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かんじるココロケア のやり方

考えるかわりに かんじてあげる。 自分のココロ(感情)とアタマ(思考)への上手な接し方であり、 悩まないコツのようなものです。 こちらの内容をベースとしたセッション かんじるココロケア を おこなっています。 まずは、かんじるココロケアの基本(やりかた)です。 いまの呼吸に気づいて、かんじてあげる。 いまの 呼吸 に  気づいてあげる。 吸ったり 吐いたり  勝手に、自動的に、繰り返されている いまの呼吸、、、 いまの呼吸の様子は どんなかんじだろう?

    • ここにないものは、見つけられない。

      ここにないものを探しているから ここにない、ということが起きている。 ぜんぶそう。とても単純。 それを ”ここにないもの” として捉えているから ”ここにないもの”を見ようとしたり、わかろうとするのだけど、その時点で ここにはない ってことになってしまう。←だから認識できない。 そうやって”ここにない”というアプローチを選択した時点で、それは”ここにはない” たとえば 「探している」とか「考える」というのは、いまここに「ない」「わからない」から…というのが前提になっ

      • 概念あってこそ。

        前回の わたしという概念が生まれたときの記憶 のつづき 非二元というのは《赤ちゃんの視点》 自他のなさ、区分のなさ、概念のないそのまま。 自我をとおして生きる世界は、 いわゆる《現実》と呼ばれる 概念をとおした価値観の世界。 あなたとわたし  良いがあるから、悪いがあって 優れているなにかがあるから 劣っているなにかがある 相対的な世界。 以前、うちのワンコが、 首輪が外れた瞬間に なにも考えずに突っ走っていってしまって もう二度と会えないかも、、、 というような出

        • わたしという概念が生まれたときの記憶。

          人間としての最初の記憶 まだ目が見えない、光しかかんじないときの記憶 いま思い出すとそれは、 分離/二元性の概念が吸収された瞬間。 わたしという概念が生まれたときの記憶。 その瞬間は、概念と呼べるほどカッチリしたものではなくニュアンス。 「そういうもんなんだよ、ここは」っていう具合に “ここのルール“が伝播された瞬間の記憶。 わたしは自宅の玄関すぐ横の部屋で寝かされていた。そこに隣のおばさんがやってきて「赤ちゃん見てもいい?」と声をかけて、母が「いいよ」と返事をした。

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          パカっと割ってみると愛

          葛藤の手放し方、いろいろやり方ありますが 最近のイメージは「中華まん」 おまんじゅうでもいいとおもうのだけど、 最初に浮かんだイメージが中華まんでした。 現実という表面的なところでは いろいろなことが起きているように見えるけど、 パカっと割ってみたら中身はいつもおなじ=ひとつ。 それがなんであれ中身は ひとつ、愛、真我、、、 呼び方はいろいろだけど 二つに割れていない本質。 パッと見では見出せなくても パカっと割ったら、ぜんぶそう。 ほっこり。じんわり。愛。ひとつ。

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          暇なときにやる遊び

          思考が、どこからやってきて、どこにあるのか、、、 そんな観察 アイデアとか発想とかコトバや思考が、 どこからやってくるのか。 それらがやってくる出入り口 そして、それは、 どこにとどまっているだろう ただ生じている それはどこにも所属してない。 思考に関して、 または非二元的な視点についての話題は 思考/それと一体化している“自分”というものが わちゃわちゃしたりすることがある。 慌てたり、焦ったり、動揺してみたり、 それゆえに理解・掴もうとするのは、 思考が

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          暇なときにやる遊び

          絶対。

          日々、出来事、体験  があって、 それによってなんらかの 刺激や反応 思考や感情があって、 それらを淡々と ‘手放す’ それを「昇華」とか 「観る」とか「味わう」とか 瞑想と呼ばれているものをとおして 起きていることなのだけど、 限定しない というか その思考感情から 離れる というか、 そんなふうに ‘手放す’ ということは いろいろな表現・例えることができるけど ただ単純に  手放すと ‘忘れる’ が起きる。 忘れちゃう。 気にならない。 まっさら。

          トピックのなさ。

          一昨日ぐらいからペースダウンしはじめて、モードがかわって、ゆったりしはじめる。意識的にそうしようとしなくても。 SNSなどを見ていてかんじることは、SNSにいろいろな言葉思考が想起している様子と“自分”のアタマの中で言葉思考が想起している様子は、まったくおなじことで、というよりも“SNSで起きていること”とか“自分のアタマで起きている”という区切りのなさ。ひとつ。 だからどれもが正解でも不正解でも真実でも嘘でもなく、ただただ平坦に、ただただおなじように広がっている。 “

