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私のこと。

はじめまして。えぬです💡

私は現在、双極性障害と共に生きている
25歳社会人です。

診断がおりたのは今年に入ってからなのですが
それまではうつ病、パニック障害等の診断をされたことがあります。
ただ、自分自身、その診断はあまり腑に落ちておらず薬も効いているのか曖昧な状態でした。
主治医との相性も悪い時期がありました。
ですが現在は、通院と薬物療法で寛解に向けて頑張っているところです🌷︎

双極性障害は突発的なものではなく
過去の生い立ちも発症原因の1つとなることもあります。
ですので、自分の過去を毛嫌いして隠すより、一つ一つ思い出して整理する事が大切です。

今回は、そんな私の過去を
みなさんにお話しようと思います。
少し長いですが、どうかお付き合い頂けると幸いです。

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生まれ~小学生。

私はシングルマザーの母のもと関西で育ちました。
祖母と母と3人で住んでいたこともあり
祖母も私を育ててくれた1人です。

小学校4年生の頃、顔に怪我を負ったことにより
容姿に対するいじめを受け
小学校5年生の頃に母の貯金を全部使って
全く別の県へ転校しました。
世界はこんなにも大きいんだよ、ということを教えたかったと後から聞きました。
そこは全校生徒30人ほどで、とても小規模な学校でした。生まれ育った場所とは大きくかけ離れた田舎で、町人みんなが知り合い!な場所で小学校を卒業し、中学生になりました。

中学生。

中学校も小規模で、1クラス9人でした。
その土地ならではの給食や学校イベントがあり、誰もが体験できるような場所ではなく、今となっては本当に貴重な体験だったと感じます。

1年生が終わろうとしている3月11日、
私たちは理科室の掃除をしていました。
すると、大きな揺れを感じ、テレビをつけると悲惨な状況が日本を襲っていました。
それは後に、東日本大震災と名前がつきました。

公共交通機関も止まり、
地元にいる祖母にこのまま会えないのではと、母も私も焦っていました。ここで、大きな決断をすることになりました。
「私、地元に帰る。」
この時の言葉は、私が大人になってから母から聞いた言葉で私自身覚えていないのですが
いじめを受け、相当な傷を負ったはずの地元に帰ると、決めました。
母はその時、私の成長を感じると共に誇りに思ってくれたようです。

そして、中学2年生の春
私は地元の中学校へ転校しました。

そこでは、離れ離れになった友達が笑顔で迎えてくれました。
「急に転校しちゃったからもう会えないと思って寂しかったよ、おかえり(^^)」
本当に、嬉しかったです。

それからは無事中学校を卒業し、
高校へと進学しました。

高校生。


高校では、中学校1年時にしていた
バドミントン部に所属しました。
ですが、2年生の頃に退部してしまいました。
理由も忘れてしまいましたが、今思えば双極性障害の症状(継続力のなさ)がすでに出ていたのかもしれません。

そして進路を決める高校3年生の頃、
ずっと夢みていたドルフィントレーナーの専門学校に合格しました。夢のようでした。
でも、母はそう簡単に許してくれませんでした。
専門学校の費用は高額で、奨学金のこともあり、「必ずなれるとも限らないのに行かせることはできない、一旦短大に進学してそこで考える時間を作って卒業後にもう一度行きたければチャレンジすればいい」
そう言われました。
私は昔から母との口論には勝てませんでした。
そしてそのまま短大へと進学します。

大学生。

短大では、留年してしまいました。
やっぱり自分の学びたいことは動物関係の事だったのに、それとかけ離れた勉強についていけず休みがちになり、単位を落としました。内定を頂き、入社式まで出た会社も取り消されました。

そしてそんな私を見た当時の彼氏が幻滅し、振られ、失恋しました。
(それは後に大きな傷となり、7年ほど引きずることになります、、、(´-`))

