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PBLからSBLへ〜私から社会へと繋げる学びのあり方〜

前回は「大学創り」を目指す訳に関して色々書いていきました。今回はではその大学で一体どのような学びのあり方を目指すのかについて書いてみようと思います!!

前回の記事はこちら!!

私が目指す大学では、当事者研究と探“究”学習(≒PBL)のエッセンスを組み合わせたSBL(=Self-based-learning=自己探“求”)を中核に据えた学びの形を目指していきたいと考えている。

当事者研究とは、「痛みを取り戻す」「自分自身で、共に」をコンセプトに障害者自ら自分の障害・生きづらさを研究する営みである。これまでの医療・社会から病名を与えられ治療をされる対象から自分自身が研究をすることで苦労の主人公であることを取り戻すことが目的として設定されている。具体的には「一人一人から生み出される痛みを外に出した(≒他責化)した上で、その在り処を、その痛みの乗り越えを、他者とともにコトバを紡ぎ、分かり合える状態にしていく営み」だと私は解釈している。

ではなぜ、当事者研究をベースに据えるのか。それは「自己の切実な問いをもとに社会に繋がること」を導くためである。従来の教育のあり方はいわゆる系統型学習であった。そこでは子どもたちの興味関心ではなく、社会の側が必要だと考えているものを効率良く教え込むことが重視された。そのため教育は社会に適合するための手段であり子どもたちが社会の構成者となりうる可能性を削いでしまっていた。

そのアンチテーゼとして出てきたものが探究学習だ。系統的に分けられた実生活に基づかない知識伝達から自ら知識を構成し社会に関わる主体として存在することができるようになった。 しかし、ここで提示される課題・問いは自分自身から湧き出るものではなくいわゆる「社会から与えられた問い」が中心になっているのではないかと考えている(本質的に探究学習を推進している人は一概にそうとは言い切れないが)。いわゆる探究学習”させている”現象の蔓延である。
私の中の内発的な欲求起点よりも、社会にとって必要な事象にアプローチするスキルを得ることができるのが探究学習になっているのではないかと私は思う。

だが、まだそれだけでは足りないと私は思う。 社会全体が「正解」を提示することができなくなった現代において「正解」を探し求める主体は個人になった。しかし上記のように社会から提示される学びのあり方は変わってはいない。一人ひとりが一人であることを求められながらもその「一人」であるための私の獲得をしえないのである。

私自身の原体験からもこの考え方は導き出されている。幼少の頃から“当たり前”に迎合することができなかった自分は常に他者から「異常である」と弾かれ続けていた、それは“不登校生のため”の高校でも変わらなかった。その空間における“不登校生らしさ”の見えない強制に耐えきれなかった私はその場所でさえも「異常である」と認識された。そうして社会に溶け込まなかった私はいつしか“社会のコトバ”を失い“私のコトバ”しか保持し得なくなった。つまり他者と共有出来る体験、それを語るコトバが消失したのである。他者と分かり合えないその経験、コトバは私にはどうしようもなく存在していたとしても他者、社会には存在していない(=つまり私という存在そのものが存在しない)ことと同義となる。私は常に孤独と向き合わなければならなかった。

こうした状況を克服していくためには私の内なる声(≒違和感)に気づけるようになり、その声から導き出される問いを他者と共に探求することで社会における言葉の獲得を促すことではないだろうか。そうすることで一人ひとりが自分の物語を人々と共に構成する主人公になることができるのであると私は考えている。

以上です!!ここまで読んでいただきありがとうございまし
た!!
今回はPBLからSBLってなんぞやという話を中心に据えました、次回は「ではSBL=自己の想いを社会につなげ、語るという行為がなぜこれから必要なのか?”マイノリティ”に限られる話ではないのか?」について中心に書いてみようと思います!!ではでは!!

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