          トピックのなさ。

          ボディワークのお仕事

          ひさしぶりに、なにか書きたいなーという気分がやってきたので、言葉にしてみます。 ここ数年、非二元を中心とした探求について興味津々でやってきて、だいぶお腹いっぱいになり、でもそれに飽きたというより、それまで「特別ななにか」だったものが馴染んで至ってフツー(日常)になったからなのだとおもいます。 あってもなくてもいい というぐらい当たり前(フツー)なものとして。 ここ数ヶ月忙しくてなかなかツイッター含めて更新できない状態というのもあったのだけれど、改めて語る必要性もなくなっ

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          ボディワークのお仕事

          “自分”が帰ってくる。

          久しぶりにnoteを更新してみて、 文字を打ってみて、かんじたのは 言葉=マインドにからめばからむほど 言葉という乗り物にのっかって、 言葉=マインドと一体化する “自分”が帰ってくる それとの一体化が“自分”という現象だから、当然といえば当然なことで、マインド=言葉的には、非常にうまく説明できたり理解できていて、垣間観たなにかが表現されているのにも関わらず、なんともいえない 惜しさ/違和感 がそこに漂っているとき、共通して、マインドの強い主張/一体化がある。

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          “自分”が帰ってくる。

          せめてもの表現。

          言葉を使うことによって、言葉の次元に降りてくる。 “自分”はこの次元のみの キャラクターのようなもので、その構造そのもの 言葉の次元、“自分”の次元、マインドの次元。 “自分”という現象。 映画 オデッセイ で 火星に一人残されてしまった主人公が、 ビデオに向かって話したり、書いたり、 記録することで一生懸命に“自分”を保っていた。 “自分”が崩壊してしまわないように。 “自分”が消えてしまわないように。 そうやって主人公が保っていた“自分”とは なんだろう?

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          せめてもの表現。

          そこからは世界が白黒にみえる。

          マインドからみたら、いつでも世界は白黒にみえる。 強弱という土俵で負けそうになれば、善悪や正誤というまた別の「白黒」を持ち出して勝敗をひっくり返そうとするけれど、それも白黒ルールであることに変わりはなく、白か黒かという勝負はそのまま延長されるパターン。 マインドとはそういうもの、そのもの。 そういう性質で、そういう習性、そういう見え方。 角度をかえてみても、 工夫をしてみても、 それがポジティブでもネガティブでも、 マインドからの景色は、 いつでもどこからみて

          そこからは世界が白黒にみえる。

          わからないまま、そのまま。

          「 現実が観念とは、どういうことですか?現実は現実でしょう!」で、私は言いました。「はい、現実は現実ですが、あなたがそれについて話すときは、そうではありません」あなたが現実について話すとき、あなたは現実を観念に変えてしまうのです。言葉としての現実は観念です。現実としての現実は、あなたが考えることのできる何かではありません。あなたが現実であるとき、あなたは現実について話すことはできません。 意識は語る―ラメッシ・バルセカールとの対話 ウェイン・リコーマンより なるほどな

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          わからないまま、そのまま。

          ブッダがそうしたように。

          そんなふうに発散させたり安定させようとしているこれって、なんだろう? それを「悲しみ」だったり 「虚無」と表現する人もいれば 「諸行無常」と表現する人もいる。 いろいろな名前をハメ込むことができるのは、 それが無色透明の なんでもなさ だから。 なんでもないからなんにでもなる。 どんな名前にも、色にも、対応できるキャンパス。 いろんな名前がつけられている「これ」は どーしたって追い払えない存在そのもの。

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          ブッダがそうしたように。

          これって、なんだろう?

          批判って苦しみ。 苦しいときの反応っていろいろあるけれど、 心の安定を図るための動き、 弱々しい存在であることへの恐れや不安、 飲み込まれまいと強くあろうとする動物的な動き、 強がることで鼓舞する、そんなことを試みている心の動き。 そんなふうに発散させたり安定させようとしているこれって、なんだろう? 考えるための問いというより、感じてみる。 「これ」を確認してみる、確かめてみる。

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          これって、なんだろう?

          そんなふうに 「選ぶ」 が起きてる。

          どれも真実ではなくて、 たくさんの「解釈」が横並びしているだけ。 唯一の「なにか」があるわけじゃない。 そう捉えてみると なにが真実(正、優、白)で、 なにが嘘(誤、劣、黒)か? ということに、 迷ったりこだわったりする必要もなかったりする ただただ、無限に「いろいろ」が並んでいて、 どれもが凹凸なく「等しい」

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          そんなふうに 「選ぶ」 が起きてる。