【短編】結婚を決めた日〔読み切り〕

私には、学生時代に好きな女の子がいた。
今でも目に焼き付いている。オレンジ色の窓辺で、輝く瞳。黒く艶やかな髪の毛は、オレンジ色の光に照らされ、揺れていた。

彼女は、バレー部の部長だった。他のスポーツ系の部活と違い、弱小で、サークルとか同好会みたいな雰囲気の部だった。彼女自身も、他のバレー部員も、普段から穏やかなタイプで、外部から見たら、文化部の私たちとも大差がない。体育館からは、いつも楽しそうな笑い声が、軽やかに響いていた。
私は美術部で、筆を洗いに行く時、気分転換と称して冬でも外の手洗い場を使った。彼女がいる体育館が近かったから。

今考えると、恋愛ゲームのヒロインのような理想の女の子だった。純潔で、かわいらしく、ほどよく活発。
どちらかというと地味なタイプだったから、男の子にもてていたのかはわからないけど。私からみたら完璧なヒロインだった。
ただ、顔は思い出せない。やわらかでなめらかな肌、艶やかな黒髪、まつ毛、瞳、鼻、口、横顔、他のすべてを鮮明に思い出しても、顔の像を結ぶ前にゆるやかに解けてすり抜けていってしまう。いつも思い出す、教室の窓辺でこちらを向く君は、夕日を背負っていて、逆光で顔が良く見えない。

そもそも、教室で二人きりなんて、美嘉とそんなシチュエーションがあっただろうか。私たちの交流の場といったら、あの手洗い場だけだった。

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私たちが初めて言葉を交わした日は、焼けるように熱い日差しの日。コンクリートが作る影もいつもよりも数段濃く、ジリジリと音がしそうなほど、太陽がすぐそばからこちらを覗いていた。
いつも使う美術室の近くの水場が壊れていて、私は顔をしかめて外を見た。一番近い水場は体育館脇のあそこしかない。今日はとても暑いのに。

少し迷うな…。思考停止していると、学校特有の雑音が耳に入ってくる。わいわい、ざわざわ・・・遠くの方で教師が指示する声、女子たちの高い声とぱたぱたと走る音、運動部の笛の音、吹奏楽の管楽器の広がり、男子たちが下駄箱で帰り支度をする音。
なんだか、好きだなあと思った。今日はちょっと楽しくなれる日みたいだ。その勢いで上履きのまま外に出ることにした。

鼻歌でも歌うような感じで、さっさと水場に近づくと、手を出して蛇口をひねる。「きゅっ」と音が鳴った瞬間、「ざりっ」と室内履きがコンクリートの土を動かす音と共に、近くで物陰が動いた。彼女がそこにいることにまったく気がついていなかった私は、肩を上げて驚いた。

「驚きすぎ。」

その瞬間、何が起こったのかわからない。降ってきた声に振り向いた私は、美香の笑顔を見つけて固まった。驚きだけじゃない、私の中の『何か』が確かに吸い寄せられたのを感じた。
それはものすごい勢いと強さで、辛うじてわかったのは、ばくばくした心臓が止められないということだけ。

美嘉は直前までうずくまって泣いていたのだろう。ばさばさと音がしそうなまつ毛一本一本についた水滴が、とうめいに光って漆黒の濡れた瞳を華々しく囲っていた。当時はショートカットで、さらりと揺れるストレート。あの時は前髪が短くて、「今思うとこけしみたいだよね。」って、後日照れ笑いを見せてくれたっけ。

「う、うん。ごめん。」

ぼーっとした脳内で言葉を返しながら、目は身体をなぞっていた。健康的な肌の色。すらりと伸びた両足は、無造作に立っているだけなのに、彫刻のように完璧だ。胸の上に出来たTシャツのしわが、くぼみと凹凸を想像させて何とも煽情的に思えた。私は顔がどんどん熱くなっていくのを感じて、さっと素早くうつ向く。

頭上で、「ふふっ」と声がする。反射で顔を上げた瞬間後悔した。
唐突にわかってしまったからだ。彼女の笑顔に、その嬉しそうな声に、私の心はきっと一生敵わないのだと。

美嘉は話を続けてくれた。学年も性別も同じでよかった。話題には困らなかった。
また顔をそらしながら、今度は緊張がゆるんでいくのを感じる。ばくばくがいつの間にか心地の良いリズムに変わっていて、とくとくと音がした。彼女に敵わない、その初めての感情の爪痕は、ひどく甘く、反響して、いつまでも残った。


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「昔は女の子が好きだったんだ?」
隣にいるのは婚約者の忠である。大学時代にバイト先で出会った彼とはずっと友人関係だったけれど、一昨年の秋にモンゴルから帰ってきたタイミングで恋人関係にシフトチェンジすることにした。そのままコロナが流行りだしたので、結婚前提で半同棲からの同棲約6か月目だ。

