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何者

朝井リョウさん原作の映画「何者」をHuluで観た。2016年公開だったので、もう結構前だったのか。公開当初から観たいなーと思いつつ、でもなんだかみるのが怖いな、と躊躇していたら、今日まできてしまった。

この話の「怖さ」の要因は、物語全体を貫く大きなテーマが「人の存在価値ってなんなのか?」ということだからのように思う。それを「就活」という舞台でもがく大学生らを通じて、嫌というほどまざまざと見せつけられ、考えさせられる。

就活の記憶は私個人にとっても本当に精神的にしんどかったなと思い返すことが多々あり、少しでも心に元気がない時に見たらぽっきり折れてしまいそうだなと思い、主に私の心の準備が整うまで観られなかった。

この物語は、ある就活生男女5人の群青劇だ。恋あり、挫折あり、友情あり、裏切りあり、嫉妬あり、陰口あり、嘲笑あり。就活を通じて描かれる人間関係やその心模様がとても濃くて、やらしくて、そして残酷なまでにリアルだった。俳優陣の華やかなイメージがつられてしまいそうになるが、決して綺麗で煌びやかな青春物語ではない。

この映画の予告編に出てきたキャッチコピーがとても秀逸だった。「青春が終わる。人生が始まる。」

学校というものから卒業した後につけられる「社会人」という肩書きは、なんとも漠然としていて曖昧に感じる。自分に付属する肩書きが「社会人」のような誰にでも当てはまるものそれしかなくなってしまう時、とてつもなく不安になったりしないだろうか。社会人、という巨大な概念に飲み込まれて、自分自身が何者でもなくなってしまうかのような。

たぶんこの「社会人」というものがあまりもの曖昧模糊としていて不安だから、人は学生でなくなる時に、自分が何者であるのかをこれまでとは違った手段で証明していかなくてはならない、と感じ始めるのだと思う。その第一関門が「就活」だ。企業人としての肩書を手に入れるのだ。

就活の際には、「いかに自分が(採用する)価値のある人間か」を面接官に限られた時間でアピールしなければならない。「1分間であなたを表現してください」という質問が映画の中でもたびたび出てくる。ぶっちゃけ私はこの質問があまり好きではない。その言葉や裏側に「あなたはどんな価値がある人間ですか?」という質問者の意図が透けているような気がしてしまって、語るに気が引けるのだ。

映画でこの質問を強調しているのはおそらく、この質問に対するアンチテーゼが物語のメッセージだからだ。

1分間で人の人間性なんて完全に伝えられるはずがない。1分間で伝えられられるような人間性なんて、底が知れてて浅はかもいいところだ。と、正直私は感じてしまう。

「1分間で〜」の質問の意図はおそらく、短時間で自分というものの市場価値を、論理立てて説得力あるものとして説明できるかを見ているのだと思う。たしかにそういう能力は仕事をする上でもかなり役立つシーンが多い。

でもそれは、あくまでビジネス上だけだ。論理的に説明しやすくて誰が聞いても腑に落ちる人間性なんて、本当に魅力的だろうか。就活のような場面ではたしかにわかりやすくてありがたいかもしれないが。

人の心ってグラデーションで、一人の人の中にたくさんの想いや葛藤や、強さや弱さ、実直さや欺瞞があって、それら一つ一つを大切にして、切り捨てられなくて、「自分はこれだ」って決められない。だから自分をうまく説明できない人って、じゃあ社会的な「価値」は無いんだろうか。

就活をしているとそういうことをいやでも考える場面にぶち当たる。不採用通知を受け取り続けなきゃいけない時期とか、行きたかった会社や業種から内定をもらえなかった時とか。

この映画の主人公・タクト(演者は佐藤健さん)は、結局、内定をどこからももらえない。気楽で積極的に就活していなかった親友にすら先を越されるし、密かに好きだった同級生も内定を獲得する。大学の演劇部の仲間は、劇団を作って、演劇で生きていくんだって日々奮闘している。周りが進んでいく中で、自分だけ。こういう状況が続くと人は本当に打ちのめされる。

自分はだれからも選ばれない、選ばれる価値のない人間なのかって。

そんな時に、主人公が密かに想いを寄せていた同級生・ミズキ(演者は有村架純さん)が、主人公に言うセリフがとても感動的だった。

「私はタクトくんが考えたお話、好きだったよ。だってタクトくんの舞台、おもしろいもん」

(※主人公は大学の演劇部で脚本を書いていた)

この、たった一人の人の、超主観的で、なんの根拠にも支えられてない肯定の言葉で、主人公は泣き崩れる。でもその気持ちはすごくよくわかる。

自分はこんなふうに優れた人間だとアピールして、それを評価してもらって選んでもらうというのももちろん嬉しいことだ。

でも本当は、本当に人がほしいものは、こんなふうななんの根拠もない肯定なんじゃないかと思うのだ。

評価されたくてやっていたんじゃなく、ただ夢中で好きだからこそやり続けてきたことに対する、純粋な「好き」と「おもしろい」という超主観的感想。

根拠がない、だからこそ、なんの保証もない。その人以外の人、あるいは社会がそう思ってくれるかどうかはわからないから、社会的に価値があるという証明にはならない。

でも、たった一人の人が、そんなふうに自分のことを肯定してくれたら、それだけで救われる。なんの根拠もない不確かなものだからこそ、その肯定は「絶対的」なのだ。

価値は、超主観的であって、相対的なものだ。絶対的な何かで決められてるわけじゃない。本来、自分でしか決められないものだ。人も、物事も、何もかも。

誰かに選ばれたから価値があるのではなくて、自分が価値あると思ったら、それは価値があるのだ。そして、自分が価値ある感じたものを、同じように価値があると感じてくれる人がいてくれるのは、たぶんそれだけで奇跡なのだと私は思う。



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