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映画『正欲』

12月の頭に映画『正欲』を観てきました。
その時のことと、考えたことを以下に。

登場人物、延いては世のすべての人を掬い上げよう、その深い深い根を掘り下げ、掘り下げたその先はどこかに繋がる(一致)とか、出口(救い)があるだろうという思いで観ていた。それはさながら地面の至る所を掘り下げる様に。だけどどこにも繋がらなければ辿り着く所も無く、ただただ足下が不安定になっていって、体がぐらつき、私は酔って物理的に気分が悪くなってしまった。

足下がぐらついたというのは例えであるけれど、実際に気分は悪くなってしまった。私は以前にも、思考の末に着地点を失い気分が悪くなったことがある。

気分が悪くなってしまったとはいえ、最後までしっかりと観ることができた。それは、映像や構成、俳優の方々の凄さなのだろう。

映画を観て考えたのは、「普通』と「異常」、それを線引きとした「秩序、治安」と「犯罪」。そして多様性。
ああ、到底答が出るとは思えない中これを書いている。だからまた気分が悪くなりそうだけれど、なんとか、観たことと考えたことを記しておきたい。

自分が理解できること、自分のルールの範囲内のことを人は「普通」と呼ぶのだろう。そして人間は、それに相対するものを「異常」と呼び、嫌悪や憎しみを抱く。
しかし、あくまでその基準は「自分」であり、視点が変われば「普通」は「異常」に変わり、その反対もまた然りである。
それはこの世の中に一人として同じ人物はいないことを考えると、単純に因数分解していけば、「普通」も「異常」もその種類は世界人口とイコールのはずだ。

けれど、この世の中には「秩序」があり、それにより「治安」が保たれている。その「秩序」を決める要素は、勉強不足の私には明らかに言えないけれど、多数の、共通認識の、「普通」を基に決められているとも言えるだろう。そうなった時、それに相対する「異常」は「犯罪」となる。

けれど、全部が全部「犯罪」となるわけではなく、法律には守るべき目的があるのだから、その目的に影響が無いのであれば、「犯罪」とはならない。が、「異常」に嫌悪や憎しみを抱いてしまうと、「犯罪」との境界や見分けの判別が鈍ってしまう。

強迫性障害を持つ私は、襲いくる不安と闘うために、不安から自分や大切な人を守るための決められた"行動"をとる。それは私のルールなのだけれど、しかしそれは、脈絡の分からない他の人から見れば、理解ができない「異常」な行動なのだろう。そしてそれを嫌悪されれば、たちまち不審者となり得るのだろう。しかし私は、誰にも危害を加えたり直接的には迷惑をかけていないのだ。

この映画に登場する人物たちも、ただ持って生まれた感性が大多数とは違う、というだけ。なのにそれを秘密として「普通」には生きられない。病気の私も、「普通」のふりをしているけれど、「普通」には生きられない。
どこか共通性があるはずなのに、私は登場人物に少し嫌悪を抱いてしまう。私にとって彼らの感性が「異常」だからだ。

「多様性」という言葉が、もはや新しくもなくなってきた昨今。それは大切な考え方であり、尊重されるべきと私は思う。けれど、そんないとも簡単に認め合えるものではない、と、この映画を観て改めて痛感した。
だからこそ、言葉だけがポップにキャッチーに一人歩きし、上滑りしてはいけない。
その言葉には目的があり、それは場面場面で限定した対象がある。それを普遍的にするためには、その本質をしっかりと考えていくべきである。(それを考えても、今のところ私は酔ってしまうばかりなのだけれど。)

多様性の中に同一性はないのだから、違和感があることは必然で、その違和感を容易く嫌悪するのではなく、考えることが引き続き必要なのだ。そこに知恵があればその助けになるけれど、この世の中には知らないことなど数多あるのだから、それを補える想像力も自ずと必要だろう。多様性の中に同一性は無くとも、親和性はあると信じる。

そして、さらに必要なことは共感だろう。どんなにマイノリティでも、誰かと共感し合うことはできるのだ。具体的な一致がなくとも、抱える想いなど、共感する部分はどこかしらにあるはずで、共感することで、感情のエネルギーは多少分散されるのだ。

ここまで考えたことを記したけれど、この映画から私が受け取った「多様性」というテーマに、答を出せたわけではない。

すべての人を掬い上げようと至る所を掘れば、ただこの世がぐちゃぐちゃになるだけなのだろうか。はたまた、地を耕す様に、この世はもっと豊かになっていくのだろうか。

どちらにせよ、求め続けるのは、後者である。



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