見出し画像

留学まとめ:デザイン+プライド+骨格

「留学」という言葉に対する認識

インターネットを通して、日本に居ながら海外の情報を簡単に手に入れられるようになった。今や誰でも海外に行こうと思えばいつでも行ける時代になった。世界が近くなっている。

「留学経験」という一言を自身の経歴に追加することが、日本式の就活に役立つことが周知されて久しい。それに伴い所謂「交換留学」という形式がビジネス化され日本の大学に在籍しながら、この「留学経験」を手軽に手に入れる機会が右肩上がりに増加した様に思われる。さらに、国際という名を冠する学部に所属していれば、この「留学経験」はそのプログラムの一環として認識され、大学に置ける単位の互換もできるといった丁寧なサポート充実しているらしい。

ここでの「留学経験」は、日本という境界に片足を残したまま、もう片足のつま先だけをほんの少しだけ日本以外の境界に突っ込んだ様な体裁をとることが多い。この状況は、結果的に基本的な慣習や思考のプロセスは純日本式のまま、表層部分だけを「留学経験」で覆い隠した日本人留学生を輩出していく。

この「留学」に対する認識が行き着く先は、始めから目的地、経路、時間帯が定義され、同級生全員で乗り込む修学旅行のバスの様な日本特有の就活システムと同等の存在へと成り変わってしまうのではないかと疑っている。

厳密には、交換留学や正規留学を比較してどちらが良いかなどと言いたい訳ではない。「始めから目的地、経路、時間帯が定義され」という個人の内的かつ能動的な意思の存在が次第に減退していく様を悲観的に思っている。


剥がされる表層部分(個人的意見)

日本の就活というビジネスは海外にまで足を伸ばし、毎年その範囲を拡大させている。一年に数回世界の主要都市に出前日本を推参させる。ボストンキャリアフォーラムなどはその一つである。日本での仕事をするにあったてこれは非常に便利なイベントである一方で、これにはもう一つ面白い側面があると思う。

数年前にこのイベントに実際に参加した先輩からのとても印象に残る感想があった。その先輩は、こう形容した。

ボスキャリなんかのイベントは、一度レールを外した若しくは外れかけている日本人学生を元のレールに戻してあげるためのものだと思った。

この様にして、覆い隠されただけの表層部分は丁寧に剥がされ、再び日本式の右向け右的な思考プロセスを日本人学生は取り戻す。これにより、日本企業は、2、3ヶ国語以上を話すことのできる「新卒ミニオン」を低価格で掌握する。


留学の意義(個人的意見)

留学をすることの意義は、*海外における実践&学習コミュニティに自分自身を放り込み、全く新しい表現方法(言語を含む)と価値体系をインストールすることにあると考えている。この実践&学習コミュニティは、表面的な異文化体験よりも深い層に位置するものであり、実際にその枠の中に身を置くことでしか経験することが難しい。

具体的に何をどうすれば自分自身をこの実践&学習コミュニティに放り込むことが可能になるのか?それは、学びを深掘りするということにあると思う。アカデミックな状況に置き換えれば、メジャーを決めるということである。

自分の学びの深掘りをするということは、一般的に言う「T型」の人間になるということである。アートスクールの様な専学的な環境ではなく、ユニバーシティという学際的な環境で一つ学びを深掘りすることの価値はここにあると思う。一般教養は、「T」の横線(Bar)の部分のことを指し、多様な知識が思考の幅を拡大する。自らの専攻は、「T」の縦線(Stem)の部分を指し、思考に骨格(哲学)を与える。

ヒュー・ダバリーは、*「教育と学びの10のモデル」という論文の中で実践&学習コミュニティの関係に対してこの様に書いている:

In a healthy discipline,
the two communities are engaged in conversation:
The community of learning teaches the community of practice;
likewise the community of practice teaches the community of learning.

訳すと:

健全な分野において、
その二つのコミュニティ同士は対話に参加している:
学習コミュニティが、実践コミュニティに対して教えることもあるし、
その逆もまた同様である。

大学などの高等教育機関で学問をすることだけが全てではないものの、アメリカにおける大学(=学習コミュニティ)と業界(=実践コミュニティ)との関係は、非常に強く結びついている。大学院においては、さらにその様子が顕著である様にも感じられる。

デザイナーであれ、ジャーナリストであれ、何であれ、大学が実際のインダストリーときちんと結びついているため、基本的に多くの人は、この学習コミュニティの中で修行を積み、実践コミュニティへと参加する。そして、一定期間を経て再び学習コミュニティへと戻るといったフィードバックシステムが成立している。この健全な循環システムは、各々の実践&学習コミュニティの更なる発展に貢献し、それぞれの分野におけるこれまでの歴史、哲学、研究の積み重ねを紡ぎ、そこにプライドを生み出す。そして、これらのコミュニティに所属する人々は、そのプライドを胸に仕事をする。

人材の流動が活発なアメリカでは、意外にも「推薦」という少しオールドスクールな信用を基盤としたシステムによって、この二つのコミュニティが有機的に繋がれている。従って、どのプログラムでどの教授と一緒に勉強するか、どんなメンターと巡り会うことが出来るかなどによって、自身の思考の骨格(哲学)や選択肢にも影響することがある。

少しだけ自分の話をすると、自分の教授もメンターも、ポール・ランドやジョセフ・アルバーなどが教鞭を執っていた時代のイエール大学系列のスイスモダンニズムを基本とするデザイナーであり、幸運にもその人脈の中に招き入れてもらうことができた(イエール大学には行っていない)。

全く新しい表現方法と価値体系をインストール出来たことも勿論であるが、それ以上に異国のコミュニティの中に自分の居場所を与えてもらい、普通に頼ってもらえる様になったこと、ここに留学の大きな意義があったと断言したい。


