生き物の暮らし

     日記より26-19「生き物の暮らし」       H夕闇
                正月九日(成人の日)曇り
 公園で本を開いても、近頃は永く読んでいられない。日当たりのベンチを選んでも、手足が悴(かじか)むし、剰(あまつさ)え凩(こがらし)が容赦しない。それで、いつも買い物には自転車で走る所(ところ)を、年明け以来(散歩の代わりに)歩いている。すると、バイ・パスの向こうの川岸が気になり始めた。白鳥の声が土手道まで微(かす)かに聞こえて来るのである。
 子供たちが小さかった頃、よく自転車で水辺まで見に行ったものだ。特に末娘が好きで、週末毎(ごと)に通い、到頭(とうとう)パン屑(くず)を手から食べるまでに手懐(てなず)けた。初め警戒して寄って来なかった白鳥が、ニューッと長い首を伸ばして来てパクッと食べる、と言うので、「パク鳥(ちょう)」と娘Yは云(い)っていた。それを愛犬Rが焼(や)き餅(もち)で吠(ほ)えるので、白鳥に餌付(えづ)けする時だけは、Rを置いてきぼりにしたっけ。パク鳥を察してか、僕ら親子が出掛(でか)けると、愛犬は狂ったように庭で吠え立てたものだ。
 所が、軈(やが)て中学校の部活動で忙しくなり、子供らの足が遠退いた。糅(か)てて加えて、白鳥の来る水辺の直ぐ近くに架かるI大橋や水道橋の補強工事が何年か続き、野鳥たちが寄り付かなくなった。
 戸外でカカウカカウと(甲(かん)高いような又くぐもったような)独特の鳴き声が聞こえると、窓から空を見上げるのが、僕ら夫婦の習慣になっていた。V字型の編隊を組んで飛ぶ姿を、我が家では懐かしんだ。それが最近(買い物の行き帰りの土手道で)白鳥の声を屡々(しばしば)遠く川辺から聞くようになった。
 それで、年が明けて以来、スーパーBの買い物帰りに寄り道をする。

 先おととい橋の袂(たもと)に居たのは、二十五羽だった。おとといが三十二羽。僕が帰路に就いた時になって七羽が飛んで来て、仲間入りした。水しぶきを上げて着水する様子を見たかったが、やや遠くて、よく見えなかった。(きのうは買い物なし。)きょう二十一羽。
 多少の増減が有るようだが、二十乃至(ないし)三十羽は群れているらしい。その内、灰色の羽が混じる幼鳥五羽が必ず含まれる。僕が行くと、きっと最前列に並ぶ。そして嘴(くちばし)を薄く開いて、フーッフーッと威嚇し乍(なが)らも、恐る恐る近付いて来る。他にも餌(えさ)を与える人が有るらしく、僕も呉(く)れるか否(いな)か、興味津々(しんしん)、見守っているようだ。けれど、僕が汀(みぎわ)まで出てパン屑を見せても、遠巻きにして一定の間を保っている。その約一メートル幅へパンを投げてやると、尾長(おなが)鴨(がも)や軽鴨など小型の水鳥がサッと割り込んで、横取りする。慌てて首を伸ばしても、後の祭り。悔やし紛れに鴨の尻を突いたりするが、小さい者は素早く、小回りが利く様子。図体(ずうたい)のデカい方はバシャバシャ水音を立てて追い回すが、一向(いっこう)に追い付けない。「木偶(でく)の坊」とか「総身に知恵が回らない」とか揶揄(やゆ)される図さながらで、強そうなのが却(かえ)って気の毒だ。それで贔屓(ひいき)して餌を白鳥の方へ狙(ねら)って放る。それでも、すばしこく横取りされる。
 欲張って前列に横並びするのは、大概が好奇心の強い子供の白鳥で、成鳥は警戒して後から見守る。
 それらの集団と隔たって、一羽だけ離れているのが居る。どこかへ飛び去るではないが、仲間にも入らない。暫(しば)らく眺(なが)めていると、チョイと近付くことも有ったが、群れの方から二羽が迎え撃つように近付いて行くと、そそくさ踵(きびす)を返した。もしかしたら、迎え撃つのではなく、二羽は出迎えようとしたのかも知(し)れないが、それを臆病に受け取って逃げ出したのではないか。いずれ双方の呼吸が合わなかったことは事実らしい。

