駄のない」って言ったって、まとまった「数」や「量」をこなさないと、どこに無駄があるかが見えてこないし、その無駄が見えて初めて、削ぎ落としてきれいにすることができる。カクテルを飲むグラスの形にピッタリ合う氷も、最初からあの形で作られたわけじゃなく、ブロックだったものから余計な部分を削ったり切り落としたりすることで出来上がる。あれも、ひとつの作品である。だから、最初から「無駄を省く」とか「余計なものがない」とか、追求するものじゃない。

どんなに形が歪だろうが、まとまりがなかろうが、とにかく「量」をこなす。noteで短い文章を書くときだって、勉強するときだって同じだ。「いかがだったでしょうか?」なんていう締めの言葉などいらなくて、こんなものは突然始まって、突然終わる。「これで本当にいいのか?」という自分のなかの、「質」を追求する人格が動かす手を必死で振り払いながら、1900字書いたんだと、これが今日書いたことであって、これ以上はないと言い聞かせて、サッと手を止める。

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