インストールすることと覆い隠すことの違い

全く新しい表現方法と価値体系をインストールすることと純日本式の価値体系の表層部分だけを「留学経験」で覆い隠すことには大きな違いがある。

思い切って比喩的に説明してみる。

インストールすることは、一流の刀工が鍛えた新たな名刀を手に入れ、元々のもう一本の名刀と共に扱うことを体得することで相乗効果をもたらす二刀流のようなことである。

これに対し、覆い隠すことは、元々の刀にあれやこれやと不必要な装飾・整備を施し、本来の刀を鈍へと変化させるようなことである。

この二つの違いの中で、もっとも重要なのが新たな表現方法と価値体系をインストールするということで二つの全く異なる境界の中を振り子のように行ったり来たりすることが可能であるという点である。そして、この行ったり来たりするという行為は、それぞれの境界を独立して行き来するのではなく、同時に跨ぐことである。つまり、二つの世界を新しい形でつなぐことが可能になるということである。しかしこれは、自分自身の思考の骨格(哲学)無しには成立しない。


思考の骨格(哲学)を定義すること

インターネットのおかげ(せい)で今の世の中には、情報が無秩序に溢れ返っている。物事を整理して体系的に理解しようという態度は、無限に拡張を続ける百科事典を手にした人々から次第に忘れ去られていく。

携帯や保険のプランも、スマートなはずのアプリも、テレビの画面も、行政の手続きも、無駄なマスコットキャラクターや虹色に枠線や影でこれでもかと装飾され、見るに耐えない気の毒な姿へと変貌した文字達が散乱し、白い背景が一切なくなるまで情報が可能な限り詰め込まれているものばかりである。これでは、火に油を注いでいる。

これは、行き当たりばっかりで、その場しのぎで、アジャイルなメンタリティーで、PCDAサイクル高速回転でといったとりあえずやる的な態度が生み出したVulgarityだとマッシモ・ビネリならきっとボヤくだろう。

加えて、色んな人が多様な視点から様々な意見を背景状況を度外視に、物量的に発信出来てしまうものだから何のまとまりもなくただただ情報が散乱する。最新の情報を手にしようとアンテナを常に張り巡らせていると次第に辟易してくる。

自分だってこんな文章をつらつらと書いて発信するものだから自分のことは棚に上げてと言われることだろう。しかしながら、書くという行為は、視覚可能な形で自分の思考を整理するプロセスの一つであり、自らの思考の体系と現状を理解するためには欠かすことのできないものである。問題の根幹は、思考の骨格(哲学)を持たず、ひたすらにインプットの為のインプットをする行為にある。

デザイナーであるSlava Shestopalovさんは、このような状況が生み出す人(この場合デザイナー)のことを*「em-dash-shaped designers」と呼ぶ。つまり、先ほど述べた「T型」の人間の横線(Bar)のみしか持たない人のことを指す。

Hiroki Tanahashiさんの*「読みやすさについて誤解されていること」という記事がこの現象を端的にまとめている。

読みやすいのは、ネット記事より実は本
あと、考えてみれば、当たり前なのだが、人にはそれぞれ言葉の組み立てのクセがあったり、言葉を紡ぐ背景としての生活があったりするから、 同じ人が書く文章は、複数の文章があっても文脈は似てくる。似てるのだから、ひとつ文脈をつかめば、他の文章も理解しやすくなる。

そこでわかるのは、手っ取り早く文章読解力をつけようと思うなら、やたらと多くの書き手の文章を雑多に読むより少数の書き手の文章に絞って読むようにした方がいいということだ。

自分の学びを深めることも、究極的にはこれと同じ結論に辿り着く。つまり、思考の骨格(哲学)を定義するとは、自らの*享楽的こだわりを持つことである。

留学を通してインストールする新たな表現方法や価値体系は、この享楽的こだわり(自分の学びを深めること)が存在して始めて成立する。元々自分(日本人)が持っている思考プロセスとの両立は、この骨格(哲学)を定義することで支えられる。この骨格が無ければ、自分の「留学経験」は表面的な異文化体験記で終わっていただろう。

なぜかデザインの勉強を始めてから「デザイン=学び」だというふうに捉えてきた。そして、自分の中にはこれに「共有」を付け加えたいと常々考えていた。つまるところ、自分にとってのデザインは、学び+共有であった。だから、Dubberly Design Officeにおける一つのテーマである*「Design for conversations」には甚く共感し、これを新たな思考の骨格(哲学)として道標としてきた。


これからの指針

最近日本に帰国して、今は自宅から仕事をしている。しばらくしたら実際に日本でデザイナーとして働く予定である。

まだまだデザインについて学ぶことは沢山ある。留学をしたおかげでデザインの「デ」の全てを、アメリカからインストールしてしまった。ということは、これから今の自分にはないデザインの「ザ」の全てを日本で働きながらインストールする必要がある。この二刀流を一日も早く使いこなせるようになりたいと思う。

これまでとこれからの機会に感謝しつつ、今回はここで締めとする。

---

References:

Dubberly, Hugh. 
10 Models of Teaching + Learning
What is conversation? Can we design for effective conversation? 

Tanahashi, Hiroki.
読みやすさについて誤解されていること

千葉雅也
勉強の哲学 来るべきバカのために

Slava Shestopalov
Why UX, UI, CX, IA, IxD, and Other Sorts of Design Are Dumb

Wenger, Etienne. & Jean, Lave.
Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation




基本的に今後も記事は無料で公開していきます。今後もデザインに関する様々な書籍やその他の参考文献を購入したいと考えておりますので、もしもご支援いただける方がいらっしゃいましたら有り難く思います🙋‍♂️