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蝶々の採餌  第一話

 艶子さんのミンクの毛でこしらえた睫毛は黒く長く、くるりと弧を描いて頬に柔らかな影を落とす。ふさふさと羽ばたいていけそうな睫毛を濡らした涙はきっと春の朝露、できればまぶたに口を押し当ててその甘露を吸ってみたいと思う。真珠色の鱗粉をまぶした、ふっくらとした貝の実のようなまぶた。

「ずいぶんと色の無い世界に生きてきたのね。」

 え、と聞き返そうとして顔を上げると、白いうりざね顔の中で、あの睫毛に縁どられた目が私の目の中を覗き込んでいた。それはあなたは色気がない、と指摘されたのだと気づき、何も言えなくなる。私は今、銀座の会員制クラブのホステスの採用面接を受けている。黒目勝ちで、切れ長の目と、よく手入れされたつやのある黒髪、どこか古風な印象を受ける赤い口紅。艶子さんは自分に似合うものをちゃんとわかっている。

「クリームソーダのお客様。」

嘘のように鮮やかな緑のメロンソーダに白いアイスはぷかぷかと浮かび、赤いチェリーは水底に深く沈んでいる。びっくりする私をくすくすと笑い、艶子さんは甘いに違いないアイスの雲に細長いスプーンを深々と刺して口に運ぶ。私はブラックアイスコーヒーを泥水のようにすする。クリームソーダを運んできたウェートレスが艶子さんの睫毛を見ていたのがわかる。銀座に34年前からあるという喫茶店内には妙に凝った音響設備が整い、モーツアルトの弦楽四重奏が空気を震わせていた。

「色のある世界を見てみるのも面白いかもしれない。あなた、私の妹になれる?」
「はい。」
「では明日。ドレスはお貸しするわ。お化粧は今日の感じで大丈夫。もう少し、マスカラと口紅を濃くできる?髪は巻いてこれるわね。」
「髪はセットしてもらってから行ったほうが」「うちは比較的カジュアルなお店だからダウンスタイルで大丈夫よ。サロンに行っても経費で下せないわよ。それにあなたみたいな着慣れていないコが髪を膨らませても、結婚式の二次会みたいになるだけよ。」

 何も言い返せずにいると、艶子さんはうぶね、と笑った。

「もう少し、うまくかわせるようにならないとね。そうだわ、これをかしてあげる。なくさないでね。」

艶子さんはエナメルの黒いハンドバッグから、ブルーのベルベットでできた小箱を出した。ツヤツヤと光を放つその箱を開けると、ピアスが1セット。白く、ころんとしたフォルムを強調したそのピアスは、品の良い虹色の光を放っていた。

「白蝶貝のピアスよ。祇園で芸妓をしていた私の母から受け継いだの。」

こんな高価なものお借りして大丈夫ですか?という言葉は艶子さんの私は若い時、K大学で昆虫の研究をしていてね、という言葉にかき消された。これでも今で言うリケジョだったのよ。艶子さんの言葉は良く弾むゴム毬のようだ。軽いボールはキャッチするのはそんなに難しくないように見えて、どこへ飛ぶのか誰にもわからない。

「その時、まだ日本では公表されていないギアナ高地の新種の蝶を研究していたの。知っている?蝶々には、甘い蜜が隠れている場所がとても美しい色で見えるのよ。」
「小学校の授業で習った気がします。たしか、蜜のある花と、異性の蝶が人間には見えない色で見えているって。」
「あら、優等生ね。その通りよ。人間の色には、赤から青橙黄緑青藍と紫までの7色の幅しか無いけれど、この世界にはその赤から紫までの幅の外にも色があるの。赤外線と紫外線って聞いたことあるでしょう。赤より外の色と、紫よりも外の色よ。7色の色の幅の外、8色目の色。その中でも蝶々には、紫外線が見えるの。」

うんうん、と相槌を打つしかない私をどこか満足そうに艶子さんは眺めている。私は、蝶というより蜘蛛の糸にからめとられた気がした。

「蝶々にとっての『餌』が放つ微細なエネルギーが、紫外線という形をとって蝶々の肉眼には見えている、っていうのが私の研究のテーマ。ま、試してみて。」
「え、試す?」
「いいからいいから。あとは実戦あるのみよ。あなたなら大丈夫。たぶんね。」

不思議なもので、あなたなら大丈夫、というその言葉は説得力をもって私の腑に落ちた。人の魅力は説得力になるのだ。




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