「どうだろう。今も好きかも。笑」
酔っ払い特有のへらへらした笑みを浮かべて、私は言う。今日はとても気分がいい。
「あ、そうなの?」「え、おれ、大丈夫?」いつも通り独り言を口に出しながら自問自答する忠を横目に、オレンジ・ブロッサムを口に運ぶ。久しぶりに外食したので、二人でバーに来ていた。

忠のこういうところが好きだ。正直でわかりやすくて、自分が変わってると思っていて、他人にも全然偏見がない。どんな自分でも受け止めてもらえるとわかる。安心する。
でも、美嘉と過ごしたあの2年間は、強烈で、全部が楽しくて・・・。キラキラしていて、やっぱり何物にも代えがたい何かがあった。あの日々は、私だけの宝物だ。

振り返ると、私にとって『恋』と呼べるものは、美嘉の記憶と、忠と過ごした日々しか残っていないような気がした。大人になり、それなりに関係が生じたこともあったけれど、美嘉との時のような輝きもなければ、忠とのような安定感も愛おしさも無かった。

美嘉とは、顔を合わせれば挨拶をするし、毎週火曜日には何となく手洗い場に集合して会話をする距離感を保ち続け、そのまま卒業してから一度も連絡を取っていない。
あの日の美嘉は、バレー部の中で行き違いがあって傷ついていた。あまり接点がないということは、友達が多い美嘉にとっては弱音を吐くのにちょうどよかったみたいだ。私は美嘉のことを知れるだけで嬉しかったから、必然的に仲良くなれた。

私は、すごくラッキーだったと思う。充分に青春の甘い蜜を吸えた。一目見れたら嬉しくて、同性であるが故誰にも邪魔されず、一方的な恋心は、純度を高く保ったままここにある。
と同時に、行動を起こしていても、変わらない大切な輝きが、隠れていたようにも思った。日毎に惹かれるような、軽やかで鮮やかな心の機微は、思春期特有の繊細さと無防備さによって成立していた気がするからだ。

想像の中の美嘉がこちらを見て微笑んでいる。美嘉が結婚していても、離婚していても、子供がいてもいなくても、私の中の彼女は光と共にそこに在り続けるのだろう。

ふと思いついて言葉を紡ぐ。大げさでも投げやりでもなく、等身大で、それが当たり前のような気がした。

「ねぇ、忠、私たち結婚しようか。」

こちらを向いた忠が姿勢を正した。酒に弱くて私より酔っぱらっているはずなのに、目には不思議な力があった。
ああ、美嘉と同じ目だ。漆黒の瞳。

「うん。もちろん。」

そう言った彼の瞳を、捉えたまま目で微笑んだ。

突然、忠は立ち上がり、私の手を引っ張って立たせる。手を取られて、訳も分からないままお店を出る。

「ちょ、ちょっと!どうしたの!」

踏切を越え、店の閉まった商店街を抜け、忠が走り出す。らしくない。なんなの。
しばらく無言のまま走って、着いたのは近くの公園だった。

「結婚しよう。ありがとう。ありがとう吉乃・・・」
忠は、泣いていた。あんまりにもぽろぽろ泣くから、ちょっと心配になる。手にはくしゃくしゃになった婚姻届があって、私にも握らせてくる。涙が、俯いた忠の足元で砂に吸い込まれる。

私は、笑った。とても楽しかった。この人のおかげで、美嘉のおかげで。今まで出会ったみんなのおかげで、とてもとても楽しかった。
私は今日この日も一生忘れないと思う。この思い出は「私たち」の想い出になるだろう。

『想い出』になる忠は、俯いて泣き続けた。
私は、せっかくなら、と、歯を見せて飛びっきりの笑顔を見せた。

空を仰ぐと、暗闇に大きな月が浮かんでいた。月がとても明るくて、欠けてるけどまんまるで、満たされた気持ちになる。
『ちゃんとそこで見ていてね。』
ああ、きっと死の間際も思い出す。こんな瞬間を貰えるって、それってとても幸せだ。

私たちは他人だけど、他人だから、こんなにも想いあえる。支えあって生きていける。
私の想い出も、あなたの想い出も、私たちの想い出も、これからも沢山増えていって、毎日を重ねて、心が強く動く瞬間があって、それらが全部、私という存在と共に亡くなる。その瞬間まで、一緒にいられてもいられなくても、どうか、どうか幸せで。

『私は幸せだよ、美嘉。ありがとう。あの日々を、私にくれて。』

目から頬にかけてあたたかい何かがこぼれた。もう美嘉の『顔』を思い出すことは一生ないと思った。
月が揺れる。きっと忠が手を揺らし始めたせいだ。私は泣きながらまた笑う。明日はどんな日になるだろう。あなたが隣にいるから、きっといい日になるんだろう。

私が育ったのは、海も空も近い町でした。風が抜ける図書室の一角で、出会った言葉たちに何度救われたかわかりません。元気のない時でも、心に染み込んでくる文章があります。そこに学べるような意味など無くとも、確かに有意義でした。私もあなたを支えたい。サポートありがとうございます。