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認識が先か、行動が先か、は反射神経。ジェームズランゲ説は完全なる間違い

アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズとデンマークの心理学者カール・ランゲ、によって提唱されたジェームズランゲ説といった心理学がある。自分の認識からしたら、それはたんなる妄想、としか思えない。

それは無駄な哲学と心理学によるアポフェニアに陥ってるだけに過ぎない。「その感情が先か、行動が先なのか」、それを哲学的な心理学として考えるが、その答えなど簡単、それは完全に反射神経の問題。

悲しいと思うから泣く、泣いたから悲しいではなく、悲しいから泣く。泣いたから悲しいなら、その最初のきっかけが存在しない、そのきっかけ、トリガーがあるから人は泣くもの。人は悲しい現実を見て、辛い現実を目の当たりにして心を痛めて泣くが、自分の泣いた顔、泣いてる自分に酔いしれて泣いてるわけじゃない、それだと愛を否定してる事になってしまう。

自分の表情、行動が泣いているから泣く、笑うから笑っている、それならきっかけなど何もいらなくなる、笑う行動をして笑い、泣く行動をして泣くのなら、それは単なる情緒不安定。

確かに、泣けば自分の泣いている姿にも泣いてしまう場合もあるが、それは「こんなに泣いている自分はかわいそう」、のナルシスト的な認識が芽生えてしまうから。自分のために泣くのと、誰かのために泣くのはまったくの別物で、それが自分の欲する欲望なのか、他者に向けた愛なのかの違い。

誰かの辛い思いを聞き、それが最初の認識とし、それがトリガーとなり泣いてしまう、だから行動ではない、認識が先となる。胸を叩かれたから心が痛み涙が流れる、だからこれは反射神経の問題、と言うこと。

怒りも同じ、自分のための怒りなのか、他者を思っての怒りなのか、でも内容は違ってくるが、自分のプライドが傷つけられた、善悪の知恵により羞恥心を刺激された、恥ずかしいと思う気持ちをつつかれた、それによる怒りは欲望の怒りであり、それも反射神経。

行動が先となるなら「自分のプライドが傷つけられた、善悪の知恵により羞恥心を刺激された、恥ずかしいと思う気持ちをつつかれた」、の部分がきっかけとならない事になる。そのトリガーの認識があるからこそ人は怒り、やがてその怒っている自分の姿にも触発され怒りがより増幅する。

その怒っている自分を認識することができなければ怒りを冷ます事ができない。その怒りを治めるために自分が怒っている、と認識する必要がある。怒りが治まっている行動をするから怒りが冷めるわけではない。

人はなぜ笑い泣くのか、それは笑いたいから笑い、泣きたいから泣いているだけで、泣かせてもらうのではなく自分自らで泣き、笑わせてもらうのではなく自分自らが笑う。しかしそのきっかけが無ければ人は泣けないし、笑う事もできない。行動があって泣き、笑うのではなく、認識があるからこそ、その反射神経により泣き、笑う事ができる。

ジェームズランゲ説では全て受け身として考えているが、認識と行動も相互作用なので、陰があるから陽があるのと同じで、その2つを繋げるもう1つの張力があるから三位一体は完成する。笑いたい気持ちと、笑わせたい気持ちの相互作用と、その2つを引き寄せるものがあるから笑いの反射神経が発生し楽しくなるもの。他者の笑わせたい、の気持ちをくみ取り認識しなければ人は笑う事ができない。逆に笑いたい、の気持ちをくみ取り認識しなければ笑わせる事もできない。

それが+と-、陰と陽、愛と欲望の相互作用『あなたに足りない所はわたしが補い、わたしに足りない所はあなたが補う』、与え与え合う愛の相互作用となる。

人は1人では生きてはいけない、与え合う対象がなければ泣くことも笑う事もできない。行動があるから泣き、笑うのではなく、そう認識させてくれる対象者がいるから人は泣いて笑っている、喜怒哀楽を持っている。

ジェームズランゲ説は自分からすれば、完全なる間違い、それは妄想的な哲学でしかない、と認識した。これは行動が先として認識したわけではなく、その考え方を認識してから間違いだとする答えを行動し文字を綴っている。とりあえず行動すれば結果は後からついてくる、のような認識は間違いで、やはりそこに反射神経が無ければ、認識し行動が一瞬のうちに発生する事は起こらない。


神が禁断の果実、知恵の実、知恵を禁じたのは、人が善悪二元論に陥り分断対立し争い続け、愛を失い欲望が支配するバビロン(滅びの世)、となる人間社会を築いてしまうから。

しかし人間は今でも松果体を拝み、蛇を信じて知恵を重んじる。そんなものより大事なのは愛、それを無くして人類が永続する事は不可能。シンギュラリティにより人工知能を拝むようになるのなら、その…「ものを言う事さえできるようにした獣」、の支配下となり、その獣を拝む全ての人々には666の刻印が刻まれる。人間の造った人工知能と呼ぶ知恵の偶像、それを拝むなら人間の刻印666は必ず刻まれる。

AIは神にはならない、神の心としてある愛を持つ事はできない。だから人間はその獣の像を拝んではいけない、善悪の知恵など愛が無ければ裁くことなどできない。 

女神テミスのように、女神自身の愛と、偏見なき覚りの目を発揮するための目隠し、揺るぎなきパワーとなるソード、その三位一体がなければ天秤が静寂となり水平となり、安定した状態となる沈黙を生み出す事はできない。知恵のみでしかない人工知能は愛を持つ人間を越えることはできない、それは絶対に不可能。


知恵だけではなく、愛を基軸として物事を考える、それが愛と覚りと欲望の美しき心のトライアングル、不動なる神の心、沈黙の天秤である。



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