そして1年留年し、短大を無事卒業しました。

社会人。


卒業後は在学中に働いていたアルバイト先(エンタメ業界)をそのまま続け、内定を頂いた3社はお断りしました。
その会社に1年半務めた頃、コロナウイルスが蔓延し、出社停止になりました。
収入のない私は求人を漁り、その中で水族館の求人を見つけました。そしてなんと合格し、念願の海獣チーム(イルカ、オットセイ、ペンギン)に所属することが出来ました。トレーナーとしてではなく、アシスタントの立ち位置でしたが、本当に嬉しくて、SNSで、「夢が叶った」ことを大々的に発表しました。周りからの応援も熱く、その時の私は絶対にトレーナーになる!と意気込んでいました。
喜んだのも束の間、現実はそう甘くはなく、
・専門学校に通いながらバイトをしている同僚
・SNSには社会人として真っ当に働き、休日には旅行やカフェを満喫している友人たち
そんな日々に押しつぶされ、劣等感に苛まれ、無断欠勤し、退職してしまいました。夢の場所での仕事は1ヶ月半で幕を閉じました。

私は、どうしようもなく前職場が恋しくなってしまい、どうにか戻れないかと上司に相談しました。以前より欠勤が続いており、それをしない事を条件に前職(エンタメ業界)へ復帰しました。
ですがまた、欠勤の日々となってしまい、人間関係もうまくできず、復帰から2ヶ月で退職しました。
この2ヶ月の間に、彼氏ができるのですが、同じ部署同じチームの1人に元彼女がいてその方にありもしない噂を流され人間関係が上手くいかなくなったという経緯があります。そして、私自身も実家を出て別の方(お付き合いしていた)の家にお世話になっていましたが、別の方を好きになってしまいその家を出ました。そしてその方には一人暮らしの初期費用を借りていて、返済を滞っていました。

そして同時期に祖母が亡くなりました

金銭面に苦労する時期。


(別記事で詳しく書きます)


数ヶ月が過ぎた頃、その方から連絡がきて、返済の連絡と親へ連絡するよう話が進んでしまいました。そこから約2年は地獄の日々でした。
元職場を退職してから3ヶ月に一回転職をし、やっと受かった正社員としての職も3ヶ月で辞職しました。仕事が続かないということはその分収入もないわけで、お金に苦労する日々が続きました。そして母との関係もどんどん悪くなっていきました。

一人暮らしをしていた家も家賃が払えなくなり実家へ戻り、毎日毎日お金の話をされ、ついには、当時の彼氏に嘘の混ぜて話を盛り、彼氏の実家に住まうこととなります。
そこでも、育ちの違いやらで相手のお父さんに怒鳴られたり、お母さんにも怒鳴られる日々でした。彼氏も実父母には逆らうことが出来ず、私の味方は誰一人として居ない状況でした。
そんな日々が約1ヶ月続き、急性胃腸炎になって限界を感じなんとかその家を出て、実家に戻りました。同時に彼氏とも縁を切りました。端的にまとめましたが、本当に地獄でした。(出ていく時に、一生顔見せんな!!と言われました)
その後は自分でも、何をして過ごしていたのか記憶が飛んでしまっていてあまり覚えていないのですが、長く続いた仕事はありませんでした
そんな折、数ヶ月彼氏がいなかった私は正社員として働いていた職場の先輩から男性を紹介されます。(それが現在の同棲している彼氏です)
その方と出会い、私の人生は大きく好転しました。

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おわりに。



ここまでが、私の過去です。
特に社会人になってからが本当にしんどくて
約3年間は地獄だったといっても過言ではありません。
今はやっと自分を受け入れて治療に励むことができていますが、自分でもどうしたら良くなるのか分からない日々が長く続いていました。

きっと私以外にも同じような経験だったり
現状を変えたいけど、どうしたらいいのかわからない方が沢山いらっしゃると思います。
だからこそ私の過去を全てさらけ出し、
私はどのように変えてきたのか、変えているのかをnoteに書き記し
自分だけじゃないんだと、少しの安心材料になればと思っています。

読んでくださった方の明日が
少しでも穏やかな日になりますよう
心から願っております。

長く拙い文章ではございましたが
お付き合い頂きありがとうございました。



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