 三月、冬の使者たちが旅立つのは、いつも卒業式の頃だ。その時この孤独が好きな一羽は仲間と一緒(いっしょ)にシベリヤへ渡って行けるだろうか。それとも、一夏を暑い日本で(N公園の裏、ここから約二キロ上流で)過ごした白鳥のように、はぐれてしまうのだろうか。
 妻の散歩仲間AKさんが又聞きした所に依(よ)ると、あの鳥は人間の子供に石を投げられて負傷したのだそうだ。それで春に北帰行の旅へ飛び立てなかったらしい。気の毒なことだ。いたずら心の冗談が、他者には大した災難を齎(もたら)した。
 鳥にも親子の情は有るのだろうか。いや、そもそも互いに相手を親と知り、子と思うのだろうか。あひるなどは卵から孵(かえ)った時に周囲で動く者が有ると、それを(生き物でなくとも、)親と思い込んで付いて行くそうだ(刷り込み(インプリンティング))。一方、親は卵が孵るまで温めるのだから、子の認識は有るのだろう。でも、似たような雛(ひな)が無数に居て、共にゴチャゴチャ蠢(うごめ)いていたら、どうやって識別するのだろう。よしや親子関係の概念は無くとも、群れとしての感覚は抱くのではないか。早春の一日、その一体感を共有する者たちが一斉(いっせい)に旅立ち、自分だけ飛べなくて単独で取り残された時の孤独感は、いかばかりか。群れる本能を持った動物は、殊更に強い筈(はず)だ。人間ならば、発狂する所だろう。

 もしかしたら、I大橋の下で仲間はずれの一羽は、N公園の裏で一夏を越した白鳥と、同一なのではないのか。半年間シベリヤで思う侭(まま)に生きて自由に飛んで来た仲間たちと、蒸し暑い半年を漸(ようや)く耐えて孤独に越夏したはぐれ鳥では、生活感覚に齟齬(そご)が起きて、もう共に暮らすことが出来ないのではないか。
 かれら渡り鳥は、けがで飛べなければ、家族や群れから見捨てられ、脱落する。取り残されても生活を支える財産を、持つ訳でもない。医療も無ければ、保険も無い。春に渡って来て巣を作る燕(つばめ)も、秋には捨てて南へ去る。餌の無い冬に備えて木の実を蓄えるりすも、地中の隠し場所を忘れることが多い。飼い犬が埋めた骨が、庭から出て来ることも有る。動物たちには汗水を流して手に入れた持ち物を隠し持つ手段が無く、増(ま)してや労働を金銭の形に変えて保存することなど思いも及ばない。
 敗戦の満州からソ連兵に追われて山を攀(よ)じ川を渡った引き揚げ者たちの惨状に、それは似ている。夫(後の新田次郎)をシベリヤへ連れ去られて女手一つで(乳飲み子を含む)子供三人を連れて帰った藤原てい著「流れる星は生きている」を読んで、国家や社会秩序などの基本的インフラは無論、倫理も経済も悉(ことごと)く失って生きることの有り様に、僕は思い当たる。
 この二十一世紀に侵略戦争を受ける国民は、自然界の掟(おきて)と同レベルで冬の寒さを味わうことだろう。逆に考えれば、かれらは生き物の悲しみを同じ視線で見つめている筈だ。それは文明以前の冷徹な哲学に違い無い。                                                    (日記より、Windows-8,1にて)

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